真・里見八犬伝




 フッ、と、風が吹いた

 頬を打つ雨粒に、奥村仁右衛門は目を覚ました。
 大粒の雨が、体を打っていた。
 身を横たえたまま、目玉をわずかに動かす。総身が痛み、呼吸するのも億劫だ。
 一体、自分は、どこにいるのか――

 眩暈がおさまると、朦朧とした視界の中に、樹幹がくっきりと浮かび上がった。
 茫漠とした意識が立ち直る。
 上野のお山か、と思ったときには、慌てて身を起こしていた。赤子の激しい泣き声が、いくさ場を引き裂くように轟き渡っていたからだ。
 仁右衛門は戸惑った。具足の下で、羽織がグッショリと濡れている。腕は半ば泥に沈みこみ、引っこ抜かねばならなかったほどだ。
 よほど長い間、気絶していたらしい。
 疲労と相俟って全身がおもだるい。胸には数層の裂傷がひらき、とまれやっかいなのは、胴体に三発ばかりくいこんだ弾丸だ。
 薩長腹の新式銃ときたら。仁右衛門の烈々たる戦意を、易々と奪ってしまった。
 痛みに堪えて身を返す。どうにか肘をついた。敵味方が踏み荒らして、地面は泥沼と化している。
 刀を探して這いまわると仲間の遺体があちこちに転がっている。
「いくさは終わったのか……?」
 彰義隊は負けたのか――
 そのわりに、銃声が散発的に聞こえてくる。にもまして、赤子の悲鳴は激しくなる一方だ。
「どうなってる?」
 ようやく刀を探し当てたが、激しい闘争のために、根本から折れ曲がっている。仁右衛門は舌打ちをして、死体の刀を奪いとった。



第一楫  奥村仁右衛門、里見一族に出会うこと



その一見 人狼、現れしこと



○   一

 雨は、続いている。
 時は、慶応四年。五月十五日のことである。
 江戸城は無血開城し、徳川慶喜はすでに水戸へと去っている。徳川家霊廟守護を名目に、彰義隊は、寛永寺にとどまり続けた。新政府と敵対し政府軍兵士を殺傷する事件が多発した。
 新政府が司令官として呼び寄せたのは、幕末における天才軍略家、大村益次郎である。
 大村は五月十五日に上野山に総攻撃をかけることを江戸中に布告した。市中に散らばる彰義隊士を一カ所に集めて殲滅すること、また戦闘を回避して逃げる時間を与えることを目的としている。事実、四千名を超えていた隊員も、決戦の間際には千名ほどに減ってしまっている。
 仁右衛門は旗本御家人らの子弟によって組まれた隊にあって、諸門の防衛にあたることになった。


 土砂降りの中、黒門口よりはじまった戦闘は、はじめのうち彰義隊優位に動いた。地の理を活かし、山王台からの砲撃をくわえることで、午前の間は、官軍を諸門に近づけなかった。
 が、会津藩兵に化けた長州軍が、藩旗を掲げ、彰義隊陣地に出現すると、背後を打たれた部隊は大混乱に陥った。時を同じくして、アームストロング砲が不忍池をこして炸裂し、薩摩兵の決死の吶喊がはじまる。
 各隊は総崩れとなり、ついには黒門口まで抜かれてしまった。
 圧倒的多数の官軍に囲まれ、彰義隊は寛永寺本堂まで退却している。
 仁右衛門は、生きたまま戦場に取り残された。


 山内の伽藍が、次々と焼かれている。が、彼の関心は徳川家の霊廟になく、赤子にある。刀を杖に彷徨し、やがて官軍の捨てたスペンサー銃を拾い上げた。声は近い。
 仁右衛門はスペンサーの操作を確かめながら進む。辺りを索敵しながら、木立の蔭を拾うようにして移動する。
 ――なんだ、あれは?
 低木の茂みに隠れ、折り膝の姿勢をとる。銃を構え狙いをつける。
 赤子が、いた。木の根の隙間を、揺りかごがわりにして転んでいる。仁右衛門の狙いはむろん赤子ではない。近付かなかったのは、赤子の目前に、化け物がいたからだ。
 化け物、としかいえない。人型をした狼が、人界に存在しないのならば、紛れもない。
 ――おれあ、死んであの世にでもいるのか
 と彼は疑う。その迷いを振り払うかのように、慌てて照準をつけ直す。人狼が赤子に向かって巨大な爪を伸ばしたからだ。
 仁右衛門は暴れる心臓を呼吸で抑え、レバーアクションをして排莢する。ハンマーを起こし、銃床を頬に当てた。
 スペンサーは七連発のはずだ。が、弾丸が、何発残っているかはわからない。
 眉に雨粒が流れ、視線が散じる。
 人狼の足元に、無惨に引き裂かれた死体が散開しているのが見えた。
「あいつの仕業か……」
 仁右衛門は無意識のうちに引き金をひいた。硝煙が雨中に舞った。人狼の頭部が揺れ、血が吹きだすのが見えた。見守るうちにゆっくりとその場にくずおれていった。

○   二

 銃を杖に、赤子の元へ急ぐ。
 敵も味方も、あの人狼が残らずやっつけたものらしい。動く人の気配がない。
 木の根元に行き、のぞき込んだ。赤子は紫の衣にくるまれて、小さな手をばたつかせている。生後半年ほどにみえた。
 血に濡れた指を添えてかき抱くと、雨のためにその衣はすっかり濡れそぼっている。が、どうやら怪我はなく、わずかにしゃくり上げるばかりである。
 丸々とこえた赤子で、ズシリと重い。
 仁右衛門は安堵の吐息をつくと、半襟を開き、赤子を懐に抱き入れる。
 地獄の釜底より沸き上がるような唸りが背後より轟いた。
「貴様……」
 仁右衛門は、樫の木に背をうち当て、振り向いた。
 右頭部は大方砕け、脳すら露出していた。死んだと思われた人狼が、口より白煙を吹き出しながら立ち上がる。怪しく光る両の目を、仁右衛門にひたと押し当て、
「貴様、表の家人か」
「なんだと……?」
 仁右衛門は銃口を下に向けると、夢中でレバーを押し下げ装填し直す。引き金をひいた。カチリ。空しい音がする。
「不発かっ」
 仁右衛門は夢中でレバーを操作し、コックをいじくる。が、弾のないのは明白だ。
「表の貴様が里見殺しの邪魔立てか! 奴等の血筋を守って何になる!」
「黙れ!」
 空の銃を投げつける。
 妖狼はやすやすと払いのけた。
 仁右衛門は大刀を引き抜いた。が、傷は重く、木立ちを離れることができない。
「貴様、何者だ。なぜこの子を狙う」
「知れたこと、食らうのよ」とせせら笑う。「さすれば里見の霊力はわしのものだ!」
 仁右衛門が惑う内に、人狼が腕をあげた。
 巨大な爪が一つに揃った。かと思うと、喉笛めがけて飛んでくる。
 仁右衛門は、転げるようにしてかわしたが、首の皮一枚切られた。
 背後の樫が怪力に砕かれ、木片が降ってくる。
 人狼が牙を剥いて追ってきた。
 仁右衛門は落ち葉を掻き集めるようにして赤子を抱いた。
 もうだめだ――
 死を覚悟したとき、数発の銃声が、殺戮の場を切り裂いた。


その二見 天海坊、現る




○   一


 里見の里を目指していた天海は、連れの新兵衛とも逸れ、一人上野のお山を彷徨っていた。
 自分の迂闊さ加減には、泣きたくなるばかりだ。
 タタリ神は江戸には入りこめまいという油断があったのだ。権現以来、幾重にも張り巡らされてきた内府の結界にも、いよいよ綻びが出てきたという事だった。
 それよりも今は新兵衛が心配だ。手練だが、もはや八十を何々とする老爺である。まして、伏姫を守りながらとなると……
 天海は身内を焼くような焦りに追われて、脚を急がせる。新兵衛の持っていた、仁の珠の気配を感じない。
 十郎兵衛は人目を避けたはずである。自然、彼も戦場から遠ざかる。
 天海は雑木林の一角に老人の遺体を見つけた。
「新兵衛どの……」
 刀を握りしめたまま俯せに倒れている。周囲の下草に揺れる血滴は、まだ新しい。
 大地は老人の血液を残らず吸い取ったようだ。
 新兵衛めは宝玉を自在に使いこなし、法術では犬土随一の伎倆を誇る男である。まさかと思った。が、老人の装束は、間違いなく犬江新兵衛のものだ。げに恐ろしきは十郎兵衛である。
「新兵衛どの……」
 彼にとっては、赤子の砌より、親となり師匠となってきた。天海も新兵衛になつき、時おりの帰郷が何よりの楽しみだった。彼の血肉の半分をつくったのは、今や物言わぬ老人である。
「新兵衛どの……」
 震え声で指を伸ばしたとき、懐にいれた義の珠に脈動を感じた。天海はわれに返って、振り向いた。
 銃声だ。
 戦場とは間逆の方角で、かなり近い。人の罵声と、獣の咆吼が轟いた。
 天海は新兵衛に顔を向けると、名残惜しげに目を閉じる。少し、拝むしぐさをすると、騒動の中心に向けて、一散に駆けはじめたのだった。

○   二

 薩摩兵の立ち射撃が続いた。
 銃丸のいくつかが人狼を射ぬき、仁右衛門の体をも掠める。人狼――十郎兵衛の血が舞い、顔にかかってくる。
 チェスト、の掛け声に、薩摩兵か、と彼は呟く。
 薩人らはいっせいに銃を放り出し、吶喊をはじめた。
 仁右衛門は、体を折って赤子を守ると、古木の幹裏へと回りこんだ。群がる人間どもに十郎兵衛が雄叫びを上げている。その威嚇の凄まじさは、六尺を越す樹幹をビリビリと震わすほどだった。
 仁右衛門は観念した。さらに傷口が開いた。出血が止まらない。懐を流れ落ち、ふんどしどころか、袴までグッショリと濡れそぼっている。激痛が神経をおかし、手足がきかない。逃げなければ、と思ったが、腰は意に反して砕け、木根の隙間にヘたりこんでしまった。
 赤子と目があう。
 刀を抱くと、うめくように囁いた。
「すまぬ、お主を守ってやれん」
 背後からは殺戮の音が凄まじかった。それに反して、胸元の赤子は奇妙なほどに温かい。
 仁右衛門は自身のふがいなさを呪った。師とも兄とも仰いだ男を守れず、昔の仲間もてんで散り散りだ。今もまた、懐にすっぽり入る、小さな赤子すら守れず、失意の内に死のうとしている。
 首を垂らし、クックッと肩を揺らす。
 そんな仁右衛門が顔をあげたのは、赤子が小さな手を伸ばして、頬に触れてきたからだ。
 子は、ダアダアと、言葉にならぬ声を発しながら、何かを仁右衛門に差し出している。
「何だ何を持ってやがる」
 できたての紅葉のような手のひらで、黒い石のようなものを握っている。それを懸命に差し出しているのである。
 仁右衛門が目を細めていると、玉で額を叩いてきた。近づくと、さらに強く。
「妙なもんで、人を殴るな」
 無意識のうちに手を差し出す。と、赤子は、その掌に珠を落とす。
 仁右衛門は喉がつぶれるほどに、息をのんだ。真っ黒でゴツゴツとした鉄(と彼は思った)の玉が、突如として光芒を放ち、手の内でくるりと回転をはじめたからだ。感触まで変化して、奇妙なほどに艶やかになる。握りしめると回転は止まったが、純白の光は居残っている。
「そんな……」
 だけでなく、全身の痛みが強風にふきはらわれたかのごとく、スーッと引いた。胸元をグッと開くと、血は残っていたが、傷口が徐々に塞がっていく。
「ど、どういうこった」
 赤子がペチペチとほおを叩いた。
「な、何だよお」
 珠に目を落とす、両眼の高さまで持ってきた。仁右衛門は驚いた。
 珠の中芯には仁の文字が黒々と浮かび上がっていたからだ。
「こんなこんなばかな。これじゃあ馬琴の読本じゃねえか」
 とまれ、傷が消えたのは確かである。仁右衛門は夢中で捨てた刀を引き寄せた。
「何が何だか知らねえが、これでもう一働きできらあ」
 片手で襟を開くと、赤子は一心に彼を見つめている。仁右衛門は手を赤子の尻に添わして、
「おめえ、ちょっとそこから出ろ、懐から出ろって」
 が、赤子、仁右衛門にしがみつき、いっかな離れようとしない。どういう力をしているのか、タコの吸盤のようになって仁右衛門が引こうが押そうがビクともしない。
 仁右衛門は赤子を胸に仕舞って立ち上ると、
「えい、肝のふてぇ野郎だ。共々死んでも知らねえぞい」
 と呼ばわったことだった。

○   三


 背を幹に背をはりつけ、僅かずつ十郎兵衛の側に回り込んでいった。眼下に薩摩兵が無惨な姿を晒している。屈強の薩摩隼人を易々と引き裂くとは、途方もない大剛力だ。
 仁右衛門は幹の影から向こうを覗いた。十郎兵衛めは、駆けつけた天海と対峙している。仁右衛門側からみると、僧兵のなりをした男が、長大な槍を十郎兵衛の喉元に突き付けていた。十郎兵衛もその男には容易に手を出せないらしく、自然体をとったまま睨み合いをつづけている。
「あのクソ坊主はおめえの仲間か?」
 雨足はいやまして強くなり、一同の足元は、雨水がたまりにたまって泥濘と化した。が、雨は仁右衛門めに味方したようだ。ふきしぶる雨は、彼の臭いを掻き消した。赤子に雨がかからぬよう少し身を屈める。股立ちを高くとり、わらじを脱ぎ捨て素足になると、泥に足をつきこんだ。

 抜き身を右手に、左手では赤子を抱き、足を挙げずに腰を推進させていく。胸元で宝玉が蠢く――と、天海が顔を上げた。坊主は知らぬ顔を決め込もうとしたのだが、仁右衛門の胸元に見知った頭が蠢くのを見て、声を上げた。
「伏姫か?」
 十郎兵衛が振り向くのと、仁右衛門が勇躍飛び上がるのは同時だった。これまで出したことのないような膂力が全身に湧いて、刀は凄まじい勢いで、十郎兵衛の右肩に舞い落ちた。
 殺った、と思った。が、その意に反して刀は皮膚に弾かれる、十郎兵衛の毛皮の上を滑った。体が流れた。獰猛な爪が仁右衛門の喉首を追ったが、天海の刺突に阻まれ、十郎兵衛も蹈鞴をふんだ。
 仁右衛門は刀をあらためる。刀身には僅かに血液がついていた。が、まるで斬れていない。
「なんだこの野郎は、どえらくかてえぞ」
「貴様、玉持ちだったか!」
 と十郎兵衛がカッと睨む。
 仁右衛門は伏姫を守ろうと強く抱いた。赤子は先ほどとは打って変わって、泣きもしなければ身動きもしない。仁右衛門の体に、不可思議な力で塗りかためているかのようだ。
 天海が槍を小刻みに動かし、十郎兵衛を遠ざけながら、側に躙り寄ってくる。
「なぜ貴様が、宝玉を持っている」と訊いた。宝玉は八つしかない。「まさか、新兵衛殿の玉か?」
「新兵衛だと? そいつあ、まさか……」
 二人がハッと顔を上げた。十郎兵衛がグルグルと喉声を上げていたからだ。
「犬士どもめ……」
 十郎兵衛の脚爪が、深く地に食いこんだかと思うと、一息に跳躍した。
 大きくひらいた両の腕を一挙に閉じる。
 仁右衛門は身体を捻りこれを躱した。十郎兵衛の爪の鋭さは日本刀と変わらない。それが頬をかすめて、吹っ飛んでいった。仁右衛門は躱すときの捻り動作を利用して、十郎兵衛の胴に刀身を叩きこんだ。刃は充分に立っていたはずだが、褐色の毛が斬れるばかりでまたも弾きかえされた。固いというよりも、何かが邪魔をしている感じだ。
「おい剣術使い!」天海が槍を突き出し牽制する。「宝玉の力を刀にこめろ! 普通にやっても、こやつは斬れん!」
 宝玉だと?
 仁右衛門が眉を顰めたその時、身体の中芯が光り輝いて、何かが全身を通っていった。宝玉か、と思った時には、手にした刀の芯から、目には見えない煙のようなものがあふれ出していた。

○   四

 瞠目したのは天海も同じだが、仁右衛門もまた自身の変化に驚いた。地の底から起こった激流が、全身を駆け巡るかのようだ。仁右衛門は、呻きを上げながらも、激動に耐えた。
「これが宝玉の力なのか!」
「そうだ。そいつを十郎兵衛に叩きこめ!」
 と天海が喚く。
「貴様! 里見一族の者だったか!」
 十郎兵衛が雄叫びを上げ迫ってくる。
 仁右衛門は右足を進めて半身となった。長年の修行だけが、彼の体を突き動かしていた。激突するかと思った時には、懐に飛びこむ十郎兵衛を逆袈裟に切り上げていた。
 無心の一刀が胸元を引き裂く。十郎兵衛は鮮血を散らしながらも方向を変え、木々を蹴り上がって枝葉の中へ姿を消した。
「駄目だ、仕留めきれなかった!」
 十郎兵衛の呪詛の声が延々木霊してくる。
 仁右衛門はその場でグルグルと回転しながら十郎兵衛の動きを追った。
「何だあれは?」
 と瞼をこする。
 天海が側に来る。
「一体どうした?」
 と訊いた。
 十郎兵衛の姿は見えないが、化け物の動きにともなうようにして紫に輝く雲のようなものが、樹間をヒラヒラと飛び回っているのである。
 説明を聞いた天海が、
「なぜだ、なぜ貴様は宝玉が使える?」
「そんなもん、知るもんけえ!」
 仁右衛門は天海の手を突っぱねる。だが、天海は仁右衛門に目もくれない。
「伏姫か? それは伏姫の力ではないのか」
 天海の手が懐に伸びてきた。
 仁右衛門は反射的に飛び退いた。
「何の真似でえ、この唐変木、こんなちびっけえのに何ができるってんだ!」
「その子はただの赤子ではない。貴様にはわかるはずだぞ」
 仁右衛門は反論しようとしたが、出来ずに黙ってしまった。突然あふれ出した力は、宝玉のみならず赤子が操っているようにも感じられたからである。
 ともあれ天海は、仁右衛門の沈黙を了承と受け取ったようだった。
「わしは義の玉を持つ。名は天海」
 大層な名乗りをしやがってこの野郎、と思いつ、
「天然理心流門人、奥村仁右衛門だ」
「よかろう」と、天海はうなずく。「十郎兵衛は新兵衛殿との戦いで手負いになっておる。あやつを倒すには今しかない。手を貸せ」
「玉の説明はどうしたい」
「全て終わった後にしてやる」
 と、天海。
 諸々生きてりゃいいがな、と仁右衛門は一人ごちた。


その三見 新米犬士の妖怪退治




○   一

 おのれ八犬士め!
 十郎兵衛は激高していた。激高のあまり妖気が大量に漏れ出ているのにも気づかぬほどだ。
 十郎兵衛は八百の齢を重ねる古の大妖怪である。その年月で何度も現世(うつしよ)に現れては、里見一族と戦い続けてきた。八犬士どもは厄介な連中だが、たかだか数十年しか生きられない。八犬士随一の法力を誇った新兵衛めも、ついには年老い自分の前に屈したではないか
 とまれ、新兵衛を倒した代償はでかかった。
 かほどの手負いで八犬士の二人を相手どるのは少々きつい。が、奴らまだ若いし、うち一人は今日目覚めたばかりと見て取れる。
 奇妙なのは突如として割って入った表の家人だ。最初のうち、奴は霊力をつかわなかった。新しく八犬士が生まれたという情報も得ていない。とすると、あやつが持っているのは犬江新兵衛の宝玉のはずだ。
 たった今手にしたはずなのにもう使いこなしはじめている。
 赤子だ。これはあの童の力のはずだ。と十郎兵衛は思った。あの赤子こそ伝承の童のはずなのだ。新兵衛と天海が命を賭してでも守ろうとしているのが、何よりの証拠ではないか。
 あの赤子が何としてでも欲しかった。手ぶらで黄泉に戻るつもりは毛頭なかった。
 見ておれ、八犬士ども。赤子はわしのものだ!
 十郎兵衛は一計を案じると、妖力を練り出した。

○   二

 仁右衛門は天海に背を預けるようにして、十郎兵衛の跡を追った。妖気を消しているらしく、居所を探れない。
「くそ、どこだ!」
 と刀を立ててその場を回る。
「落ち着け、仁右衛門」と天海が声をかける。「今のお前なら、かすかな妖気も辿れるはずだ」
 かもしれん。
 仁右衛門は一呼吸をつくと、剣尖を垂らした。視野の焦点をぼかし、全体をとらえるようにした。剣術で学んだ『観の見付け』である。
 彼の意識は視界とともに茫漠とひろがった。観の目付けの中に、違和感が徐々にだが浮かび上がった。
 仁右衛門はたった今覚醒したかのように顔を上げた。虚空の一点から紫の糸が四方に伸びている。
「やべえぞ、坊主!」
 その糸の先は、さきほど倒れた薩人たちに繋がっていた。残らず死体と化していたはずだが、皆手足をばたつかせて起き上ろうとしている。
 天海が呻いた。
「十郎兵衛め、傀儡術まで使えるのか」
 薩人たちは死後硬直の憂き目にあったようで、かつての勇ましさは少しも見られず、下手糞な人形浄瑠璃よろしくぎくしゃくと立ち上がっている。
 胸元の伏姫がその動きを不快がるように鼻を鳴らした。
「どうする天海」と仁右衛門は問いかけた。「いくら薩人でも死体を斬るほど憎かねえや」
 天海が耳うった。「あれだけの死人を操るに、今の妖力では足りまい。奴も焦っている」
 仁右衛門は頷いてみせた。天海は、
「死体で我々は殺れん。十郎兵衛もそこはわかっている」
 どこかで勝負をかけてくるはずである。
 天海が、木上に向けて呼ばわった。
「こんな未熟な傀儡の術で我等の命をとれると思うな。ケリをつけたくば、姿を現せ!」
「天海!」
 と仁右衛門は天海坊の肩を突いた。薩人たちは初年兵のように未熟なうごきだが、エンフィールド銃を取り上げて操作をはじめた。あれよと思うまもなく、こちらに照準を向けてきたからたまらない。
「あの薩摩っぽども、動きは鈍いが鉄砲を使ってくるぞ」
「これはまずい」
 法術を使える天海も鉄砲だけはいけない。
 仁右衛門は薩摩兵の側面に回り込まんと駆け出した。天海が頭上に紫の雲が現れるのを見たのはそのときだった。
「見ろ、仁右衛門!」
 仁右衛門が上に気をとられると、伏姫が胸を叩いた、彼は正面をむいた。十郎兵衛の生首が喉笛目掛けて飛んでくる。眼前に刀を立てると、その刀身にむしゃぶりついてきたのだった。
 十郎兵衛が烈しく頭を打ち振る。首だけだというのに、腕ごとヘし折られかねない大剛力だ。仁右衛門は左右に体をふられて蹈鞴をふんだ。
 天海が仁右衛門を救おうと槍をしごいたとき、十郎兵衛の胴体が背後より襲い掛かってきた。真冬の氷柱のように鋭い爪が、彼の肩に食い込んだ。
「おのれ」
 天海は槍を背後につきだし、石突きで十郎兵衛の腹を打った。
 胴体は蹌踉めきつつも後方に向けて飛び退り、再び樹上へと姿を隠した。頭の方も苦悶の声を上げて地面に落ちた。恐ろしい速さで蛇行し、藪の中へ隠遁したのだった。

○   三

 仁右衛門は十郎兵衛の後を追おうとしたが、追えなかった。
 十郎兵衛は『体を二つに分ける法』を用いて、頭と胴を二つに割っている。胴体が何をしでかすかは、頭の方にもわからないというありさまだった。
 二人に気を抜いている暇はなかった。そのときには薩人たちが生前修練を積んだ示現流の構えで、殺到していたからだ。
 死人どもはおよそ人間離れした動きをする。妖糸に吊られ、滑るように近接してきた。剣術に慣れた仁右衛門には、予測のつかない動きだ。示現流とは市中で幾度かやりあったことがあるが、こたびの相手はよほど手強い。
 腹を断ち割られ、臓腑の大半をなくした男が、真っ向振りおろしてくる。
 仁右衛門が抜き胴を見舞うと、男はまるで躱す動きをしない。残った胴は一刀両断となった。
 上体は地面に落ちてバタバタと暴れたが、下体はまだ突進を続けてくる。
 仁右衛門がこれを右脚で蹴倒すと、新手の薩人が左右から襲い掛かってきた。仁右衛門は戸惑った。一人は顔を柘榴にされて、まぎれもなく死んでいたが、右の男はまだ生きていた。苦悶の声を上げ、十郎兵衛の妖力に抵抗している。
 死人の首はたちまち跳ねてしまった。が、生き人に対してはさすがにためらう。
 蜻蛉の構えから、刀が落ちてくる。仁右衛門はやむなく受けた。動きこそ緩慢だが、妖力を受けた薩人の膂力は凄まじい。危うく押し負ける所だ。
 その待には確かに意識があった。妖術に封じられ、声こそ出せないが、その口は、殺してくれ、と形作っていたからだ。
 仁右衛門は刀を受けたまま、一呼吸、二呼吸、と息をついた。
「御免!」
 仁右衛門の一刀は男の両腕ごと、袈裟型に二つにしてしまった。
 こいつあ我ながら恐ろしい力だ。今なら近藤先生にも勝てるかもしれねえ
 刀を確かめると、骨まで断ったのに刃こぼれ一つしていない。俺まで化け物になったみてえだ、と彼も驚いたことだった。
「仁右衛門、何を呆としている」
 天海の怒鳴り声に仁右衛門は我に返った。八犬士の面目躍如というやつだ。功みな槍術で、死人どもを仁右衛門に(というか伏姫に)近づけないようにしている。
 仁右衛門は刀に血振いを施すと怒鳴った。
「天海、薩人どもは任せたぞ!」
「ええい、外すなよ!」

○   四

 仁右衛門は、天海の闘争に混じるふうを装って、必殺の一刀をみまう機会を待った。
 二人の足元には、動きこそ止めないが、戦闘不能に陥った傀儡の群れが出来上がった。
 十郎兵衛はどこだ、どこから来る!
 仁右衛門は法力まじりの『観の目』を使って妖気の出所を探ろうとした。ときおり片手斬りに薩人たちの手足を払い、どうにか視界に集中する間を持とうとする。
 それよりも十郎兵衛の集める動く死体はずっとずっと多かった。集まってくる待たちも、長州兵、肥後兵、幕府勢と全くもって見境がない。中には仁右衛門と顔見知りの御家人の姿もあるのだから始末におえない。
 十郎兵衛は妖力が尽きてでも三人を仕留める腹積もりのようだ。
「十郎兵衛!」天海が大槍を小脇に抱えて呼ばわった。「傀儡で我らは討てぬとわかったであろう……!!」


 十郎兵衛の攻撃はまさにその間隙をつくものだった。
 仁右衛門の背後にいた幕兵の背中を攀じ登り、その肩口に踊り出ると、仁右衛門めに牙をむいた。


 雨が引いていく。
 驟雨は霧雨に変わって樹間を舞い落ちていた。
 仁右衛門がこの攻撃に気づけたのはひとえに伏姫
のおかげである。どこに力があるのか知れないが、胸を押されると、たちまち上体が捩れて半転する。芋虫みたいなチビ助が法力を操っていることは疑いがない。
 仁右衛門は十郎兵衛の姿を視認するよりも早く刀を振り上げ、生首の顎を切り上げた。ガッ、と胸まで轟くような手応えがあった。十郎兵衛は蹴毬のように跳ねとんだが、死人を操り、自身の生首を受け止めさせている。
「おのれ若造! 赤子を寄越せ!」
 十郎兵衛は最後の言葉を口にしたままの形で固まった。その眉間からは槍の穂先が突き出ている。天海が十郎兵衛を抱く男ごと突きをくれていた。槍身は、死人の胴体もろとも串刺しにしている。
 天海が喚いているが、仁右衛門はそのさまを見ておらず、また何も聞いていなかった。彼は生首を斬り上げた勢いのまま半転し、袈裟切りをみまっていたのだ。彼の刀は十郎兵衛の肩口から肋をいく本も断って、臓腑を斬り破り、腰骨まで切り抜けていた。
 十郎兵衛は、首・胴ともども声もなく妖気を四散させると、胴体は膝より頽れ、生首は地面に転がり落ちて、泥水の中に鮮血を広げさせていったのだった。


その四見 新米犬士、里見一族の、秘密を知ること




○   一

 十郎兵衛が死ぬと、傀儡の術もとけ、この官・幕とりまぜた奇妙な軍隊も、元の死体に戻っていった。
 仁右衛門たちの足下にはバラバラの斬殺死体が山となっている。
 仁右衛門と天海は並んで立って、十郎兵衛の生首をボンヤリと眺めた。
 辺りには濃い霧のように死臭が立ち込めていた。
 魑魅魍魎が現にあって、地獄も存在するならば、ここがそうだと仁右衛門は思う。
 思い出したように伏姫が泣いた。
「一体、どういうことだ」
 と彼は言った。
 天海、無言で彼を見返す。
「八犬士の話は馬琴の戯作のはずだろう。そもそも」十郎兵衛を顎で指し、「こいつあ一体何だ!?」
 天海は何か答えようとしたが、素早く辺りを見回し、手を上げて仁右衛門を制した。
「様子がおかしいぞ」
「何だ、あいつをやっつければ全て話すと言ったぞ」
 天海は仁右衛門を押しやって、木陰に身を隠す。
 指物を見ると、肥後兵のようだ。一時は彰義隊を追って四散したものの、闘争の音を聞き付け集まって来たものらしい。
 官兵の目線を避け、地を這うような姿勢で疾走した。
 背後から、人の名残を留めぬ残骸を見つけた男たちの、呻き声やら喚き声が聞こえてきた。

○   二

「ことの起こりは古代天皇家よ」
 と前方に別の兵隊を見つけて、天海は立ち止まる。
「天皇だと?」
 と仁右衛門は聞き返す。
「実際には、皇家を興すことになる男の話だよ。当時世に溢れていた魑魅魍魎を裏の世界に封じたのだ。そのことに里見一族も関わっていた」
「裏の世界ってなんだ」
「我々はそう呼んでいる。表の」と地表を指差し、「世界と区別してな」汗を拭う。「ともあれ、全国に張り巡らされた結界とともに妖怪どもはふうじられた。神武天皇の御世よりもはるか昔の話だ」
「では、この玉は何だ。本物か? 犬江新兵衛の持ち物なのか?」
 待たちが移動すると、天海も大股に移動をはじめた。
「馬琴の物語は読んだことがあるようだな。あれは裏の家人のことを聞き知った滝沢(曲亭馬琴、本名)が、戯作としてまとめたものだ。本の大半は馬琴の法螺話だが」と天海は鼻を鳴らす。「馬鹿な男だ。裏の者に目をつけられて視力を失いおった」
 失明しながらも八犬伝を書き上げたのは、仁右衛門も知っている。
「その玉は里見家に代々伝わり、裏の者との戦いを支えてきた。里見家を守護する霊力がこもっている」
 その話をもとに八房の物語を創作したのだろう。
「当時天皇家のもととなった男がどんな術を使ったのかはわかっていない。八百万の妖怪どもを別界に封じたのだから大したものだ」赤子に目を落とした。
「その子は、伏姫という」
 仁右衛門は目を見張る。
 天海が言った。
「正式にはまだ伏姫ではない。伏姫とは、結界の中心にいて、結界を守護する巫女の名乗りをさすのだ」
「この子は次の伏姫なのか」
 さよう、と天海。「今の伏姫は高齢で力は弱っている。我々は次の伏姫を早急に探し出さねばならなかった」
 その役目に天海と犬江新兵衛が選び出されたわけだった。
「そんな馬鹿な。そんな巫女の話は聞いたことがねえ。第一、結界の中心ってな、どこだ」
「むろん、出雲大社よ」
 仁右衛門は不満げに黙りこむ。
「だが、結界は永続するものではない。結界を保全し、綻びを正す者が必要だ」
 綻びれば十郎兵衛のようなものが出てくるというわけだった。
「それが里見一族か?」
「無論里見一族以外の者も天皇家には仕えてきた」
 天海は重々しく息を吹いた。
「政権が武家に変わった後も、我々は裏の家人として歴代将軍家に仕えてきた。むろん裏の者供を封じ込めるためだ」
 仁右衛門が目を剥いた。「歴代将軍家だと? それは徳川家も含むのか?」
 無論、と天海は頷く。 
「この混乱の最中、新兵衛どのまで亡くなられるとは……」
 天海が茂みを抜けてつくねんと立ち止まる。
 仁右衛門も後につづいた。
 二人の足元には小柄な老人が手足を投げ出し横たわっている。わずかに首を傾け。わずかに口を開き。雨粒が二度と動かぬ唇にポツポツと降っていた。
「この男が犬江新兵衛」と仁右衛門は言った。「老人だな」
 天海は寂しげに笑い、
「なに、馬琴とはじめてあったときはまだお若かったのだ」
 せめて埋葬だけは、と天海はしゃがみこむ。
 犬江新兵衛はわずかに泥に埋まって、その周囲は雨水が川となって流れていた。半世紀以上を漂泊に過ごした男は漂白の中で命を落とした。水は止まぬことのなかった人生を現すように流れている。流転。天海は老人の背に手を差し入れる。泥が羽織に貼り付いて意外なほどに重かった。

○   三

 どこをどう歩いたものか
 身に当る雨に気がつく。黒門口に仲間と集った今朝のことを思い出す。
 官軍を打ち倒そうと意気込んだのが幾層も昔のことのようだった。
 彼は天海の隣を。この男が吐き出した言葉を、その一歩一歩で咀嚼するかのように歩いている。いつまで経っても噛みきれない、固い獣肉のようであった。二千年の年月で風化しきっているのだから、固くも当然。
 生まれてこの方、並の御家人でしかなかった彼には受け入れがたい話ばかりだ。
 犬江新兵衛の行李を背中にしょい。何を詰めているのか、奇妙に重たい。
 黙然歩く坊主の姿が、奇妙なほどに寂しく見えた。

○   四

 仁右衛門は追っ手を避けて、江戸を一望できる丘陵まで辿りついた。
 犬江新兵衛にとっては恒久の住処となる穴を堀りおえた時には、夕刻の帳が降りていた。
 日は暮れて獣は呻き。暗渠に横たわる老人を見つめていると腹の奥底から沸き起こるようなうら寂しさがあった。
 伏姫が手を振るような仕草を見せると、天海はクッと唇を引き結び、集めた石を一つ一つと骸の上に敷き詰めていった。
 やがて土を被せ終わると、ひどく簡素な墓ができた。誰もここに、高名な犬江新兵衛が眠るとは思うまい。
 もう火はとっぷりと暮れている。
 眼下に、江戸の灯があった。
「その子がな」
 一言もなかった天海が、おもむろに言った。
「特別であることはお主にもわかったはずだ」
「まだ赤子ではないか」
「だからこそ守ってやる必要がある」
 新兵衛も守って死んだのだなと仁右衛門はボンヤリと思った。
 彼は仁の玉を懐よりだした。闇の中で宝玉の薄い輝きが三人を照らした。
「玉は人を選ぶと言ったな」
「かれこれ二千年の話だ」
 里見家の血が表の家人に流れていたとしても何ら不思議はない、と天海は言った。
「共に来い仁右衛門」
「行ってどうなる」と睨む。「妖怪どもと戦えというのか」
「主らは敗れた」
「ここではだ。俺は徳川の御家人だ、将軍家のために戦って死ぬんだっ」
「では、これからどうするのだ。官軍と斬りあって死ぬことが望みか」
 そうではあるまい、と天海は小声で言った。
「お主は仁の珠に選らばれた。偶然とはわしには思えん」吐息をついた。「天皇家は力をなくした。将軍も、もういない」
「徳川家は残っている」
 天海は急に彼に向くと、強い目で彼を睨んだ。
「けいき公はな、日の本を守るために、涙をのんで将軍職を辞されたのよ。裏の戦いに専念するために」
「何だと?」
「慶信公は、裏事をになうために、表の将軍職を辞去なされたのだ。薩長では、魑魅魍魎は抑えられぬゆえ」
「じゃあ旦那は、裏の家人をまとめるために負けを呑んだってえのか」
「ことは徳川薩長に収まる話ではない。このまま結界が崩れればどうなる。夷狄に四海を囲われた状況で、異界の化け物を対手には出来まい」
 馬鹿な、と仁右衛門は言ったが、その声は自分でもわかるほどに小さく揺れた。
「徳川のためにお主ができることは何もない。これからは日の本のために働け」
 仁右衛門が急に立ち上ると江戸の方角から風が吹きつけ、彼の月代を払って逃げた。
 江戸での日々が、不意に胸裡に押し寄せる。
「おれあよお、あんなにばか強かった近藤さんが、首かっとばされておっちんでよお、その仇が討てりゃそれでよかったんだ」
 双眸に熱いものが込み上げ、たまらず唇を噛みしめた。
 上野のお山で討死にのはずが、無闇に生きている。死んだ近藤たちが助けてくれたのかと思うと、落涙が頬を湿らせるのだった。
 元は神道無念流の免許持ちであったのが、他流試合で近藤に敗れて師事すなった。牛込の試衛館にはそうした食客がゴロゴロしていたのだが、理由といえば近藤の人柄というほかない。
 が、世は幕末の動乱である。江戸ではコロリ流行りで、世相も剣術どころではなくなっていた。道場経営に行き詰まった近藤は、浪士組の募集を決意して京にのぼることを決意した。
 仁右衛門はこれで歴とした御家人だから江戸を離れることはなかったが、それでも時折戻ってくる面々と旧交を温めてきた。
 新撰組を発足させた近藤たちは大いに威を振るったが、時勢にはかなわず、幕府と命運をともにしてしまった。
 だが、仁右衛門の心には試衛館でともに過ごした日々が、熱く太く根を張っている。
 天海は、そうか、と答えたぎり、江戸に向いた。
 伏姫がそんな二人をあやすように声を立てている。
 仁右衛門は強く息を吸い、吐息をついた。
「こいつを出雲に届けりゃいいんだな」
 怒ったように言い、手っ甲で涙を拭う。
「いいだろう。乗りかかった舟だい、手は貸してやる」
 口にしてから、ふいに江戸というものが、胸のうちから急速に遠ざかるのを感じた。
 その寂しさを埋めるように、伏姫を抱いた。


その五見 新米犬士、八房に会う




○   一

 御府内に潜入すると、官軍の捕手で市中は溢れている。仁右衛門らは武装をといて物乞いに化けている。
 あちこちの寺に侍が詰めているので覗いてみれば、新徴組である。市中警戒と称しているが、この連中とて得体がしれない。
 伏姫が泣き出すかと思った。恐ろしいめにもあったし、もうずいぶん腹も減っているはずだ。ところが、夜の江戸をそぞろ歩く間、この赤子はこゆるぎもしない。もしかして死んではいまいかと懐を確かめるがスヤスヤと眠っている。
「いってえどういうガキだい」
「里見家当主の血筋よ。肚も据わっておろう」
 それにしても、と仁右衛門は思った。
 江戸も無政府状態となって、混迷している。
 府内の直参が彰義隊に呼応するのをおそれて、官軍の一隊が要所の橋を押さえたかと思えば、落ち延びてきた彰義隊とかちあう。
 上野の伽藍に火事場泥棒の市民が集い、かと思えば、市内に火を放つ不逞の輩も出る始末。世の騒ぎときたら、黒船出現どころではない。
 ともあれ、市中には、木戸、番所がいたる所に配置されて思うように動けない。救いは、その辻番所に詰めているのが、江戸市民、幕府家人であったことで、彰義隊の落武者には同情的である。仁右衛門と同じく彰義隊に参加して、番所に匿われている者もあった。
 落武者狩りに引っかかって闘争する者たちもあったが、助けることもならず、仁右衛門は歩を進めるより他がない。
 三味線堀に影が落ちた。お堀の向こうに伸びる白壁は、松平下総守の下屋敷である。
 いつもは閑散としているが、あちこちで篝火が焚かれ、下谷の武家地まで騒然としている。

○   二

 下谷にある御徒町組屋敷にたどりついたときには、日もあけかかっていた。
 奥村家の拝領屋敷は、御徒衆大縄地の一角にある。二本の柱に備えつけた、簡素な門の向こう。七十坪ほどの敷地に、古い平屋が建っている。
 奥村家は代々の御徒衆で、この平屋も歴とした拝領屋敷である。御徒とは、将軍の身辺警護をおこなう役職だが、普段は城内の詰め所にいて、江戸城の警護に当たっている。


 垣根越しに覗く。
 森閑――としている。
 一帯の組仲間でも、彰義隊に参加した者は多かった。ために人気が絶えている。
 仁右衛門の心配は、妻おたみにあった。
 奥村夫婦には、子がない。養子を迎えるべき所だったが、幕末の騒ぎの中で伸び伸びになってきた。
 現当主である仁右衛門が死ねば、奥村家は断絶である。
 仁右衛門も相応の覚悟で上野に出た。
 用人には暇を出した。おたみとは離縁しようとさえした。が、このおたみ、一筋縄ではいかない。
 仁右衛門はこんこんと説得した。徳川宗家がどうなるかわからない状況だ。奥村の家のことはよいから、生家に戻れ、と言ってもきかない。
 おたみ、例え仁右衛門が亡くなっても、奥村家を守り通す覚悟である。
 おたみはそんな女だから、今もあの拝領屋敷で一人震えているのではないかと思うと、どうにも我慢がならず、危険を冒してもこうして下谷に戻ってきた。
 もうここへもどることはあるまいと思っていたが――
 飛び石を伝い、玄関に立つ。
 これまでの出来事が、ふいに、胸裡に起こった。
 親父殿が倒れたこと。おたみを嫁に迎えたこと。三人でツツジを栽培したこと。
 夫婦のいさかいだとか、何気ない営みだとか。そうしたものが胸にいちどきに押し寄せる。当たり前であった日々が、もう戻らないことに気がつき、胸を締めつけるのだった。
「仁右衛門」 
 と、天海が肩をつかんだ。
 仁右衛門はさっと顔つきを整える。
 障子の貼られた格子戸を開け、玄関を潜った。

○   三

 仁右衛門はとまどった。
 土間と室内を隔てる障子戸がない。どころか屋内の襖戸は全て取り外されてがらんどうになっている。何もない。家具どころか。
 仁右衛門が息すらつめて見守ったのは、女が一人、薙刀を携え、蹲踞の姿勢をとっていたからだ。
「おたみか……」
「仁右衛門どの」
 おたみは薙刀を放って、式台まで走り出てきた。武道の心得もさほどないはずだが、奸賊薩長兵の狼藉あらば、いざ、と思ってのことだろう。
「よくぞご無事でお戻りなされました」
 仁右衛門はおたみを抱きすくめたい一心だったが、ぐっと堪えて言った。
「すまねえおたみ。腑甲斐なく生き残っちまった」
 おたみは唇を引き結び、それでも笑みを見せると、今、足水を用意いたしますと立ち去りかけた。
「いや、おたみ、もう時間がねえ」
 仁右衛門は、襟を引いて、懐の赤子を見せた。おたみはこの暗がりで、腹の膨らみにはきづかなかったのだらう。
 おたみは驚きで目を丸めたが、一瞬後には顔をこわばらせた。隠し子と思ったらしい。
「仁右衛門どの……」
「いや、この子はちがう。なあ、天の字……」
 と振り向く。
「ご内儀、誤解でござる」と天海も助け船を出した。「伏姫は里見家当主の血筋にて」
「そうよ」と仁右衛門はまた懐に手を突っ込んで、伏姫の腹の上に乗った仁の玉をつかんでおたみに見せた。「こいつが何かわかるか?」
 おたみは今度こそ驚いたようだった。宝玉は暗がりの中で、淡く輝き、四人の顔を照らしている。
「仁右衛門どの、これはいったいなんの冗談です」
「なにも冗談なもんかい。こんなもんがそこらにころがってると思うか」
 まして、人の手でつくれるはずもない。ぎやまんにしても、自ら白光しているし、何より玉の中央に文字のようなものが……
 おたみがよく見ようと思わず玉に手を伸ばした。そのとたん指先に雷をくらったように感じた。あっと呻いて手を引っ込めた。
「おたみ、大丈夫か」
「玉は人を選ぶ」と言って、天海も首にかけた袋から宝玉を取りだす。
 仁右衛門も天海の玉を見るのは初めてだ。宝玉には確かに、義、とある。
「馬琴の話は本当だったのよ」
 おたみはワナワナと唇を震わせたが、やがてピシャリと言った。
「こんなことはあるはずがありませぬ」
「いやある」
「仁右衛門どの」
「まあきけ」
 と仁右衛門は、この山の神に、上野でのくだりを語って聞かせることとあいなった。

○   四

 二人は汚れた衣類もそのままに、ドヤドヤと座敷にあがりこんだ。


 どうも雲行きが怪しいな――
 とは仁右衛門も思った。おたみは途中から話を聞くのもあきらめている。なるほど宝玉に触れこそしたが、妖怪など、見てもいないのだから無理もない。
 伏姫はおたみの膝の上で大人しくしている。
 おたみは近所の御徒仲間に子が生まれるたびに世話を助けたりしていたから、突然とはいえ、仁右衛門の連れ帰った赤子に、嬉しそうである。
「仁右衛門どの、お腰のものはどうなされました」
 とおたみは咎めた。仁右衛門の大刀がないのが気になったのだろう。先祖伝来の一刀だったが、上野で紛失したのはいたしかたない。
「そのあやかしの話はよくわかりませぬ。なれどこの子を連れて旅をするというならば、わたくしも同行するしか仕方ありますまい」
「ちょっ、ちょっとまて、一緒に来るつもりか」
「むろんのこと」おたみはきっと言った。「では、仁右衛門どの。道中この子の世話は誰がやくおつもりですか」
 仁右衛門と天海は顔を見合わせる。表情から察するに、どうやらここまで伏姫の世話は、犬江新兵衛の担当だったようだ。
 おたみは伏姫を乗せたまま膝先をすっと天海に向けた。
「天の字とやら」
「天海めにございます」
「では、天海殿。お急ぎの所とは重々承知いたしております。なれど、しばしこの女めに時間をお与え下さりませぬか。これなる主人、仁右衛門殿には仕度が必要でござりまするゆえ」
「ご、ご内儀、そいつあ無茶だ。拙者どもあ、今すぐ江戸を離れねば――追っ手もある」
 仁右衛門自体が、今では天下の追われ人である。
「物の怪の話は、もうよろしい」
 おたみは優しい口調で伏姫の背を撫でた。
「思えば、お前さまもわたくしも、江戸を離れたことはありませなんだな」
 仁右衛門は御家人だから、江戸を出るにも許可がいる。
「物見遊山ではねえのだぞ」
 と呆れて鼻を鳴らしたことだった。

○   五

「あら、この子、目を覚ましていますわね」
「目のかてえ野郎だな」
 仁右衛門が、顔を覗き込もうとしたときだった。伏姫が首を傾け、彼を見た。赤子には似つかわしくない強い目線で凝視してくる。
 仁右衛門もハタと異変に気がついた。
「おい、天の字」
「うむ」
 とこの大男も心得たものだ。彼もまた宝玉を取り出し、まじまじと見ている。今までは淡い光であったものが、強く明滅している。
 天海、槍を持ち替えている。
 仁右衛門も腰の脇差しに手を添えて戸口の陰に身を寄せた。振り向くと、おたみは伏姫をつれて、壁にピタリと背をつけている。不意の射撃でも喰らうことはあるまい、と得心してうなずき、「賊軍と思うか」
「まさか。わしとお主が潜む家だぞ」天海が言った。「ただの人間が訪うものか」
 仁右衛門は頷いて、わずかに開いた戸口から顔を出した。灯りがさっと目をやいた。仁右衛門は顔をしかめて手をかざす。
 提灯を持った男が、庭先に駆け入って、
「旦那、旦那、仁右衛門の旦那」
「おお、藤吉ではないか」
 過日、暇を出した用人で、奥村家には代々仕えていた男だ。仁右衛門よりは五つも上でデンと肥え出していた。小男のはしこさを詰めこんだような男である。ほっかむりの下で、パチパチと小さな目をしばたいている。
「天の字、心配するな。こいつは……」
 と言いがかったのを押しのけ、天海が、えいや、と槍を突き出した。藤吉は左にとびすさって穂先を逃れている。
 仁右衛門は左によろめくと、「何しやがる」
「呆けたか仁右衛門。ようく見ろ」
 藤吉がほっかむりをすうるり外した。その手から提灯が落ち、メラメラと燃えた。その火に照らされた顔が醜く引きつった。犬歯がにゅうるりと伸びる。血涙をこぼしはじめる。
 藤吉が目玉をグイと拭う。
「いやだなあ、旦那。長年支えたあっしの顔をお忘れですかい」
「こやつ、物の怪につかれおったか」天海がずいと槍を突き出し、「おのれ、十郎兵衛を導きいれおったのはうぬの仕業か! 正体を現せ!」
 仁右衛門は面食らって言った。「いったい藤吉の野郎はどうしちまったんだ」
「抜けい仁右衛門」と天海は野太い声で言う。「あやつはもはや藤吉ではない」
 もはや? もはやだと?
「だったら、やっぱり藤吉ではねえのか」仁右衛門もようやく脇差しをすっぱ抜く。「こいつ、藤吉から出ていかねえとただではおかねえぞ」
「藤吉だと。藤吉?」と妖怪はせせら笑った。「ばかめこの男ならとうの昔にくたばっておるわ!」
 口が裂け、角がはえた。腕にぶくぶくと肉がつきはじめたかと思うと地面につかんばかりに伸びてきた。
「ばかな男だ、おまえをすけようと上野に来なければ死なずに済んだものを」
「藤吉……」
 仁右衛門は正眼。天海と背を向けあって、藤吉と相対している。
「抜け作の犬士めが、ノコノコと江戸に乗り込んだのが運の尽きよ」
 この妖怪、黒猫にとりつき、江戸に入りこんでいたのだが、元は蟇六と呼ばれた中妖怪である。結界の綻びに乗じて、いよいよ力を揮い始めた。
 人のなりをしたあやかしは、二人の周囲を周りはじめる。
「上野の伽藍を焼いたのはこのわしよ」
 闇の中から毬が生まれて、ひょこりひょこりと跳ねている。真っ黒な毛玉の中央には目玉と口だけが身を裂くようにして空いている。目からやはり血を流し、うめき声を上げている。全身から黒い炎を噴き上げて、『画図百鬼夜行』にある釣瓶火のようでもある。
「慶喜と裏の家人を退散させたのち、江戸を牛耳るのは我らよ!」
「そうはさせんぞ」
 天海が藤吉の眉間を目掛けて刺突を繰り出す。すると、黒毬は急に膨れて藤吉の身代わりとなって刃先を受けた。
 釣瓶火は焙烙玉のように弾けると血を撒き散らした。

○   六

 仁右衛門が刀をすっぱ抜くと、その刀身からは神気がたちのぼり、水気をはらんで周囲に四散していった。なるほど曲亭の老人が、村雨の着想を得たのも頷ける。
 釣瓶火たちはその狭霧を恐れるようにギャアギャアと身を引いた。
 藤吉は下がってくる釣瓶火を押しのけながら、ギョロリと目を剥いた。途端に目玉は銀の光を帯びて龕灯(がんどう)のように周囲を照らした。その光を避けるように腕をかざした仁右衛門を剣で指し示し、
「貴様を知っているぞ」
 声までも妖気を帯びて変質していく。奇妙に艶めき、ひび割れ、とどろくようだ。
「労咳持ちのいる植木屋を度々訪ねておった奴だな。神玉によって神通力を得たか。だが、どんな力を得ようと無用のこと。あの男もわしを斬ろうとしたが、果たせず死によったぞ」
 と嘲笑う。
 驚きのあまり、仁右衛門の構えた刀がするりと降りた。
 労咳持ちだと?
 胸裡に、痩せた長身を震わす青年の姿がいくつも浮かんだ。
「それは沖田のことか!」
 仁右衛門が激怒すると、懐の宝玉は応じるように光り輝く。光は群がる釣瓶火を押し退けていく。
 沖田は剣をとっては仁右衛門もなまなか敵わぬ天才だったが、病には抗せず、あえなく命を落としてしまった。師匠である近藤の死も伝えず、仕。舞いだ。そのことをずっと悔やんできた。が、自分の病には触れず、近藤の安否ばかり気遣うあの男に、どうして伝えられようか。
 仁右衛門には、そんな沖田がいじらしく、痛ましい。沖田を嘲笑する蟇六がどうしようも無く憎く思えてきた。

○   七

 釣瓶火どもは宙を漂い、祭り提灯のように周囲の闇夜を照らしている。植木に近づき過ぎた連中は、枝葉に火をつけて回る始末だ。
 この騒ぎに、隣家の御家人たちも起き出した。みな寝巻き姿のまま、刀をおっとり、駆けでてきた。貧乏御家人の悲しさか、竹光の連中もいるはずである。
 釣瓶火はボボボと、その身を割って数を増やし、周囲の組屋敷を飛びかいはじめた。
「まずい火事になるぞ!」
 御家人たちは、江戸の者だけあって、妖怪よりも火事の心配である。妻女子息に井戸水をくませ消火にあたったが、やがて火中の中芯にいるのが仁右衛門と知ると桶をうっちゃって、かけ寄せてきた。

○   八

 呼び声には気づいたが、仁右衛門は蟇六に目を据えたまま身じろぎもできなかった。
 隣では天海が自慢の朱槍を振り回して、釣瓶火どもを追い払っていた。
 仁右衛門は正眼の構えをビタリととって、その切っ先を蟇六めに突き付けている。蟇六は、右に左にはねとぶが、そのたびに仁右衛門の切っ先は、するりするりとついていく。
「どうした妖怪! よええのばかり狙わず、俺のタマをとってみたらどうだえ!」
「仙術もつかえん若造が!」と蟇六がはねるのをやめた。「図に乗るなよ!」
 蟇六の口蓋がカッと開いたかと思うと、その
のような暗渠から、蛙舌がとぴだした。仁右衛門はとっさに刀で打ち払おうとしたが、天海が両手で彼を突き飛ばした。
 蟇六の舌は目標を失って地面に突き刺さる。地はたちまち暗灰色に変化してボロボロと崩れてしまった。
「仁右衛門、あれに触れるな猛毒だ!」
「みな、来るな! 下がれ、下がれ!」
 と仁右衛門は言った。御家人たちが竹垣を押しのけてはせ参じようとしたからである。
 仁右衛門は刀を真っ向に掲げて打ちかかった。蟇六は飛び退きざまにまた舌を伸ばす。
 仁右衛門は左へと体を沈めざま、この舌をやり過ごすと、地に沈むほどの低空から、蟇六めに迫った。肩にしょった刀身から神気がもうもうと立ち上った。
「しゃあ!」
 と蟇六はわめき、舌を戻しざま、一尺ほども伸びた手爪を回して、仁右衛門の喉首をかっきろうとした。仁右衛門が右に転身すると、視界の外から獣が飛び込んできた。
 馬のごとき体躯を鞠のように跳ねつかせて両者の間に割りこんだのは、巨大な犬だった。唸りを上げて、蟇六をねじ伏せ、たちまち腕を食いちぎってしまった。
真っ白な長毛をなびかせ、みな狼とみまごうたが、
「八房殿!」
 と天海が言ったから、仁右衛門も動きを止めた。
 八房だと、こいつも実在するのか
 八房は青く輝く双眸でみなをねめつけた。
「このうつけどもめが! すぐさま馬鹿騒ぎをやめぬか!」
 みな、この神気のこもった怒声にうたれた。
 声に呼ばれるように、屋根の上に黒装束の男たちがいくつも現れ、その影の一つが、
「天海殿!」
「おお団蔵か!」
 と天海も呼び声に答える。
「犬っころめが、邪魔をするな!」
 蟇六の腕からは真っ黒な血液がぼたぼたと落ちている。藤吉の心臓は止まっているはずだが、妖力により、血が巡っているようだった。
 蟇六は、釣瓶火たちを結集させ、牙を剥いて御家人たちを威嚇する。
 が、表裏の家人がじわじわと押し寄せるのをみて、配下の釣瓶火どもに、
「引け、引くんじゃ」
 と呼びかけた。

○   九

 仁右衛門らが追おうとしたが、八房が回り込んで押し止めた。
「今はそれどころではない」
 食い殺しかねない形相に反して、今度は落ち着いた声である。
「ちくしょう、なんであの野郎を逃がすんだ!」
 仁右衛門は前に進み出ようとしたが、八房に睨まれると途端に動けなくなった。
「うぬが新兵衛の代わりか」
 八房の声が遠ざかり、仁右衛門は青白い瞳の中に吸い込まれそうになる。
 何だあれは?
 仁右衛門は朦朧とした意識の中でゆらめく影を見た。枯れがその夢想から醒めたのは、天海が手を、背に添えてからのことだった。
「八房殿、蟇六めを追うなとは、どういうことでござる」
 と問うた。八房はそれには答えず、
「天海、お主がついていながら、この体たらくはなんだ」
 と怒鳴った。
 その内に屋根の上にいた黒装束らが、バラバラと降りてきた。
「裏の家人たちだ」
 と天海が耳打つ。
 仁右衛門が見たところ、裏の家人だと言う奴らは、およそ御家人らしくない。どちらかというとお庭番のような装束である。
「今はあのような者どもと争っている場合ではない。上野が穢土とかしておるのだぞ」
 と言われて、仁右衛門と天海はぎょっとなった。上野なら今出てきたばかりではないか。
「まさか蟇六にそのような力はありますまい」
「蟇六ではない」
 と八房は天海に答えて言った。
「我らが宿敵、玉梓の仕業よ」
 この名を聞くと、裏の家人どもも、この事実を知らなかったのか一斉に呻いた。
「玉梓がかつての力を取り戻し、古代妖怪が出没すれば我らの手には到底終えぬ。我らは江戸の結界を守らねばならん。三手に別れるしかあるまい。一方は上野の穢土を封じ、一方は結界の中芯へ。残りはここで伏姫を守れ」
「仁右衛門」
 と、表の御家人どももゾロゾロと集まる。
「お主、上野に参加したのではなかったのか? 今の連中は何だ」
 と言ったのは、辺り一帯を取り仕切る組頭の片岡伊之助
である。
 仁右衛門はこの事態をどう説明したものかと迷ったが、ままよと宝玉をとりだし、
「わけはこれだ」
 みな食い入るように光耀く玉を見た。
「犬江新兵衛からもらった」
 馬琴はとうに亡くなったが、八犬伝は生きて健在である。
みなこの江戸期最大の著作物を知っていたから、いがいな名前にどよめいた。
 仁右衛門はこれまでの経緯を手短に話し、
「あれは伏姫だ。さっきの連中はあの子を狙ってきた。あの子を守らなきゃならねえ」
 と女房の抱く、赤子を指差した。
「わけがわからねえ」と言ったのは、仁右衛門の幼なじみで、親友の市村音右衛門である。「わけはわからねえが引き受けた」
 病弱で剣こそ握らないが、度胸だけはある。
「開府この方、お城を守ってきた我々よ」と組頭も頷いた。「今さらおひいさん一人を守るぐれえ、わけもねえ」
 仁右衛門はぐっと息をのみ、頭を下げるしかなかった。みな貧乏御家人ばかりで、この危急に苦しんでいる。おまけに目を剥くような妖怪騒ぎだ。なのに、なんの文句もなく、すけようとしてくれるのである。みなほとほと江戸っ子だなあ、と思うとまたも目頭が熱くなり、それを隠すようにこうべを垂れた。
 天海めは八房の指示を受けている。
「お主は家人の半数を連れていけ。結界の中芯にいき、今一度はりなおすのだ」
「八房どのは」
「上野が穢土と化しておる。
我々は上野の穢れを払わねばならん。この犬士を連れていくぞ」
 八房は仁右衛門の袖を咥えて、グイと引いた。
「伏姫と家内のことはお頼み申す」
 片岡たちは仁右衛門をとり囲み、口々に励ました。
「お城も持たねえ腰抜け武士だが、助太刀ぐらいはわけもねえよ。おめえもきいつけろ」
「かたじけない」
 と再び頭を下げた。
 仁右衛門が、
「おたみ」
 と呼ばわると、
「こちらは何の心配もありませぬ。お前さまはとっとと穢土とやらを払ってらっしゃいまし」
 ピシャリと言ってのけたことだった。
 裏の家人たちも伏姫を守るようである。
 仁右衛門は御家人たちに見送られ、屋敷を出て行った。
「あのご内儀はわしよりも肝が太い」
 と天海が言った。
 仁右衛門はややしょんぼりと頷いた
 行くぞ、と八房が促す。
 この霊犬に誘われ、新米犬士初の大仕事は、ついに始まったのである。




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