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長編、短編とそろえています。古い作品もあるので、できには目をつぶってやってください。
ねじまげ三部作も、よろしく!

ねじまげ世界の冒険

▼第二部 おさそい


○ 章前 二〇二〇年 ――後日

□    一

 佳代子はいつでも電話をかけてこいと書いていたが、高村利菜は数日がたっても、受話器をとる気にはなれなかった。携帯電話を片手に、アドレスを呼びだすところまではいったのだが電話をかけるにはいたらなかった。
 あの夏の記憶は、少しずつだがよみがえった。手紙が記憶の引きだしを探りあてたかのようだ。だが、その引きだしは混沌としていて、のぞきみるのも容易ではない。なにせ、彼女自身がおっかなびっくり、その記憶にふたをしようとしているのだ。
 佳代子たちに会いたかった。会って相談がしたかったし、ことの真相が知りたい。なによりも心配だった。佳代子はいやがらせを受けていると書いていた。誰に? 殺人事件があり、犯罪が多発しはじめた町で、誰にいやがらせを受けているのか?
 友人の身に起こったこと、起こりうることを考えると、彼女は心配でたまらない……。
 この一年間は、佳代子はおろか、神保町のことすら思いださなかった。あの町にかんする思考がすべて欠落していた感じなのである。なのに、いまでは故郷に帰らなくてはという感情が、強迫観念にまで高まっている。あの町にっ。あの山にっ。じつのところ、独りぼっちでとりのこされているような、そんな錯覚すら味わっていたのである。
 彼女はなるべく論理だてて考えようとしたが、理屈ではわりきれないことが多かった。第一に記憶喪失、第二に幻覚のことである。幻覚や記憶喪失に、集団でかかるとは考えにくかった。部分的に記憶をなくすということはあるだろうが、集団でうしなうなどありえない。それも六人が六人とも、おなじ時期の記憶をなくしている。集団で幻覚を見るということはあるだろうが、こんかいは集団といってもたがいに遠くはなれた場所で起こっている……。
 佳代子にかつがれているのなら話はべつだ。あの手紙じたいが、たんなるいたずらだったのならそれでいい。だけど、それはありそうにない、と、利菜は思った。
 佳代子にたいする心配の情は強くなる一方だ。利菜はあの子たちがいなくなったら、もう自分のいまの情況を理解してくれる人物はひとりもいなくなることに気がついた。不眠症や幻覚にさいなまれる自分をわかってくれる人は、彼らをおいてほかにない。
 ひょっとして、むこうからはかけられない事情があったとしたら……。佳代子は書いていたではないか、神保町にはもどってくるなと。ここで電話をかけないということは、あの子を見捨てることとおなじじゃないかと、彼女は自分に問いかける。
 利菜は佳代子のことを思い、自分とおなじ目にあっているはずなのに、まだ自分を思ってくれる佳代子の気づかいに涙した。電話をかけたのは、その気づかいにこたえるためでもあった。ことにたいする好奇心もある。もちろん。だけど、相手をコールする電話の無機質な電子音をきいていたとき、彼女はこの一件をなんとか解決したいという一心だった。不眠症も神保町での犯罪事件も、解決できるのは自分たちだけではないか……そんな錯覚すらおぼえるのだった。
 コール音のかげでは、こんな声が、かすかにささやくのを感ずる。世界はねじ曲げられている……
 受話器の向こうから佳代子の声が聞こえたとき、なつかしさと安堵で胸があたたまった。自分がおもった以上にまいっていることを知った。
「佳代子? あたしよ、上原利菜」
 しばらく沈黙があった。佳代子はこういった。「いまは高村利菜でしょう……」
 利菜は、佳代子が歓迎しない口ぶりながらも、おなじように懐かしさを感じていることを知った。
「荷物はとどいたわよ。手紙も読んだ」鼻をすする。「ありがとう。お仲間がいるって知って、ほっとしてたとこよ」
「お仲間……? そう……じゃあ、あんたも不眠症で苦しんでるってわけね」
「そうよ」
「あの手紙を読んで、あたしがいかれたとは、あんたは思わなかったわけだ……」
「元気がないじゃない」鼻をすすった。なんでこんなに涙がでるのか、胸が熱くなるのか、自分でもわからなかった。ひとつには安堵のためと思う。胸にためこんでいた不安が、あふれでていくようでもある。「あたしは、あたしはほっとしてる。自分がおかしくなったのかって疑ってたときに、病気で、だめになったかもしれないって思ってた。でも、あたしと……あたしのことを理解してくれるやつがいるんだって思ったら……」
「どっと安心したわけだ」と佳代子は言葉をついだ。「あたしはねえ、あんたが電話をかけてこなければよかったって思ってた。でも、いずれこうなることは、わかってたように思うよ」
「紗英には連絡をとったの?」
「とれてない。手紙は送ったんだけどね。忙しい子だから……読んだかどうか」咳払いをした。涙ぐんでいることは、容易に想像できた。「子どもの頃もさ、あんたは一番あたしのことわかってくれたから、だから、電話もかけられなかったのは、きつかったよ」
「こっちもおんなじよ。ねえ、しばらく会わなかったなんてうそみたいだよねえ」
 二人は電話ごしに笑い声をかよわせる。
 利菜は言う。「あたしはちょっとずつ眠れるようになってね。幻覚もみる回数がへったわ。悪夢はみてるけど、でも、前ほどひどくはないと思う。今日、電話をかけたのは」ぐっと声をつまらせる。唾をのみくだす。「あんたのことが心配だったからよ」
 利菜はだまりこみ、相手の反応をまつ。佳代子はなにも答えない。
「両神山にいったんでしょう?」
 と利菜は言ったが、電話は無言がつづく。
「なにを見たの?」
「なにも見てないわ」
「なにを思いだしたの?」
「あんたはどうなの……。どこまで覚えてるの?」
「詳しいことは思いだせない。山で迷ったときの記憶もでてこないのよ。でも、こんなことってありうるのかな? だって、みんながいっせいに記憶をなくしたり、幻覚をみたり、不眠症にかかったり……それに、子ども時代にもおなじことがあったなんて、そんなこと信じられない……」
「そう、あんたは思いだしてないのね。おさそいのことも、なにも」
 おさそい? おさそいと言ったのか?
 佳代子の声にいらだちがまじったようだった。利菜はとまどいを感じ、受話器をわずかに耳から離す。
「あんたの身になにもおこってないんなら、黙ったままでいようと思ってた。あんたはもう町を離れてるし、両神山のちかくにはいない。子どももいるしね」と佳代子はつづけた。「あたしたちは夢を見てただけじゃない。真っ昼間にだって、幻覚をみてたわ。二十五年も前のことだし、わたしもあれが現実だったのか確信がもてなかったけど、寛太はおぼえてたし、新ちゃんや、達さんもね。いま思うと、大人になってからの幻覚は、全部子どものころにかんすることだった。あの二人に話すかどうかは、そりゃ迷ったわよ。新ちゃんはなんども捕まったし、いちばんおっかない目にあってたから」
「あんた、捕まったっていった?」
「そういったわ」佳代子は言った。「おまもりさまにね。あたしたちはおまもりさまにおさそいをうけてた。いったいどこまでおぼえてるの?」
 おぼえている。心の奥深くではすべてを直覚していたが、見えない壁がせきとめるかのように、意識の表面にはのぼってこない。
「くわしいことはなにも」
「むりないかもね。あんたは本当につかまったわけだし」
「なにによ」
「おまもりさまによ」
「……いいかげんにして。電話をきるわよ」
 利菜はほんとに切断ボタンを押そうと思った。受話器を耳から離し、指をボタンに持っていった。だけど、そのとき、受話器のむこうから声がし、それは佳代子の声ではなく、低いにじみだすような男の声で、「切るな」とそういった。
 利菜は受話器を耳にもどし、ゆっくりと顔をなでた。
「うしろに寛太がいるの」
「いないわ。聞こえたのね」
 佳代子の答えは聞く前からわかっていた。
「電話の混線かしらね」
「ありえないよ」
「寛太がいるんでしょ……」
「泣かないで」佳代子は昔とかわらぬやさしい声音だ。そばにいたら髪をなでてくれたことだろう。必要なのはそれだった。寛容と、理解と。「あんたもまいってるのね。肚をたてたりして悪かったよ。寛太はいないわ。あんたに連絡をとるの、反対してたから」
「どうして……?」
「わかってるでしょ」
「わたしがつかまったからね」と利菜は言った。佳代子がいったように泣いてはいない。でも、口元を抑えて、涙をこらえる必要はあった。「思い出せないけど……なにかあったことはわかってる。また危ない目にあうっていうの?」
 電話の向こうで佳代子は何度かうなずいた。「危ないかもしれない。あのときのおさそいは、だんだんひどくなったから。また始まったのよ」と佳代子は言った。「今のあんたになにがおこってるか、あたしは知らない。あたしたちは逃げられたんだと思ってた。でもちがった……あたしたち、つかまったままだったのよ」
「わたしは半年前からいやな夢をみてるわ。幻覚もみてるし。それに夜中にかってに歩きまわってるみたいなのよ」
 涙はこらえられなかった。かってにあふれだしてきた。
「……わかってる」
「わかってる? なにが?」鼻がつまり(それはたんなる鼻水とはおもえないほどに熱かった)、利菜は言葉につまる。「なにがわかるの? 目が覚めたらバスタブのなかにいたこと? バスタブのむこうに女が立ってたこと?」
「溺死女……」
「なんだって?」
「なんでもないよ……。でも夢遊病がおこってるのは、二十五年前とおなじよ。やっぱり、あんたもあたしもおさそいをうけてるのよ」
「でも、あんたは、あんたは覚えてくれてる。わかってくれるのね?」
「わかってるわ。あたしたちはおなじ目にあってたんだから」佳代子は間をおき、「いまもって」
「寛太は? どうなの?」
「おなじよ。おさそいを受けてる」
「あんたには? あんたにはなにが起こってるの?」急に記憶があふれだし、彼女は一瞬言葉をうしなう。「思いだしたよ。無意識に行動してたこともあった。わたしはあんたを見捨てようとしたこともあったわ」
「それはあんたのせいじゃないよ」
「だから怖いのよ。ますます、自分が……どうにかなったら? 娘になにかしたら?」
 佳代はなにもいわない。
「否定してくれないのね」
「あのころのおさそいとはちがうのよ。ちがうというか……ちがうと思う。大人になったからそう思うのかもしれない……だけど」
「山でなにがあったの?」
「いえないよ。あたし、あんたに戻ってきてともいいたくない。そんな無責任なことはいえない。でも、どうしていいかわからなくて……」
「つかまってるのはわたしもおんなじよ」
「こんどのはちがうのよ」
「なにが」
「みんながよ。こんどのおさそいは町中がつかまってる、そんな感じ」
 こんど泣いたのは佳代だった。
「……泣かないでっていうのは気休めになりそうね」
「そうね」
「でもわたしがついてるわ。あんたがわたしについてるみたいに」
「そう。マンション仲間の絆は消えてないってわけだ」
「あのころの絆はね」
 佳代子はため息をついた。「あと問題なのは……紗英ね」
「あの子も危険だっていいたいの」
「わからない。彼女と連絡とってる?」
「最近はごぶさたなのよ。フライトでとびまわってるみたいだし」
「でも、両神山にいないかぎりは安全かもしれないね」佳代子はつぶやくようにいった。しばらくだまり、やがて「ねえ、おぼえてる。子どものころの噂話。両神山でまよった子どもの話とか」
 かすかに笑う。「おぼえてるよ。父さんたち、子どもが林にはいるのをおっかながってたから。ずいぶんおどかされたわ」
「そうね」佳代子は言った。「でも、おじさんたちが怖がったのもむりなかったのよ。あれを調べてみた。両神山の噂。知ってることも知らないことも。ネットや図書館で記事をあさってね。警察にだって足をはこんで、話をきいたわ」のどを鳴らす音がした。「あれはほんとだった。あの森で、何人も子どもが死んでる。死体が見つからなかったものもふくめて」
 利菜はなにも言わなかった。なにも言えなかった。舌は石膏になった。佳代子は話した。
「最近うちのまわりもぶっそうでね。犯罪がよくあるのよ。ひったくりとか、殺人事件とか。こんなちいさな町でよ?」
 と佳代子は言う。
「ここ最近の犯罪記録をしらべたのよ。それを地図にかきこんでいった。たんなる丸を書いただけだけど。そうしたら、事件が多発してるのは、両神山周辺の町だけだとわかった。あの山を中心に、円を描くみたいにね」と佳代子は言った。「それにあの山で、また殺人事件がおこってる」
「うそでしょ……」と利菜はつぶやいた。
「これがうそならつきたくもない。おまもりさまで死体が見つかったのよ」
 二人は沈黙した。利菜の沈黙は単純な恐怖からだったが、佳代子はべつの意味でとったようだ。
「誤解しないで。こんどみつけたのはあたしじゃないわ」
「こんど? なに? 佳代子、なにをいってるの?」
「みつけたじゃない……二十五年前、あたしたち国村さんの死体をみつけたのよ」
 利菜は言った。「うそよ……」
「ねえ、事件のことはなにも知らないの? 新聞にだって載ったのよ」
「そんな話読んだ覚えは……」
 そのとき、冷蔵庫の扉が目についた。なにかが貼ってある。その紙を目にとめ、「ちくしょう……」と彼女はうめいた。
「なに?」
「切り抜きよ」
「なんだって?」
 利菜は立ち上がって、冷蔵庫の前にいった。扉に手をついて、内容をたしかめた。それは古い紙で、うす汚れていて、ゴミ箱から拾いだしてきたかのようだった。紙にはガムの切れ端がついていた。五月五日の日付だ。すでに処分にだしたものだ。
「新聞の切り抜きがここに……あんたのいってる事件の記事よ」
「……あんたが貼ったんじゃないのね」
「あたりまえよ。旦那だって娘だって、こんなもん貼ったりしない」
 利菜ははぎとろうとした指をとめた。新聞は、冷凍庫の扉にはりつけてある。マグネットはつかっていない。最初は糊で貼ってあるのだと思ったが、そうではなかった。新聞紙の紙は、赤くにじんでいた。
「やれやれだわ」と彼女は言った。
「あのときのことを覚えてなくても、あんたにはおさそいがかかってる――みんなに」
 そう、佳代子は言った。切り抜きのことは、否定すらしなかった。
「わたしたちどうすればいいの?」利菜は訊いた。
「わからないよ。頼りはあんたなのよ。あのとき、あんたがもどってきて、事件がおわったんだから」
「なにが起こってるのよ」と利菜は訊いた。
「おそさいよ」と佳代子は言った。「またおさそいがはじまったのよ」

○  二〇二〇年 ヨーロッパ上空

□    二

 あの年、寛太や利菜といった、幼なじみの面々と恐怖の夏をすごした石川紗英も、中学を卒業とともにイギリスへ留学をし、スチューワデス――フライトアテンダントの職についた。
 スチューワデスになりたい(フライトアテンダントなんて言葉、小学五年生の紗英には縁がなかった。スチューワデスが差別用語だったなんて。世の中……ああ。とはいえ、フライトアテンダントとなったいまでは、紗英もスチューワデスなる呼び名の使用には反対だった)、そのために外国に留学するのだという考えは、小学生のころから頭をついて離れなかった。母親とは口論がたえなかったし、始終束縛されるのは我慢ならなかった。
 紗英はことあるごとに母親に反抗するようになった。彼女の背丈はあの夏をすぎてから急速に伸びはじめ、六年生のはじめには母親を追いこしていた。彼女の反抗は、母親が期待したような「まわりの友だち」のせいではなく、伸びすぎた骨格のせいなのだと、彼女は信じている。
 結局、幼なじみがママゴンと呼んだ母親の手をのがれ、イギリスにわたることができたのも、あの夏の出来事が遠因だと思うようになるのだが、彼女がそのような考えをもつにいたったのはずっとあとのこと。
 午後十一時四十五分。雷鳴と稲光がみたすフライトのなか、石川紗英の乗るブリテュッシュエアウェズ41便は、進路を東京にむけて、大空のスラロームをくりかえしている。その日のフライトは多忙をきわめた。コールボタンは雷鳴さながらにひらめいた。客室乗務員たちは、そのたびに通路を走りまわっている。
 気流は荒れ続け、41便は空飛ぶ酔っぱらいさながらだ。旅客機酔い袋は飛ぶようになくなった。乗客たちは生きた心地もしていない……。
 紗英は機内食をもどしつづけるふとっちょの世話を焼きながら、機内に視線をはしらせる。すると座席のいたるところに濡れそぼった髪の女がいた。その連中が、上目づかいで紗英に視線をそそいでいた。
 女は血走った眼をしている。場違いな着物まで着こんで、水滴をしたたらせている。溺死女だ。最近いつも見かけるあの女だった。
 紗英はこらえきれずに悲鳴をあげるが、その声は偶然起こった乗客たちの驚声にまぎれる。
 飛行機が傾き、乗客たちの悲鳴がまたあがる。シートベルトのサインはつきっぱなしだ。
 紗英の顔色は真っ青だった。
 窓の外では黒い雲が機体をとりまいている。ときおりひらめく雷光が、その雲母を照らしだす。
 紗英はその光とともに太った紳士に目をもどす。彼女は夢中でその背をなでる。紳士の背中が、なでればあの女を消してくれる魔法のランプだというかのように。
 分厚いスーツごしでもじっとりとした汗を感じるが、彼女は気にならない。ほかのことに気をとられていたからである。
「ありがとう君、もういいよ」
 紳士は袋から青白い顔をあげた。紗英がなんとか微笑をとりつくろい顔をあげると、窓の外では溺死女が分厚いガラスに手を貼りつかせていた。目を見開き、大口を開けて絶叫しているらしい女は、亡霊そのものだった。
 うろたえて、通路をあとずさると、腕をつかまれた。
「大丈夫なの、気分がわるいのなら、ギャレーにもどって」
 ナンシーが耳元でささやいた。様子をみかねて駆けつけてきたらしい。
「おい君、大丈夫なのか?」
 太っちょが尋ねる。紗英は考える。チーフアテンダント万歳、このふとっちょ、反吐のことも忘れるぐらい、わたしは顔色が悪いらしい……。紗英は、ギャレーにもどると、落ちつこうとタバコをとりだす。そこで不思議なものを見た。数人の子どもたちが通路をかけ抜けていく。紗英はあわてて立ちあがるが、シートベルトの着用サインは消えていない。乗客は誰も席を立てないはずだ。
「みなさいよ。幻覚と現実の区別もつかなくなった」
 紗英は自嘲気味の笑いをうかべ、もう仕事にもどろうかと通路に目をやる。ファーストクラスとギャレーを仕切るカーテンの裏に、人陰があった。紗英は凍りつく。
 またあいつだ……。
 カーテンの裾からは裸の足がのぞいている。着物から水滴がしたたり、通路の絨毯をまたたく間に濡らしていく。
 紗英は大きく息を吸い、目を閉じると、消えろ消えろとなんども念じた。口の端からうめきがもれ、紗英はおそるおそる目を開く。
 女は目の前に立っており、充血した眼が彼女をのぞきこんでいた。女の背丈は見るたびにちがうのだが、今日は百七十五センチある紗英と変わらない。例の上目づかいの目で紗英を睨みつけ、腕を伸ばしてくる。
 紗英は思わず手を出して、女の肩をつきのけた。すり抜けると思った手が、骨にぶつかり、女はあっけない弱さで体をふらつかせる。濡れたてのひらを見つめて悲鳴を上げる。
 溺死女が非難の目をむけてきた。
 驚愕と怒りのいりまじった顔で、シートに置かれた雑誌をひろいあげる。幻覚にさわったのは初めてだった。あわてて雑誌をまるめると、頭上にふりかざし、
「さわれるんなら、こうしてやる」
 女の頭を打ちすえると、濡れた髪がびちゃりと鳴った。あまりの現実感にむかつきをおぼえる。彼女は怒れる調教師のように、女を追いかけては頭をぶった。
 びしゃりびしゃり。
 溺死女は通路を横切ると、トイレに駆けこみ閉じこもった。
 紗英は荒い息を吐きながら、ゆれる機内に立ちつくした。
「幻覚にさわれるとはね……」
 垂れた腕から雑誌が落ちる。すると、それを見越したかのように扉の向こうからは、ひどいよ……という子どもの声がした。紗英はその声に聞きおぼえがあり、眉をしかめた。大急ぎで脳内をさぐると、大昔の親友が見つかった。
「利菜?」
 扉にむかって呼びかける。紗英は誰も様子を見にもどってこないことにほっとしながら、さきほど打ちすえた女が仲間のアテンダントでないことを祈り(あの女は幻覚のくせに、扉をあけてトイレに駆けこんだのだから、その可能性は大いにある)、扉にそっと指をそわす。彼女はいまにも消え去りそうな笑みをうかべる。
「ばかばかしい、あたしの頭が作りだした声じゃない。幻覚に話しかけるなんて……」
 扉はじっとしている。紗英は無意識のうちに手を伸ばし、ノブをまわす……すると、内側から誰かが押さえたように、動かなくなる。
 機内の照明がまたたいたかと思うと、41便は急激な気流にのり、激しく機体を旋回させる。紗英は手をひらき体を支えようとするが、立っていられず身を投げだす。通路が体を叩いたかと思うと、あごを強打し、彼女は意識を昏倒させる。
「うっ……」
 顔を上げると、口のはしを血がしたたりおちた。紗英は床に手をついて身を起こそうとするが、視界がくらんでうまくいかない。
 彼女の職業意識は、乗客の様子を見にいくんだという責任感をうったえたが、神経がどこかで切断をおこし、立とうとする意識は、手足からすべり落ちていく。
 もう一度顔を上げると、こんどは溺死女が直前に立っている。紗英は、その女を子どものころに見たのだということを、自分が最初に見たのだということを思いだす。
 溺死女は一瞬で立ち消えた。紗英は、前方に見える光景に唖然となった。
「なにあれは……」
 そこでは、外からはけっして開くことのないコクピットルームのドアが開き(ドアは内側からしか開けられない)、機長のラルフと副操縦士のエングルが叫んでいた。
 41便の前方は、オーロラのような激しい光で満たされていた、だけではない。その光は風防ガラスを通って流れこみ、コクピット内でうねりをあげていたのである。
 光はギャレーまでとどいている。照明が再度またたいた。乗客の悲鳴がきこえるが、それは何億光年も遠方からとどいてきたかのようだ。
 紗英は四つ足のままはいすすんだ。ストッキングが大きくさけ、むきだしの肌が絨毯をこする。コクピットの直前まではいすすむと、壁に手をついて立ち上がる。光は生き物のように漏れてくる。金色のようでもあり、七色でもあり。いや、すべての色だと彼女は思う。
 コクピットとギャレーには段差がもうけてある。転ばないようにまた近づく。光が頬をなでる。液体のようになめらかで、確かな感触があった。揺れる機内で手をかざした紗英は、光にふれた指がかすむのを見る。身動きをとめ、光のなかへと手をつきこんでいく。腕は透明になり、大きくゆがんで伸びもした。
 旅客機は轍をとおる車のように振動している。紗英は光にみちびかれるようにして、コクピットにふみこんだ。

□    三

 コクピットにふみこむと、紗英の体は光で満たされた。
 光は生きていた。暖色は熱く、寒色は冷たかった。盲目のようにゆっくりと進み、ラルフの操縦席に手をかけた。彼は操縦桿をひいて減速を試みていたが(この現象がはじまってすぐに自動操縦はきっていた)、隣にいる紗英を見てぎょっとなった。
「どうやって入った……」
 紗英はちらりとラルフに目をやり、その顔がX線をあびたように組織をむきだしにし、チーズのようにやわらかくゆがむのを見た。どうやら自分の顔もおなじのようだ。ねじまげられたラルフの顔が驚愕に変わり、ふたたび前方に向きなおる。
「この光はなんなの?」
「わからん、どんどん入りこんでくる。無線もつうじない。ジェットエンジンも止まりかけてるぞ!」
 エングルが悲鳴のような怒鳴り声をあげる。紗英は驚いて――乗客に聞かれては大変だ――ドアをかえりみた。
 コクピットから通路に目をむけた紗英は、ファースト・クラスには声が届いていないことを知った。機内サービス準備室の通路は、百メートルばかりの延長工事をたったいま終えたらしい。
 紗英はいま見たものを閉めだすかのように、力一杯ドアをしめた。
 ラルフが席ごしに怒鳴る。
「なぜ、はいれたんだ」
「ドアが開いてたからよ」
「くそ、おたがいの声も聞きとりにくくなってるぞ」エングルが無線に八つ当たりをしながらいった。「ラルフ、進路を変えろお」
 エングルに言われるまでもなく、ラルフは操縦桿にむかって全体重をかけている。光のなかではすべてがゆがんで見えるらしく、かれが身動きするたびに残像がうまれる。ラルフの顔は、なすびのようにカーブを描く。
「操縦がきかない」ラルフが食いしばった歯のすきまから声をだす。41便がまた上下に跳ね飛んだ。
 エングルが紗英に言う。「席について、シートベルトを締めるんだ」
 しかし、彼女はいうことをきかない。上官の言葉を無視して、さらに身をのりだした。光を、その先にあるものを。
「なんなの、あれは?」
「わからない!」エングルが計器パネルを叩いた。「管制塔、応答たのむ! トラブル発生! ただちに応答たのむ! こちらブリテュッシュエアウェズ41便! 操縦がきかない! 回線が混雑してる! 聞こえないのか!? 近くの空港まで誘導してくれ!」
 41便の視界は、光で覆われてなにも見ることができない。旅客機はその光をおしわけ進んでいく……というより、ある方向にひきよせられていた。その意味では、ジェット機はいま、川をすすむ船に似ていた。
 その禍々しい光は、はるか前方から41便をひきよせている。先端では、光は消失している。その空間には星も雲もない。紗英はその場所のことを、ただ深いと感じた。あそこは深すぎるから、光もなにも見えないのだと。
 彼女はその虚無を、どこかで見た気がする。
 世界はねじ曲げられている……彼女はつぶやく。自分がつぶやいていることにも気づいていない。そのときコクピットを満たす光のなかは、あらゆる音に満たされていたからだ。
 エングルは計器を操作して管制塔との交信をこころみるが、高性能のスピーカーからは、陽気なロックや日本の歌謡曲が流れてくるばかりで、いっかな用を果たさない。絶叫がする。誰かの金切り声、おっそろしく古い歌や聞いたこともないような歌。はては宴会のばか騒ぎのような声まで流れてくる。そして、ふいに静寂になり、とぎれ、とぎれてはまた聞こえだす。
 紗英はその光のうちに、子ども時代の光景をみる。草原いっぱいにひまわりが咲き乱れ、自分たちはひまわりをかきわけ怖々歩いている。
 彼女は恐怖よりも、興奮を感じはじめる。
 ラルフは光の川を脱しようと、操縦桿ととっくみあいを演じている。彼の右腕は筋も千切れんばかりにふくれあがり、生き物みたいに脈打っているが、このやっかいな代物は、万力で挟まれているかのように、ぴくりともしなかった。彼らがこの奇態なオーロラをみつけてから、五分とたっていない。それ以前には、オートパイロットが、操縦桿に軽快なワルツを踊らせていたのである。
 ラルフは速度計の針をみるために頭をさげた(視界は光にふさがれていたから、通常の位置からでは計器板が読めなかった)。巡航速度をたもっているが、しれたもんじゃない。電磁波だかなんだか知らないが、忌々しい光のせいで、最新のはずの電子機器がこぞって反乱を起こしたのだ。
 ラルフは緩慢な動きで体をおこす。光に重さがあるとは驚きだが、こいつは海水のごとくだ。
 彼は操縦桿を倒そうとする努力を放擲して、前方をみつめる。
 彼はゆがんだ顔に涙をうかべ紗英を見た。数秒間見つめあったあと、ラルフはこういった。
「君のいったとおりだ……世界はねじ曲げられている……」
 彼らは前方に顔をむける。光は手招きするように三人をなでまわす。紗英は東京にもどることだけを願った(心の片隅では、神保町にもどることを願っていたのだが)。
 41便は光の深部へと突き進んでいった。光の消失する空間へ。紗英は操縦席のシートにしがみついた。腕をまきつけ、ちいさな胸をおしつぶし、けれどコクピットからは出ようとしない。彼女の胸は恐怖よりも興奮でわきたっていた。大量のエネルギーが――宇宙からかどこからなのかわからないが、注ぎこまれているかのようだ。五感も六感もまんべんなく高まりきった感じ。この感じは子どものころに、なんども味わった気がする。
 その瞬間、彼女はあの夏に起こったことを見たものを思いだした。なぜこのようなことが起こったのか、そのわけすら、おぼろげながらも理解した。
 彼女は機長の肩を揺りうごかした。
「ラルフ! しっかりしてよ! わたしたちは東京にいくのよ! 落ちついて東京のことを考えて!」
「くそ、メイン・キャビンの方はどうなってるんだ!」副長のエングルが紗英にむかって怒鳴る。「君はなんでそんなところにしがみついてる! キャビンの確認をしてこい!」
「うるさい、このくそったれえ!」
 エングルは目をまるくした。紗枝は鬼のような形相で怒鳴る。
「わたしたちは東京にいくのよ! おたおたしている暇があったら、東京のことでも念じなさい!」
「しかし……」
 穴が近づいてくる。
 ラルフがシートアームに置かれたエングルの腕に手をのせ、「エングル」と呼びかける、彼が平静をもとめている。エングルに、紗英に、自分自身に。
「くぐるぞ……」
 ブリテュッシュエアウェズ41便は、虚無に吸いこまれていった。紗英は東京のことを、むこうに残した友だちのことを考えつづけた。その友だちとは一年以上も連絡をとっていないのに、彼らがたいへんな危機にさらされていることを知る。41便の機器はこぞっていかれたというのに、紗英の頭にあるレーダーは、極限まで性能を高めたかのようだ。
 コクピットの視界からは、光がとりはらわれてゆく。虚無が身をのりだす。
「あのむこうにあるのは、東京よ……」と彼女は確信をこめた力強い声でいった。「信じて……」
 そして、真っ暗になった。

□    四

 つぎに意識をとりもどしたとき、紗英は床にたおれ、副操縦士のエングルに身を揺すぶられていた。
 紗英が顔を上げると、エングルは驚愕の表情をうかべて彼女を見下ろしていた。その顔には汗がしたたり落ち、憔悴のあとが濃い。
 ラルフがキャビンにむけて室内放送をする声が聞こえる。ブリテュッシュエアウェズ41便、ラルフ・クライン機長です。当機ははげしい乱気流にみまわれましたが、無事東京上空に達しました。
「どうなったの……」
 彼女は身をおこす。機内が明るくなっていることを知った。
 コクピットの外は暗闇どころか、青空にかわっていた。
「君のいったとおりだ」ラルフが言った。「東京上空だ。……正確には八丈島のうえだ。時刻は午前五時四十一分」
「そんな」紗英は立ち上がる。「さっきは午後の十一時だったのよ。そんなに気を失ってたの?」
「われわれは意識をとりもどして、すぐに君を起こした」とエングルは言った。
 機体は安定している。光の残滓はかけらもない。
「じゃあ、あなたたちも六時間ちかく、意識をなくしてたってわけね」
 エングルは首をふり、操縦桿を指さした。
「ありえない、オートパイロットは切ってある」
 紗英とエングルはコクピットに立ちつくす。アームレストの脇についたサービスコンソールに置かれたコーヒーが、まだ湯気をはなっている。
「つまり君のいった通りだったわけだ。われわれは東京を念じた。そして、東京についた」
「そうらしいわね」
「もっと重要なのは、我々がロンドン東京間を二時間以上も短縮したということだ」とラルフが言った。
「君はなんで東京につくことがわかったんだ」エングルが紗英の肩をつかんだ。「あのときいったろう。東京でも念じろ、あのむこうにあるのは東京だ。そういったぞ」
「そのようね」
 エングルはいぶかしむように眉をひそめる。「なぜ落ちついていられるんだ?」
「今日かぎりでこの仕事から開放されるからよ」
「なにっ? なにをいってるんだ?」
「エングル、よせ、なにが起こったかはわからないが、彼女のせいではないだろう」
 とラルフは言ったが、エングルはそうは思えないと言いたげに顔をしかめている。ラルフは言った。
「ジェットエンジンは正常に復した。無線もつながっている。我々の役目はこいつをふたたび地上につなげることだ」
「乗客がさわがないか」
「さわいだとしても、なにがおこったか説明のつけられるものはいやしない。われわれもふくめてだ」
 コクピットのドアがノックされた。三人はおどろいて顔を見合わせた。紗英がひらくと、ナンシーが外に立っていた。紗英がコクピットにいるのをみてぎょっとしたようだ。紗英はこう直覚した。わたしが幻覚をみて、騒いだとおもってるわね。
 ナンシーはさきほどの機の動揺はそれが原因だと考えたのだ。しかし、それでは説明のつかないことがいくつかあることに、同時に気づいたものらしい。
「機長、説明してもらえませんか。乱気流にのまれたかと思うと、乗客は――わたしもふくめてですが――全員失神しました。気がつくと、窓の外の景色がちがう。朝になっているじゃありませんか」
「待て、乗客もみんな気を失っていたのか?」ラルフが訊いた。
「そうです」
 ラルフはシートに身をあずけた。沈黙の中でジェットエンジンの音だけが響いた。
 ややあって彼は言った。「そういうことなら機内放送で情況をつたえよう。加減抵抗器の誤作動で……つまり客室与圧の異常で、乗客は意識をうしなった。その間に東京についた……」
「本当にそうなんですか? 東京の上空なんですか?」ナンシーは言った。「たった4時間で東京についたんですか?」
 ラルフはふりむいて笑った。「なにをいってるんだ、たしかに記録的な速さだが……」
 しかし、ナンシーは毅然と言った。「機長、いまは何時だと」
 ラルフは計器に目をやった。
「いまは午前五時四十三分だ」計器のデジタル時計をみながらエングルが言った。
「わたしの時計ではそうではありません」
「なんだと?」
「あなが見たのは、パネルの時計でしょう? わたしのアナログは十一時五十五分のままです」
 ナンシーは腕をかかげながらいった。紗英も年代物のロレックスをみた。ラルフも。エングルは鼻でわらって二人の客室乗務員にいった。
「つまりこういうことか。コントロールパネルのものは電波時計だ。勝手に時刻を修正してる。正確な時刻はあれから五分とたっていない」
「なんとでもいうがいいさ」ラルフは疲れたようにいった。「こっちだって説明のつけようがないんだ。さあ、みんなプロにもどってくれ。ブリテュッシュ航空がわれわれに高い給料をはらっているのは、パニクるためじゃない」といって、副長に、「エングルっ?」と訊いた。
「わかってる」エングルは投げやりにいってこめかみをもむ。目を閉じる。じわりとした疲れが、脳に染みこむ。「オーケーだ」
「君たちはキャビンにもどって乗客の面倒をみてくれ」とラルフは二人にいった。「これから忙しくなるぞ……」
 ラルフはマイクをとりあげ、乗客に説明をはじめた。ナンシーは、紗英の手をとり、コクピットからつれだした。
「あなたはなんでコクピットにいたの? ギャレーにもどったときは、あなたの姿が見えないんでぎょっとしたわ」と彼女は言った。「なにがあったの?」
「わからない。いっても信じてくれるかどうか……」
「いって」
「わかってるわ。飛行機が地に足をつけて、乗客がおとなしく機を降りたら、みんな話す」
「そうしてくれるとありがたいわね」
 ナンシーはファースト・クラスに戻りはじめる。機内にはラルフ・クラインの声がひびき、乗客たちがざわめいている。
 ナンシーの後を追おうとした紗英は、背後に気配のようなものを感じふりむいた。すると、トイレのドアがひらいており、びしょぬれの利菜が、子どもの利菜が涙をながしながら扉に寄りかかっているのがみえた。紗英は言葉をなくして、眉をひそめる。おさそい……と彼女は考える。わたしたちはおさそいがかかってる。
 はて、おさそいってなんだ? と彼女は自らに問いかえす。わからない。だけど、あの町に戻れば、なにかがわかるかもしれない。
 利菜はノブにしがみついている。その彼女にトイレの中から溺死女の手がのびる。
「あせらなくたって、すぐにもどるわよ……」
 ふりむくとナンシーが怪訝な顔でまっていた。トイレに目をもどすと、扉は開いていたが、利菜の姿はなかった。紗英はそれでも心のなかで、声をかける。
 安心なさいよ。わたしはあんたがおぼれるのをほっといたりしない。
 あんたたちがおぼれるのを、だまってみてたりしない……。

◆ 第二章 寛太家にて


○ 一九九五年 八月十七日――木曜日

□    五

 利菜たちは、両神山での出来事を、幻覚かなにかだと思いこもうとした。だけど、異常な出来事はたてつづけに起こった。
 寛太の家に寝泊りしていたときも、人影や軒下にみえる目玉に悩まされていたし、幻聴もなんどか聞いた。子どもたちはそうした現象をわるいもの≠ニ呼ぶようになった。それは「わるいもの聞こえた」とか、「わるいもの見えた」と言った。ふうにつかわれた。
 紗英は自宅で溺死女に襲われた。新治は、青葉図書館で、マジシャンに会い、兄の達郎はわるいものにのっとられたコーチに怪我をさせられた。
 どうやら悪い気持ちや考えがわるいものをおびきよせているのだということに、利菜たちはおぼろげながら気づきはじめた。彼らは、不眠症にかかり、夜中も出歩くようになった。彼らの精神は、刻一刻と、追いつめられていった。
 子どもたちが両神山でなめ太郎に出くわしてから、四日後の話である。

□    六

 夕暮れ近いマンションまでつづく県道を、二人は短い影をのばし、歩道の砂利をひろうように、とぼとぼと歩いている。自転車をおし、すごく疲れた様子だ。
 利菜は真っ白なTシャツに紺のジーンズ、佳代子はピンクのTシャツに、カーゴパンツをはいている。二人の女の子はやせっぽちで、けっして細くはないジーンズがぶかぶかに見える。
 利菜のシャツには、血糊の手形がついていた。佳代子のほっぺにも。昨日泥酔した母親に殴られたせいで(拳で殴られたのはたぶん初めてだと思う)かなり濃い青あざができていたが、そのうえに重なるように血の筋がのびていた。
 利菜は涙目でうつむいている。そのうち彼女が立ち止まったので、佳代子も立ち止まった。
 佳代子は所在なげに体をゆらしながら、利菜が動きだすのを待っていたが、利菜はくちびるを震わすばかりで、ものも言おうとしない。
「お母さんいなかったね」
 と佳代子は言う。利菜は無言でうなずいた。その瞬間、彼女の顔から鼻水がたれ、涙がぽとりと落ちて、歩道の白いタイルに染みこんだ。利菜はいっそう深く顔をふせたから、佳代子からは顔が見えなくなる。
 彼女はなんといっていいかわからず、もじもじして自分がいっとう泣きたくなった。そのうち、利菜が、
「おかあさん、どこいっちゃったんだろ……」
 喉がひび割れたみたいなしゃがれ声でいったから、佳代子は子どもながらに胸をつかれて、
「おばさん、もどってるかもしんないじゃん」
 と涙声でいった。
 佳代子は利菜の肩に手をかけようと腕をあげたが、結局ふれられずに胸へと引きもどす。利菜が嗚咽をもらすと、我慢できずに二人は抱きあう。
 二人の子どもがそんなふうに深く傷つき、なぐさめあうかのごとく、熱い抱擁をかわすことになったそのわけは、目黒区にある一戸建てを訪ねたことが原因だった。二人は利菜の母親をさがしに出かけたのだが、肝腎の母親には会えず、危うくわるいものに捕まりかけたのだ。
 利菜は以前にも――それはおさそいが始まるよりずっと前のことだったが――その家に連れていかれたことがあったから、そこがどんなところで、どんな人がいるのかもわかっていた。そうでなければ、佳代子をさそうはずがない。だけど、わるいものが佳代子の思うとおり、みんなの心に忍びこんでくるのだとしたら、利菜だってあいつの思うとおりに行動させられたということになる。
 利菜の母親は、おまもりさまから戻ったその日にいなくなったのだが、父親に訊いてもあいまいな答えがもどるばかりで(彼女の父は炭酸のぬけたコーラみたいになっていた)、所在を知ることはできなかった。
 彼女の母親、三津子は、釈栄会という仏教系の宗派に二年前から所属していた。娘をこっそりつれていったのはその宗派に入信させるためで、こっそりつれだしたのは父親が反対していたからだった。
 その家は、どこにでもあるふつうの民家だ。会長先生という人も、ふつうのおじさんにしか見えなかった。ただ、子どもながらにその人たちのいっていることはへんてこに聞こえた。
 母さんがいうには、利菜はもうその宗教に入信していて(それも迷惑だ)、このことは父さんにはいってはいけないということだった。母さんはそのとき真剣な――利菜の頭に穴を空けるみたいな目つきで、じっと見つめて、あの人にもそのうちなにが正しいかがわかるはずだから、と言いきった。でも、正しいことなのに父さんに隠しだてをするのは、それこそ変じゃないかと彼女は感じた。利菜は父親のことも信頼していたから、黙っていること自体がつらかった。
 利菜は積極的にそのことを忘れて、母さんが宗教を話題にしようとしても他人とそのことを話していても、なるべく関わらずに聞かないように、疑問やいやな気持ちにはふたをするよう努めてきた。母さんがおかしいんじゃなくて、宗教が母さんをおかしくしたんだと思った。そして、心のどこかではあの家を憎むようになった。ホラーハウスみたいに邪悪なものを感じるようになったのだ。
 母さんがいなくなって、まっさきに頭にうかんだのがあの家だった。あの家に入りこんで(捕まって)、それで帰ってこないんだと、そう考えたのだ。
 おまもりさまに入りこんで四日がたっていたが、母さんはまだ戻ってこなかった。父親が仕事にいくと、利菜は友だちと遊びにでかけた。母さんがいなくなったことは、誰にも話していなかった。こんなときに、(幻覚やおかしな声をきいて夜も眠れなくなっているときに)母親がいないなんて最悪だが、父親すらいなくて家にいる母親にはぶっとばされている佳代子よりはましだと思った(そんなふうに自分をなぐさめるのは、佳代子にたいして悪いと思ったけど)。
 だけど、新治とわかれ、佳代子と二人帰ることになったあのとき、急になにもかもが我慢できなくなった。家に帰るのが、いやになったのだ。
 利菜は母親がいなくなったのは、おまもりさまのせいだと考えた。幻覚や眠れないことにもがまんならなくなった。ストレスなんて言葉は、小学五年生にはぴんとこなかったけど。子どもは大人より柔軟かもしれないが、なんでも許容できるわけじゃない。そのピークがあるとするなら、いまだった。
「佳代子、あたしがついてきてって頼んだら、きてくれる」
 と彼女は言った。その言葉はいきなりで形相もすさまじかったから、さすがに佳代子も言葉につまった。
 来るのこないの、と彼女は切り口上にいった。佳代子は思わずいくよ、と答えた。いってから、しまったと考えた。
「母さんが帰ってこなくなったんだよね」
 利菜は急に肩をおとしてそうつぶやいた。佳代子はおばさんの宗教のことも(あの家に始終出入りしてれば自然に知ることになるのだが)、かなり詳しく知っていたから、すぐにどこに行けばいいのか事情はのみこめた。
「じゃあ、おばさんはその家にいるんだ」
「ほかに行くとこなんかないよ」と利菜は憎々しげにいった。「佳代子ついてきてくれる? あたし、母さんにもどってきてほしいんだ。父さんはなんにもいってくんないしさ、洗いもんとか洗濯もんとかたまるばっかだしさ、うちがなんか悪い場所みたいで、ちがっちゃったみたいで、やなんだよね……」
 ほんとは父親もすっかり変わってしまった、母親がいなくなったのはほかの行方不明事件と(殺人事件と)おなじなのかもしれないと考えていた。そうしたことは、口にだすのも怖かった。
「ここんとこ、夜眠れないし……」
 佳代子はおどろいた。「あたしもだよ。あたしも眠れない……」
「だからさ。母さんがもどってきたからって眠れるとは思えないけど……幻覚もみるんだろうけど、でも、いまよりずっとましだよ。あたし一人でもいこうと思ったもん」
 それはうそだった。
「でも、佳代子がついてきてくれるんなら安心する」
 そんなふうにたよられて、悪い気はしない。佳代子は、この話を聞いたとき、半分がた腹はさだまっていた。
 母親のお腹がおおきくなって、噂が学校中にひろまったとき、佳代子はずいぶんいやな思いをした。女の子たちは陰にまわって、うわさ話をしたからだ。佳代子はずいぶん我慢した。面とむかって言われるのならいいかえすこともできる。でも、みんな聞こえよがしにしか言わない。いちばん陰険だったのは、幸田頼子だ。佳代子がふりむくと、素知らぬ顔で目もあわせなくなる。佳代子がぐっとこらえてそっぽをむくと、また噂話が再開する。
 そんなことが積みかさなって、佳代子はある日、しつこく噂話をしていた頼子のグループに、つかつかと歩みよった。そして、抗弁する一同に、平然といいかえした。
「そうよ、赤ちゃんが生まれるんよ。それっていいことでしょ。悪い?」
 そして、頼子をひっぱたいたのだ。
 すぐさま教室中が騒ぎになった。関係ないのも騒いだし、関係あるのはおおいに慌てふためいた。すぐさま先生がとんできた。
 先生はそうなった理由を二人に訊こうとしたが、佳代子はがんとなって言わなかった。
 そのうちに事情がわかって、先生も佳代子がしたことを理解してくれた。佳代子に同情的だったのだが、さて、おたがいに謝ろうという段になったとき、どんなにすすめられても佳代子は頭をさげなかった。
「子どもが生まれるんは、すばらしいことだってじいちゃんが言った。だからあたしは悪くない」と言った。のだ。
 ともあれ、佳代子のやったのは暴力だったし、頼子の母親は、小学校の役員会ときくと、すぐに顔をだす人でもある。先生は一生懸命説得した。それでも佳代子が頑固をはるものだから、双方の母親が呼ばれることになった。
 登美子は職員室にはいるとすぐさまヒステリーを起こし、先生も頼子の母も、佳代子のことも口汚く罵った。その間、佳代子は真っ赤な顔をしながらも、必死に泣くのだけはこらえていた。
 結局、登美子のおかげで佳代子は無罪放免になったのだが、家に帰ると、妊娠した母親から暴行をうけた。
 夕方になり、利菜に電話をかけた。利菜は自宅でずっと佳代子の心配をしていた。二人の自宅は、おなじ県営マンションのとなりの棟だから、すぐ近くである。
 佳代子が利菜の家にあらわれるまでは、ちょっとばかり時間がかかった。
 利菜は佳代子の様子をみておどろいた。泣いたせいなのか、あんまりひどく叩かれすぎたせいなのか、彼女の顔は腫れぼったかった。びっこをひいていたし、大事な顔に、切り傷がいくつもあった。
 部屋にはいり座った。利菜は椅子に、佳代子は床に。佳代子はそれまで、学校でも家でも泣かなかったのだが、そのときはじめて腫れあがった頬に、ぼろぼろと涙をこぼしたのだった。
 そういうことがあったから、竹村佳代子は利菜にたいして恩義があった。自分のいちばん惨めな部分を受け止めてくれるのは、両親ではなく、利菜だった。
 しばらく佳代子は小刻みに首をたてにふった。やがて自分でも納得がいったのか、大きくひとつうなずいた。
「じゃあ、あたしたち気をつけて行かなきゃいけない。おさそいのこともあるし。おうむ教とか、おっかない宗教だってあるもんね。寛太か達郎ちゃんをさそってもいいけど、二人でいく?」
「いく」と利菜は言った。「あたし、今日つれもどしたいのよ。いますぐに。母さんに戻ってきてほしいの」
 佳代子はうなずいた。

□    七

 その家は閑静な住宅街の一角にあって、不気味な雰囲気をはなっていた。家自体はいたってふつうだ。門はありふれたアルミ製だし、どこのホームセンターにも売ってあるような、四角いポストがついている。
 表札には坪井とある。
 佳代子は宗教というと、お寺を想像したから、こんなところに教祖とか会長がいるのは、ちょっと想像しにくかった。
 二人はすこし離れた電柱の影から、緊張した面もちで家をながめたが、ブロック塀の向こうは静まりかえっている。佳代子は、静か、という言葉だけでは足りないような気がした。このあたり一帯では、空気すら沈黙してしまったみたいだ(ほんとうはあらゆる音がひどく遠のいた感じだったのだが、彼女たちはそのことに気づかなかった)。
 佳代子はすっかり気後れがしたが、利菜の手前ひきかえすわけにはいかなかった。その家がどんなふうだったかは、利菜から聞いてあるていどは知っていた。
「行こう」
 利菜は門に手をかける、かすかにきしみながら、内側にひらいていった。わずかなすきまに、身をくねらせるようにして入っていく。ブザーに手をのばし、あわてて――熱いお湯に触れたみたいに、引っこめた。
「静電気だよ」
 と彼女は苦笑いをしていった。
 ブザーは二回むなしく響いた。利菜はもう一度押した。もう一度。――返事がない。
「誰もいないんじゃない?」
「いないかもしんないけど……」
 利菜はみいられたようにノブをみつめ、やがてそれに手を伸ばした。
 彼女はびっくりしたみたいに振りむいた。「開いてる」
 ゆっくりと戸を開いていく。なかは暗く、空気は何世紀も放逐された家のようによどんでいる。戸をしめきっていた。そのせいで、外よりも蒸し暑い。
 汗がふきだしてくる。
 玄関から入ってすぐに階段がある。そのわきに、廊下がまっすぐ伸びている。廊下と階段は家の中央にあり、左右の部屋をしきっていた。以前来たときと、見た目はまったく変わらないのに、利菜はものすごく違和感を感じた。圧迫感を。
「ごめんください」
 震えた声が、暗い玄関に吸いこまれていく。それにつれて、二人は一歩二歩と家のなかに入っていった。利菜の背中には佳代子が貼りついている。その肌の暖かさが、彼女をほっと安心させる。
「誰もいないのかな?」
 佳代子が言う。
「隠れてるのかもしれない」
「勝手に入るのはまずいんじゃない?」
「あたしはこの宗教の一員だもん」
 だから、入ってもいいはずだと思った。
「あたしが怖いっていったら、あんたどう思う?」佳代子が言う。
「その気持ちわかるっていうよ」前を向いた。「あたしだって怖いもん」
 廊下にあがった。
 右側の扉を開けるとリビングだった。ワイドテレビと大きな机が目についた。利菜は右手にあるじゃばら式の戸を開けた。台所だ。南側の窓から明かりが落ちている。前きたときは大勢のおばさんたちが料理をつくっていたけど、いまはその姿もない。
 奥には勝手口があるが、利菜は鍵が閉まっていると思った。そこだけではなく、家中の鍵が。
 そんな嫌な予感におそわれて振りむくと、玄関の扉が閉まっていた。
「閉めたの?」
 佳代子が首をふる。二人は凍りついた視線をかわした。どちらからともなく手を握りあう。
 佳代子の手は冷たい。部屋の温度が、どっと下がった感じだ。家中が冷気を放出しているかのように。汗で濡れたTシャツも冷たく感じだす。しめきった部屋のなかで、足下にだけ風をかんじた。
「利菜……」
 と声がした。母親の声だった。
「二階からだ……」
 利菜は言った。佳代子の手をひいてリビングをでた。廊下はさらに暗くなっている。ガタガタとなにかが閉まる音がする。
「雨戸をしめる音だよ」と佳代子がせっぱつまった声で言う。「おさそいがはじまったんだ。やばいよ、利菜。はやく出ないと……」
 ――でも、母さんが……と利菜はいいかけ、その言葉を飲みこんでしまう。上から母親の声がしたのに、ひさしぶりに声をきいたのに、彼女はすごく怖かった。
 母さんのあの声。名前を呼ぶ声……なんだか邪悪な気配がまじる声でもある。彼女はここ数日、幻覚をみて、幻聴だって聞いてるのに、なんでこんなところにいるんだろうと思いはじめる。ここにきたのはまちがいでとんでもないまちがいをおかしているような……だってかあさんの声はかあさんがいっているんじゃないかもしれないし、佳代子のいうようにおさそいなのかもわなにはまったのかもしんない。だっておさそいをうけてるのはわたしたちだけじゃないかもしれないし、ゆくえふめいとかじことかれんぞくさつじんとかさいきんやたらおおい……
 でも、足は階段を一歩のぼりはじめたので彼女はすこし驚く。まだ佳代子の手をひいている、友だちを道づれにするみたいに。
 しかし、階段を一歩、また一歩とのぼるたびに、さきほどまで頭にうかんでいた疑問はかき消え、佳代子にたいする心配の情も消えてしまう。頭のなかの耳に、栓をされたみたいに。
 彼女たちは、何かに導かれるように、階段をのぼりだす。いまは夏で、まだ日も高いというのに、家の中がどんどん暗くなっていくことに気がつく。わずか数分で曇ったんだろうか? さっき外で見あげたときは、雲なんてなかったのに。
 でもここでは時間がどんどん過ぎるのかもしれない。そんなことを頭の片隅で考える。前頭部は霞がかかったようなのに、脳みその中心はフルスピードで回転している感じだ。アドレナリンやらホルモンやらが、バルブ全開であふれだしてる。
 二人は階段の手すりに手をかける。最後の数段をのこし、利菜は立ち止まる。そこから見える廊下の壁に、亀裂がはいっていることに気づいたからだ。その亀裂からは、煙がでているようにも見えた。
 利菜はあれが見えるかどうか、佳代子に訊こうかと思った。出力全開の脳みそが、佳代子にも見えていると教えてくれる。利菜は佳代子との、強い結びつきを感じる。
 どんな周波数もひろえる高性能の受信機みたいに、彼女の脳はふだんは見えないものを、見てはいけないものまで見せてくれる。亀裂からあふれでるものは、煙よりもどす黒く、黒ずんだ光みたいに見えた。
 やばい……
 利菜は心臓のあたりを右手でさぐった。彼女は振りむいていないが、佳代子も同じように心臓に手を当てているのを見た。肉眼では見ていないが、彼女の脳みそは、肉眼の限界を超えたらしい。
 そして、亀裂がさらに大きく裂け、どす黒い光があふれだしてきたかと思うと、その光ともに指がいく本も突きでて、亀裂の壁を、がっとつかんだ。

□    八

 利菜はそこから、紗英が見たという溺死女が出てくるんだと思った。じっさい頭が見えたときは濡れた海草みたいな縮れ髪で、その髪の隙間から血走った眼がのぞいていたのだが、佳代子が、――母さん? とつぶやいた瞬間に、その女は杉浦登美子にかわっていた。
 佳代子が叫びはじめた。
「母さんだ! 母さんだ! 母さんだ!」
 佳代子の母親はスカートをまくりあげ、亀裂の中から大きく足を踏みだす。登美子の来ているワンピースに、亀裂からあふれるどす黒い光がまとわりついた。
 登美子は腕を左右におしひろげる、亀裂がめきめきと大きくなった。
 中からは風と光が猛烈に吹きだし、利菜と佳代子は思わずバランスを崩しそうになる。あやうく階段を踏みはずすところだったが、利菜が手すりをつかんだので(手すりはサラダ油が塗られたみたいに急にぬるぬると滑りだし、利菜は手すりの留め具に指を引っかけることで、どうにか二人分の体重を支えることができた、そして佳代子と体がふれたその瞬間、佳代子があんな母親を見るぐらいなら、ここから落ちて死にたがっていることを知った、そんな親友の思いに、利菜は身を引き裂かれるみたいな悲しみを感じた)、なんとかその難だけは逃れた。
 彼女は我にかえっていった。
「佳代子、しっかりしてよ! おばさんがこんなところにいるわけない!」
 ふりむくと、階段は三十度ばかり勾配を急にしたみたいだ。利菜は佳代子のことを腕一本で支えている。二人は崖から落ちかけたロッククライマーみたいになっている。
「あれはわるいものだ、これはおさそいだ、あんなのおばさんじゃない」
 佳代子が言った。「母さんがあたしを殺すんだ!」
「殺したりするもんか! はっ倒すよこの野郎!」
「だって母さんが……」
 佳代子は言葉につまったが、利菜はその言葉のつづき、もしくは佳代子の気持ちみたいなものを全部理解してしまった。佳代子の母親が、酔っぱらって二人で死のうかとすすめたことも、いますぐ殺してやろうか、とか、あんたなんか生まなきゃよかったと言った。こと、それはドラマからしたら月並みな言葉ばかりかもしれないけれど、佳代子がうけたショックは月並みなんかじゃなく深かった。佳代子は思い出せないけれど、幼いころから、ろくにしゃべれもしないころからそんな言葉を浴びつづけていたし、それは彼女が思い出さなくても潜在意識のなかで、厚くぶっとく根をはっている。利菜は佳代子と精神がつながるのを感じた。佳代子のうけた傷跡を、痛みを、その身で再現しながらのぞきみた。
 利菜は悲しみよりもずっと強い憤りのなかでこういった。
「ちくしょう、あんたの母さんがあんたにどういったって、あたしはあんたといたいのよ! 死にたいなんて、死んだほうがいいなんて、心のかたすみでだって思わないでよ。こんなところ出るんだ。あたしもあんたも、あんな方になんかいかない」
 と利菜はうえを見る。
「さあ、気持ちをつよく持ってよ。じいちゃんにいわれたみたいに」
「じいちゃん……」
 佳代子が言葉が飲みこめないみたいに呆然とする。
「そう、じいちゃん。階段はこんな急じゃない。手すりもすべったりしない!」
 利菜が手すりをぶったたいた。その瞬間、勾配がもとにもどって二人は階段に叩きつけられた。利菜は階段の角に肋と骨盤を打ち当て、痛みにうめきながら階上を見上げる。
 佳代子の母親は階段の上がり口に傲然と立ち、さあ、こっちに来るんだよ、と言った。男みたいに野太い声だった。その声をきいた瞬間利菜は、こいつにはかなわない、こんな奴にはかなわない、数秒でも一秒でもながく一緒にいたら、説得されて心をへし折られて、きっと絶対に引きこまれる、と思った。手でも口でも。こんな手強いやつにはかないっこない、と。
 利菜は慌ててわるいもの登美子から目をはなすと、佳代子をせきたてた。
「さあ、下に降りて。玄関あけて逃げるんだよ」
 二人は音をたてて階段を駆けおりはじめたが、後ろからはそれをはるかに越える大きな足音がひびいて、利菜は頭の真後ろに、わるいものがぴったりはりつくのを感じ、あいつがはき出す死の息が髪の毛を吹きはらい、わあたいへんだ佳代子のかあちゃんがぴったり後ろに食いついてる、と思った。
 三人が階段を文字どおり波打たせながら駆けきった瞬間、リビングから登美子が出てきた。一瞬で階下にワープして、二人の行く手をぴたりとふせいだ。
「母さん……」
 佳代子がうめいている。登美子は腕をふりあげ、娘のほおを手痛くはりとばした。
「やめて!」
 利菜は悲鳴を上げた。登美子が名状しがたいような顔つきで見おろす。佳代子に殺すと言った。とき、おばさんはこんな顔をしていたんだろうか?
「人の親に化けるなんて最低だよ……」
 震え声でつぶやく、登美子がまた手を振りあげたときには利菜はそのわるいものをつきとばしていた。未知のエネルギーが、脳みそだけじゃなく体中を駆けめぐっていた。
「佳代子をぶったたくと許さないよ!」
 そのとき、リビングとは反対側の、仏間の戸が開いた。釈栄会の会長にして、この家の主人、坪井善三が頭をかきながら、
「うるさいぞ! なにを騒いでるんだ!」
 お経でもあげていたらしく、肩には文字の入ったたすきをかけ、手には数珠を持っている。彼は三人を(正確には倒れている三人目の人物を)見て、あんぐりと口を開けた。利菜は思った。この人には見えてる。
 こんど有無をいわさずに手を引っぱったのは佳代子だった。彼女は家宅侵入を見つかったことで、まったく度肝をぬかれて必死になっていた。
「いこう!」
 佳代子は玄関のドアをあけた。その瞬間、表の真夏の外気が家のなかの冷えきった空気と対立しあい、空間がぐわんとしなるのを二人は感じた。感じるどころか、空間のねじ曲がる音まで聞いたのである。
 それでも二人は手で水を切るようにして、空間の境をかきわけ(境目は泥みたいに二人の子どもをとりまいた)、なんとか表に身をのりだした。利菜の肺に八月の正常な空気と熱気がながれはいり、肌と全内臓はその急激な温度変化にきゅっと縮みあがる。
 表に数歩かけだしたところで、二人は振りむいた。家の中では登美子から姿を変えたなにかが、坪井に覆いかぶさるところだった。
 二人が坪井を助けようかなにか声をかけようかと迷っているうちに、玄関の戸がばたんと閉まった。アニメのコマが、停止したみたいに静かになった。悲鳴もなにもきこえない。二人は顔を見合わせる、次の瞬間には自転車に駆けだし、サドルに飛びのると一目散にペダルをこぎはじめた。
 もう肝も勇気も消しとんで、後ろを振りかえるゆとりすらない。
 坪井家から遠ざかるその一時、あたりは確かに静まりかえっていたけれど、二人の心だけが悲鳴を聞いていた。空間がねじ曲がってしまった家からは、すべての音が漏れなくなっていたけれど、フル回転の頭脳が、そんな悲鳴を聞かせてくれたのである。

□    九

 二人が家までつづく帰り道で肩を寄せあい泣いたのは右のような事情があったからで、二人が無事坪井家から出られたのは、彼女たちが一人ではなく二人でおさそいにひっかかってしまったという、ただそれだけの理由にすぎない。佳代子の頬と利菜の背中についた血の痕は、わるいものがつけた手形のようなものだった(その痕を二人はずっと気にしていたのだけど、道行く人で気づいた人はいなかった)。
 二つの自転車は全速力でかっとんだ。悲鳴が聞こえなくなるまで。あの音がなくなるまで。脳みそがもとに戻るまでペダルをこいだ。そうしていれば、脳みそにまわったオイルを足が使いはたしてくれるみたいにペダルをこいだ。
 自宅のマンションがある方角とは道がちがっていたのだけれど、約一〇分間の全力疾走は、肉食動物が獲物をたいらげるときの、バリバリびちゃびちゃいう音をとおざけてくれた。
 どちらからともなくスピードをゆるめ、そのうち利菜はブレーキレバーを握りしめた。佳代子もとまった。
 自転車はとまったが、心臓は全力疾走をつづけていた。血液は体中をかけめぐり、血管はふくらみっぱなしだ。二人はハンドルにつっぷした姿勢のまま、目をみかわす。
 利菜は見た? と顔で訊いた。佳代子は見た、と顔でうなずいた。
 二人は自転車で坂をおりた。あとは歩いて家までの道をたどりはじめた。
 佳代子は利菜に心のなかをのぞかれたような気がして、とくに母親との関係については誰にも知られたくないことが多かったから、気まずい思いをしていた。利菜もそれがわかっていたから、登美子については触れずじまいでここまで来た。ただ、今日受けたおさそいは今までにない強烈なものだったし、おまもりさまへのおさそいというよりは、あの世へのおさそいみたいだったな、と彼女は感じ、それですっかり怖じ気づいて泣いたのだった。今日ばかりはただのおどしやすかしじゃなく、本物の命の危険を感じた。なのに母親はいなくて、父親も様子がおかしく、相談すべき大人はもう誰もまわりにいなかった。
 二人は今日の出来事で、おさそいは頭がつくった幻覚なんかじゃないということを身に染みるほどに理解した。そうして、自分たちがすっかり追いつめられていることを、子どもながらに感じたのだった。
 利菜はほかのメンバーがどう思っているのか知りたかったが、家に帰りつくと、ほどなくして達郎から電話があった。あまりうれしい電話ではなかった。彼は自分が怪我をしたことと、瀬田英二がいなくなったことを伝えてきたからだ。
 達郎は明日、校庭にみんなで集まろうと、それまでに自分は寛太と英二のことを調べに行くつもりだと言った。彼はみんなで集まって、話をしたほうがいいと言った。
 電話の音がなくなると、部屋は黙りこんでしまった。居間には自分と父親がぬいだ服がとっちらかっている。
 台所にいくと、カップラーメンの開けたのや、つかったままの皿やコップが、テーブルや洗面台に散乱している。ここ数日のゴミで目一杯ふくらんだゴミ箱、入るだけつめこまれたまま結ばれてもいないゴミ袋が二つある。
 西日がさしこむ台所は、すっぱい匂いがした。ゴミ袋にちかづくと、ナイロンにはレタスの腐った茶色いヘドロみたいのがこびりついていた。虫もいた。夏場に誰も窓をあけることもなく、クーラーをかけることもなかった部屋は、蒸し暑い空気がこもっており、かさこそとゴキブリの走る音がした。
「こんなんあたしの家じゃない……」
 口にだすと泣けてきて、利菜は腐ったゴミの匂いのなかで、しゃくり上げながら鼻水を垂らした。あの家にいけば、母さんに会えると思ったのに、それだからこそ危険を犯してまで佳代子についてきてもらったのに、結果はちがったのだ。
 ひとしきり泣くと気がおちつき、利菜はすこしだけ気持ちが前向きになった。こんなふうに泣いてちゃいけない。泣いてもいいけど、その後はきっぱり元気をださなきゃだめだ、と寛太郎にいわれたとおり、臭い部屋で胸一杯に空気を吸った。
 利菜は部屋を歩きまわって、あちらこちらの窓をあけた。クーラーも全開でかけてやった。ほんとはそんなことをしたら、かあさんに、電気代がかかるでしょ、と怒られるけど、今日ばかりはその心配もない。
「いないほうが悪いんだよ」
 というと、せいせいとした気分になった。
 母親は几帳面な人で、部屋を散らかすのは厳禁主義で、掃除機を一日いちどはかけ、窓ガラスも週にいちどは拭く人だった。その反動で利菜はまったく家のことをやらなくなっていたが(ちょっと潔癖性気味にはなっていたが)、生まれてはじめて家事をやろうという気になった。
 利菜は父親のタンスから軍手を見つけた。花粉症用のマスクもつけた。ゴミ袋の口を三つともしめてまわり、下のゴミ回収場までもっておりた。
 その後、彼女はたまったゴミを集めてまわり、たまった汚れ物を洗い、たまった服を洗濯機におしこみ、見よう見まねでまわしてみた。粉をいれ忘れたが、後で追加した。風呂を洗うと、お湯をためだし、それから部屋という部屋に掃除機をかけた。
 六時になると、父親がローソンの弁当をもって帰ってきた。かたづいた部屋をみて、父親はしばらく無言だったが、ややあって頭に手をおいた。
 父さんがまともな反応をかえしたのはそのときだけで、後はずっとうわの空だった。まるで頭のなかの考えに熱中して、まわりのことにはなにも気がつかない様子だった。
 利菜は湯船につかり、なるべくリラックスしようとつとめながら、父さんはだんだんひどくなってくな、と考えた。風呂に顔をつけて、涙をお湯にたれながす。父親が食事をしながら口からご飯をとりこぼす様子や、痴呆患者みたいに、テレビをつけているのにまるで見ていない様子を思い出した。
 利菜は、まるで父さんじゃない、だれか他人と暮らしているみたいだな、と考えた。そうすると怖くなって、怖がったり不安がったりするとよく幻覚をみるから、お湯をジャバジャバと顔にぶっかけて気をまぎらした。
 こうして上原利菜の精神は、日一日と追いこまれていったのだが、おまもりさまにもどる決心をしたのは、風呂からあがり髪をふきながら部屋にもどり、机の上に置かれた、ある物を見つけたからだった。
 ビニールボールがあった。
 彼女はしばらく戸口に立ちつくし、それからゆっくりとした足取りで机に近づき、震える指で手にとった。ひっかき傷がいくつもあった。色はピンクだ。茶色い染みのような物がこびりついていた。山で捨てたボールだった。なめ太郎が投げかえしてきたやつだ。
 利菜はビニールボールをテーブルに落とした。
 そのとき、後ろで戸が開いて、利菜はなめ太郎がはいってきたと思ったのだが、戸をいきおいよく開けたのは父親で、彼は爛々とした目で、「ビニールボールは見つかっただろっ!」と一声さけぶと、本棚が揺れるほど、きつく戸を閉めでていった。
 利菜は息を乱しながら、しばらくその場で立ちつくした。捨てたのに……と彼女はつぶやいた。捨てたのにどうやって戻ってきたんだろう? 父さんがここに置いたのかな?
 ビニールボールに手をのばす、彼女は指先でふれようとする。ボールは自然に転がった。ボールについた茶色の染み。それはあのときついた血の痕なのだけど、その血痕はボールに幾重にもくっついて、笑った顔のようにも見える。
 あれは父さんなんかじゃない、と考えると震えが起きた。部屋を出て、わき目もふらずに居間を横ぎり、玄関をあけると外にでた。家をでていった。

□    十

 翌日、子どもたちは達郎にいわれたとおり神保南小学校に集合した。
 校門前の駄菓子屋には、すでに紗英がきていた。阿曽商店は、勘定場が畳みの縁台になっていて、そこに腰かけ、くつろげるようになっている。
 達郎と寛太は、英二のことをたしかめにいって、まだだった。
 利菜は佳代子たちにもビニールボールを見せた。新治と紗英は無言だった。みんなひどく無口になった。
 十分ほどすると、寛太たちがきた。駄菓子屋を出ると、学校の門は封鎖され、運動場には子どもたちの姿がない。そのほうが好都合だった。
 みんなは買いこんだお菓子をもって、裏門にまわった。門のそばに自転車をかためておいた。達郎を先頭になかに入った。
 リトルでの怪我の話をせびりながら運動場にまわると、テラスの階段に腰を落ち着けた。そのときには雨はやみ、赤いタイルも乾いていた。六人はもくもくとお菓子をひろげ、黙りこくって校庭や雲をながめた。
 口火をきったのは佳代子だった。達郎に、
「敷地には入れたの?」
「入れなかった」
 警察がいたからだと彼がいったので、みんなはちょっと緊張した。達郎は寛太とつれだって、発電所の様子を見にいったのだ。行こうと言いだしたのは寛太で、彼はいまも青い顔をしている。
 利菜は瀬田英二とは、四年のときのクラスメイトだった。当時は、あの子のことを英二君とよんでいた。「英二君、水泳パンツはいてなかったんでしょ?」
 奇妙な視線が集中した。みんなは英二の裸を思いうかべたのだ。
「バックのなかに入ったままだたってこと。そう聞いたんだよね……」
 達郎が言った。「警察は川を捜してた。おぼれたと思ってるんじゃないかな?」
「おぼれたんじゃないんでしょ?」
 佳代子の言い方は断定的だった。利菜がいいたかったことを代弁していた。
「おぼれたんじゃないんだよ。水泳パンツもはかずに泳ぐなんておかしいもん。それに発電所の下で泳げるわけない」
 佳代子がいったのは、あの辺りの水深が浅いからだ。子どもたちは、もうすこし上にある松の木のあたりで泳ぐし、瀬田英二が友だちと集まろうとしていたのもその場所だ。
 佳代子はこう質問した。
「英二君がいなくなったの、おさそいと関係あると思う?」
「わからないよ。発電所の近くでいなくなったなんて気味が悪いけどさ、でも、あいつは山には行ってないだろ?」
「別のときにおまもりさまに行ったってことはない?」
 みんなはいっせいに紗英を見た。
「英二君、わたしたちとは別のときにおまもりさまに行ったのかも。そんであいつに捕まったんじゃないかな」
「捕まったなんていわないでよ。英二君いなくなっただけかもしんないじゃん」
 佳代子の声は震えていた。でも、みんなの表情は、おさそいと関係ある、といっていた。こんな目にあっているのが、自分たちだけだとは思えなかったし、思いたくもなかった。英二の身になにかあったなんて、もっと考えたくなかったが、発電所に置き捨てられた自転車は、なにかを暗示している気がした。一同は――いなくなった子どものことを話し合うだなんて、不気味なことだったけど――お互いがおなじように感じているかを確かめたかった。
 達郎が吐息をついた。彼の顔は蒼白で、大きなガーゼが痛々しかった。
 達郎の頭からは、ある考えがこびりついて離れない。それにみんなにうまく伝えられるか自信がなかった。
「おまもりさまに行ってから、変なことばっかり起こるよな」
 と彼は切りだした。実際には夏休みにはいる前から、町の様子はおかしかった。集団下校がはじまって、遠方の生徒のために送迎バスまで用意されていた(達郎たちはあぶれた口だ)。表で遊ぶ子どもたちの姿が、めだって減ったころでもある。なのに大人は肝腎なところで注意をはらわなかった。いちばん顕著なのは、自分たちの親だった(変わらないのは紗英の親だけだったが、これは彼女の母が子育てについて、強烈な信念をもっていたからだと思われる)。これだけ外を出歩いて、寛太の家に泊まりこんでも、苦情らしい苦情をいってこない。
 達郎は、そんなことを思い出しながら話をした。
「おれはじいちゃんのいうとおり、おさそいのことは、幻なんだと思いたかった。でも、そうは思えないんだよな。溺死女とかなめ太郎とか、おれは馬鹿馬鹿しいって、そんなのいるはずない、こんなこと起こるはずないって思いこもうとしてたけど、おれたちそんなことしちゃいけないんだよ」
 達郎は一気にまくしたて、みんなのことを挑発するような目つきで見渡した。
 紗英が言った。「でも、じいちゃんは幻覚だっていった。達郎ちゃんだって、なめ太郎のことばかにしたじゃん」
「それはあやまるよ。正直いうと、おれはいまリトルの試合がいちばん大事だったんだよな。でも、コーチの打球をうけて、ほんとに危険なんじゃないかっておもいだした。わるいものって、おれたちの頭がつくった幻覚なんかじゃなくって、ほんとにあるんじゃないかっておれは思うんだ」
 達郎の顔は真っ赤になって、しゃべる声は甲高かった。見えないのに存在するものについて説明するのはむずかしかった。
 達郎がおさそいについて認めるような発言をしたのは、これがはじめてだった。達郎の熱心な話しぶりにみんなは身をのりだした。
「あんときの練習は監督がいなくてさ、藤尾って大学生のコーチが代理でノックをしてたんだ。最初は普通だった。ランニングもストレッチもいつもとおんなじにやったんだ。キャッチボールのときは人数がたんなくてコーチもまじってやった。そのときは普通だったんだ。でも、ノックがはじまって、コーチの様子が、おかしくなった」
 達郎の顔は赤くなり、この告白を恥じているようなそぶりだった。
 佳代子は達郎がもう黙ってしまうんじゃないかと思ったが、彼はやめなかった。
「そのことはリトルのみんなも認めてる。コーチのノックがおれに集中しはじめてさ。いやってほどきつくなって、なのにおれにもっと近寄れっていうんだよ。もっと、もっとだ。みんな目え丸くしてさ、コーチはおれに近寄れっていうだけじゃなくて、ののしるんだよ。おれはもうやばいって思ったけど、そのときにはもう遅くって……」
「ボールが当たったんだ……」
 佳代子が言った。
「そのコーチ、おれ知ってるぜ」
 寛太がいうと、達郎はうなずいた。
「やさしいいい人だろ。きびしいけどさ。終わるとジュースおごってくれたりするし、面倒見がよくって、おれは好きなんだよな。だけど、あのときはコーチの顔がゆがんで見えてさ、コーチの顔がその……」
「わるいものみたいに見えた?」利菜が言った。
 達郎はまたうなずき、
「そうなんだよ。おれ、おっかなくてさ。ボールが当たったのは、身がすくんだせいだ。ボールが来るのは見えたんだけど、脚が動かなくてさ。おれがぶっ倒れたら、コーチはもとに戻って……」
 唾を飲む。
「変な言い方だけどほんとなんだよな。鬼みたいに見えたのが、いつもの顔になって、慌ててとんできたよ。おれのこと本気で心配してた」
「達郎ちゃんに怪我させたんだから当たり前だよ」佳代子が言った。
「コーチのこと悪くいうな。コーチのせいじゃないんだ。おれはこんなことみんなに言いたくないし、考えたくもないよ。でもな、もしかしたら、ほんとに危ないかもしんないだろ?」
「つまり、なにが言いたいのよ」
 紗英が不機嫌に言う。
「つまり知っといたほうがいいってことだよ。みんな油断しちゃいけない。じいちゃんがいってることはまちがいだ。ほんとだけどまちがいなんだ」
 利菜が眉をとがらせ、「それってわけわかんないよ。まちがいなのに、ほんとなわけ?」
「半分はほんとってことだよ。度胸があれば、わるいものをおっぱらえる。これはほんとだっただろ? でも、じいちゃんはおれたちが見てるのを、ただの幻だって思ってる」間をおいて、「でも、おれはそうじゃないって思ってる」
「ボールが頭に当たったりするから、そんなこと考えんのよ」
 紗英がつっけんどんにいった。
 みんなの視線が集中して、彼女は赤ら顔をふせてしまった。
 達郎は大人びてうなずいた。
「あのノックではっきりしたのはほんとなんだ。おまもりさまに何があるかはわかんないけど、そいつはおれたちになめ太郎を見せたり、コーチを操ったりしてるんだと思う。お化けだかなんだか知らないけど、おさそいってのがほんとにあって、そいつはだんだん強くなってる。とおれは思う」
 達郎の口調は力強かった。
「松井が親父に殺されたのも、町を歩きまわってる殺人犯も、みんなおまもりさまが操ってるのかもしれない。みんなはどう思う?」
 みんなは顔を見合わせた。そしたら新治がぽつりぽつりと話しはじめた。図書館でなにがあったのかを。新治の心は、あのことを思い出すのをしぶったが、にいちゃんには逆らえない。正直に話したにいちゃんには。
 新治は最後に、兄ちゃんのいうとおりだと思う、幻なんかじゃなくてほんとに危険だと思う、と言った。
 新治の話が終わると、一同はだまりこんだ。佳代子と利菜は顔をみあわせ、昨日起こったことを話しはじめた。新治と別れたあと、利菜が母親を見つけにいきたいと言いはじめたこと、坪井という宗教家の家にいったことを、つつみかくさず正確に話した。
 その家では階段や手すりが変化したし、壁の裂け目からは佳代子の母親があらわれた。あいつはあたしたちの心が読めるんだよ、佳代子はそういった。それで一番いやなふうに姿を変えるんだ。
 佳代子がそんなふうにいったので、達郎は身震いしながらこう思った。あいつらはおれたちのことを知りつくしてるんだ。
 二人の話に、みんなは真剣な表情で聞きいっていたが、利菜がビニールボールをとりだすと、食い入るような目つきに変わった。達郎と寛太は信じられないと言いたげにボールに顔をちかづけた。
 達郎が、「なんだよ、それ。おまえ持って帰ってきたのかよ」
「ちがう、気がついたら机の上にあったのよ。昨日の晩だけど……朝出かけるときはなかったのに」
 みんなはビニールボールに目を落とした。佳代子が言った。
「あたし、それ捨てるとき一緒にいたから、知ってんだ。部屋にあるはずないんだよね」
「達郎ちゃんのいうとおりだよ。親がおかしいのは幻覚じゃないもん」
 利菜がいうと、達郎はうなずきをかえしながらこういった。
「大人がいうみたいにさ、殺人犯はほんとにいるんだろうな。だけどそれだっておまもりさまと無関係とはいえないかもしれない」
「どういうことよ?」と紗英。
 達郎は立ち上がった。彼は頭をがしがしとかいた。
「コーチを操ったみたいに、おまもりさまの力が犯人を動かしてるかもしれない。幻はあいつそのものじゃなくて、おれたちの心が見せてるのかもしれないよな。だけど、おまもりさまの力が働いて、きっとそれが原因でみんながおかしくなってるんじゃないかな」
 佳代子は不機嫌そうに口をとがらせた。彼女は達郎がいったことを認めたくなかった。
「じゃあ、おまもりさまに何があるの? ダースベイダーみたいな悪役がいるっての?」
「そんな妖怪なんていないんじゃないかな……」
 達郎はすこしうつむいて沈思熟考しているようだった。
「おれはとってもそうは思えない。でも、満月の夜は人間が凶暴になるっていうだろ? あの山にある何かがみんなをおかしくさせてるんじゃないかって、おれはそう思うんだ」
 みんなは満月の話は、テレビで見るか、雑誌で読むかしてそれぞれに知ってはいた。満月のもつある波長が、人を凶悪にさせるのだ。そんなとき、犯罪件数はうなぎ登りになる。
 両神山には、おまもりさまという誰もちかづかない場所まである。みんなはあの山にあるなにかについて真剣に考えはじめた。
「寛ちゃんは?」
 佳代子が訊いた。
 そう言えば、寛太はみんなが合流してから、一言も口を利いてない。
「そうだよ、寛太はなにもなかったのかよ?」
 達郎も訊いた。
 みんなの視線は、竹村寛太に集中した。むしろ寛太の身にもなにか起こっていることを、期待しているかのような目つきだった。
 そんな集中砲火を浴びても、寛太は青い顔をしてうつむいている。達郎は、寛太はもうしゃべんないのかな、と思ってそっぽをむいた。そりゃしゃべりたくないこともある。
 すると、寛太が口をひらいた。
「おれいたかもしんないんだよな……」
 いたんだよな、と彼は言った。
 なにが? という顔で、達郎は向きなおる。寛太は一気にまくしたてた。
「おれ、ほんとは松の木で泳ぐメンバーに入ってた。でも、あそこは発電所に近いから、行くのやだったんだよ。だから、断った。そしたら、英二のやつが、代わりに行くことになった」
 寛太はあぐらをかいて足首をつかみ、その足首にうんと顔を近づけた。泣くのをこらえているみたいだった。
 寛太が発電所に行きたがったのは、英二のことを確かめるためだった。英二が自分の身代わりになったみたいな、そんな罪悪感を感じていたのだ。
「おまえのせいじゃないよ」
 達郎はたまらくなって寛太の背を叩いた。寛太はだだっこみたいに首を振った。それも激しく。彼の顔から、鼻水と涙が垂れて、左右に散った。寛太に元気がないのも無理からぬことだった。
 みんなの目にも涙が浮かんだ。達郎だけが考え深げな顔をしている。
「達郎ちゃん、あたしたちどうすればいい?」
 佳代子が涙をぬぐって訊いた。彼女は手の甲についた涙を、じっと見つめた。
「図書館にいって山について調べてみないか」
 と達郎は提案した。彼は新治に目をやった。
「青葉図書館じゃなくてさくら図書館にいこう。すぐ近くだし。あそこの方が古い本とか、神保町のことが書いてある本がたくさんあるはずだ」
 達郎は寛太の肘に手をまわして彼を立たせた。みんなも立った。
 彼らは校門の外においた自転車のところまで歩いていった。
 殺人事件が起こりはじめてからこちら、校庭での遊びは禁じられていた。学校には当直の先生がいて、六人の姿も目にしていた。だけど、なにも言わなかった。注意もなかった。そのことに彼らは気づいていない。おまもりさまの血がだれにも見えなかったみたいに、町の人たちは彼らに関心をはらわなくなっていた。
 校庭を出るとき、最後に紗英がこう訊いた。
「あたしたち、もうにげられないの?」
 みんなは互いの顔を、盗み見るみたいに目を見かわした。
 達郎はじっと前を見た。佳代子も利菜もうつむいて、靴をいじくりはじめた。
 それについては、誰もこたえようとはしなかった。

□    十一

 さくら図書館は神保南幼稚園のほど近くにある。
 六人はそこで山にかんする記述を探しはじめたが、はじめてすぐに、こんなやり方では一日たっても終わらないことに気がついた。そこで片端から調べるのをやめ、両神山について書いてありそうな本だけを棚から抜き出し、机の上に山積みにしていった。本がひとりでにめくれたり、外の低木が窓をふさいだり、廊下をはしってきた誰かが扉をしめたり(座敷わらしだと紗英は思った)、妨害はさまざまあったが、それぞれに仕事をこなした。だけど、おさそいに関する記述はどこにもなかった。達郎は、あの山はずっと昔からあそこにあったのに、誰もこのことに気づかなかったんだろうかと思った。犯罪が多発する現象は、突然はじまったのか?
 両神山には、昔山村があり、山のなかには神社もあったということだけはわかった。だが、それがおさそいとどう関係があるのかまではわからなかった。みんなは近くのコンビニで食料を買いこみ、昼をすぎても食べながら調べた。
 そのうち達郎が本をおいた。彼はだまって窓の外に目をやった。外では昔裏庭と呼ばれた場所で、子どもたちがドッジボールをやっていた(ちなみに表の校庭は、半分は町に買いとられて道路になり、もう半分は図書館の駐車場になっている)。みんなはだまって達郎を見つめた。もう三時になっていた。
「もう帰ろう」
 達郎は不機嫌な声でいった。
「調べないの」
 佳代子が訊いた。
「調べてもわかるわけないよ」
「じゃあ、どうすんのよ?」
 佳代子が訊いた。達郎はふりむいた。憔悴した表情だった。そういえば、みんなちゃんと睡眠をとれなくて、目の下にクマをつくっている。
 おまもりさまでなめ太郎を見てから、四日がたっていた。その間、まともだった日は一日たりともない。それぞれに恐ろしい体験をし、幻覚も見つづけていた。
「みんなこのまま我慢できるか?」と訊く。「いまのままだと、いつまでたってもおさそいは終わらないかもしれない」
「だから、どうするつもりなのよ」
 佳代子が不機嫌に口をとがらせた。達郎は不機嫌そうに腰に手をあてる。わかってるくせに、と言いたげな表情だった。
「おれたちもう一度山にもどるべきだよ。おまもりさまに何があるかわかんない。けど、そいつはおれたちにもどることを望んでると思うもんな」
「そんなの……」と佳代子は絶句した。「危ないにきまってるじゃん。あたしたちの人生まで終わっちゃうかもしんないんだよ。ひでゆきって子や、英二君みたいに殺されるかもしんない」
「英二はまだ死んでない。それにおれはじいちゃんについてきてもらえばいいと思う」
 達郎は言った。寛太郎が一緒ときいて、みんなの顔つきが変わった。話は急に現実味を帯びはじめた。
 紗英の泣き声がそんな妄想をうちやぶった。
「でも、なんでもどんなきゃいけないの? すっごく怖いよ。殺人犯がいたらどうする? あんときだってさ、蔓草の向こうで国村さんほんとに死にかけてたのかも」
 みんなはびっくりして彼女を見た。誰もそんなふうには考えてこなかったのだ。
 佳代子が言った。真剣な決意めいた表情だった。
「でも、あたしは行きたいと思うんだよね……母さんのこともあるしさ。これ以上あんな目にはあいたくない。あんな母さん、たとえ本物じゃなくても見たくないよ。あたしの妄想だとしたらさ、妄想が現実になったもんだとしたら、なおさら悪いよ。あたし、母さんのこと、あんなふうに見てるの?」
 誰も答えることができなかった。
「なおさら悪いよ……」
 と佳代子は言いおえた。
 つぎに口をきいたのは利菜だった。図書室の机はその場所柄もあって、急速に会議室の様相を呈しはじめた。
「うちも、母さんがいなくなったじゃん。それっておまもりさまのせいかもしんない。父さんの様子もあんなだしさ。もとに戻ってくれるんなら、なんでもしたい」
 新治もおなじ気持ちだった。寛太も、(罪悪感から)戻るべきなんだろうなと言った。英二が戻ってくるんなら、なんでもしたかった。その意味では、瀬田英二はおまもりさまに取られた人質のようなものだった。
「今日は寛太の家に泊まろう」と達郎は言った。「そんでじいちゃんについてきてくれってたのむんだ。明日は両神山にいく」
 そして利菜に視線をあてがった。彼女は机のうえでビニールボールをもて遊んでいる。みんなの視線が彼女の手元に集中する。利菜はそれに気づいてボールをしまった。
「まずはじいちゃんに頼みにいこう」
 達郎は机の上にちらばった本をかたづけはじめた。みんなもそれにならった。彼らが外にでるころには、時刻は三時をまわり、分厚い雲がめだちはじめている。天候は怪しくなっていた。
 彼らがさくら図書館を後にするころ、両神山ではすでに雨が降っていた。その雨粒は、瀬田英二の遺体を、洗っていたのだ。

□    十二

「じいちゃんがいないっ?」
 寛太の声が、家の土間にひびいていった。一同は寛太の家にもどっていた。寛太はばあちゃんと話していた。じいちゃんに両神山についてきてくれるよう頼もうと、寛太の家に集合したのに、肝腎の寛太郎が出かけていないと言う。
「なんでいないんだよ。どこいったんだよ」
「同窓会で、となり町にいくというとった」
「同窓会?」
 みんなは顔を見あわせた。寛太郎みたいなじいさんでも、同級生が集まったりするのだろうかと、疑問をもったのだ。
 達郎は、普通はもっと早くからハガキかなにかで知らせるはずだと考えた。利菜はいなくなった母親のことを、紗英は溺死女のことを思いだし怖くなった。そりゃあ、じいちゃんは直接おさそいを追いはらってくれたりはしない。そんなことはできない(見えないんだから)。でも子どもたちにとって、寛太郎は心理的な防波堤のようなものだった。
 みんなはいっせいにうろたえた。泥棒がとなりにいるのがわかって、戸締まりをしようとするのに、肝腎の鍵がないようなものだった。しかも、この泥棒は、鍵がないのを知っている……。そんな気分だった。
 寛太はこの家にわるいものが制限なしに踏みこんでくるような気がして、さすがにおっかなくなった。
「いつもどるんだよっ?」
 ばあちゃんにつめよりなじる寛太を、達郎がとめた。
「やめろよ。となり町にいったんなら、明日にはもどってくるだろ」
「でも……」
「あたしたち急いで行きたいわけじゃないし、あたしは待ってもいい」
 と佳代子は言った。今日一日ばかり我慢すれば、じいちゃんは戻ってくると思ったのだ。みんなはおなじ気持ちだった。寛太もひきさがることになった。
 だが、夜になっても寛太郎がもどってくる気配はなかった。連絡もなければ行き先もわからない。風呂にはいり、浴衣に着替えるころになると、達郎もおかしいと思いはじめた。寛太はやきもきしっぱなしだ。
 竹村家には男親がいないから、寛太郎は出かけるときは行き先と連絡先をかならず残していくし、出先で帰れないときは電話をかけてくる。寛太は腹をたてたり、心配したりで忙しかった。
 六時をすぎると、寛太家の周辺でも雨が降りはじめた。寛太も達郎もいらだっていた。両神山に行く行かないよりも、寛太郎までいなくなったことに不安をおぼえた。
 食事が終わった。テレビはつまらなかった。バラエティをみても誰も笑わない。八人も人がいて、話し声がつづかない。
 利菜と佳代子がトランプをはじめたが、カードをきって配る最中に、どちらもやめようと言いだす始末。男の子たちは蹴ったり叩いたりしてふざけていたが、それよりもじっと押し黙っていることのほうが多かった。
 屋根をうつ雨音が、いやに高く響いてくる。雨音が子どもたちを、屋内に閉じこめているようだ。
 その大雨は、わるいものの挨拶のようでもあった。いまからそこへ行くぞと。黒雲とともに舞いこんできそうだった。おさそいは時と場所を選ばない。これはほんとだ。
 一同は早めに就寝することにした。いつものように蚊帳を吊ると、布団をひいて横ならびとなった。
 雨はやまなかった。
 今日はたいへんだったなあ。
 達郎が布団のなかでぼんやりとつぶやいたが、その今日というのは、まだ終わったわけではなかったのだ。

□    十三

 利菜が物音で目をさましたとき、家のなかは真っ暗だった。彼女は布団のしたで体を硬直させている。外の嵐はおさまっていない。雨と風の音が、部屋の中までとどろいた。
 雨戸がガタガタ鳴っている。利菜はじっと息をひそませながら、さっき聞いた物音はまちがいかな、と思った。耳をすます。みんなのいびき声がしたし、すこやかな吐息もした。だけど、かりかりという音はまだ聞こえた。ひとりごとも、ずっとつづいた。ふたつの音は夢までとどいて、彼女の目をさまさせたのだ。
 闇夜に目がなれると、四角い蚊帳の天井がようやっと見えた。利菜は落ちつきを取りもどして友だちを確認した。利菜の左には紗英と佳代子がいる。右どなりには新治と達郎。佳代子がはじっこはいやだというので、寛太は佳代子のとなりにいる。
 利菜は掛け布団の下でじっとしたまま、誰かのひとりごとを(すくなくとも友だちの寝言ではなかった。声は床下から聞こえたから)聞きながら、これがまだ夢なのかを考えた。
 雨戸がはげしく鳴り、彼女は身をふるわせる。
 ピシャア!
 ふすまの閉まる音がした。利菜は布団のなかで、魚みたいに身をひるがえした。うつぶせになり、恐る恐る上をみると、寛太の部屋の戸がかすかに揺れて閉まっていた。
 閉まった――ということは、
 開いてたっけ?
 閉じていた気がする。眠るときは閉じていた気がする。寛ちゃんが夜中に起きて、開けたんだろうか?
 じゃあ、いまは誰が閉めたんだろう?
 利菜は眠っている人数をかぞえはじめた(増えていたらどうしようかと思い身震いする)。自分をふくめて六人。寛太の親はべつの部屋に寝ている。この部屋にいるのは子どもたちばかりだ。
 そうっと身を起こし、蚊帳の外まで視線をとばす。部屋のとなりはテレビのある居間、その反対は廊下で、雨戸にまでつづいている。雨戸が開きはしないかと思うと恐ろしい。布団のなかで手をつく。今日はみんな寝相が悪い、夢のなかで苦しんでるみたいだ。ばあちゃんが部屋に入ったんだろうか……? なんのために?
 いつもの蚊帳が、檻のように見えだす。襖はじっとしているが、気配がある。寛太の部屋に誰かいる……と彼女は信じた。
「佳代子……」
 利菜は紗英の体をこして、佳代子の体をゆすった。佳代子は恐がりだけど、いちばん頼りになるのは彼女だった。
「佳代子、起きてよ」
 佳代子はびくっと身をふるわせ目をさましたが、しばらくなにも答えず身動きすらしなかった。そのとき佳代子はとなりに寝ているのがなめ太郎だと信じていたのだが、やがてここが寛太の家で、いま自分をゆすったのが利菜だということに気がつくと、猛然と腹をたてた。トイレについてきてというつもりなら、絞め殺してやろうとさえ思った。
 佳代子は身をおこし、
「なにっ?」
 と利菜をにらみつけた。雨戸がごとごと鳴って、二人は布団をそっと引きつける。風かな? と利菜はうたがった。ほんとに風なのかな?
 佳代子が蚊帳のむこうでささやいた。
「なんなのよ? まだ夜でしょ」
「床の下から音がすんのよ。それにさっきはふすまが閉まった」
 佳代子は畳を見た。襖も見た。そして、「かんちがいじゃないの?」と彼女は訊いた。だけど、鼻で笑ったりはしなかった。佳代子はより緊張したのだった。
 利菜はみんなを見てた。「どうしよう?」
「開けよう」
 佳代子は蚊帳の端をそうっと押しあげ、四つんばいのまま外にでた。利菜もつづいた。蚊帳の外では、電池式の蚊取り線香が、赤い発光灯をつけている。
 佳代子は畳に耳をちかづけて、「ほんとだ、かりかり音がする」
 利菜は佳代子の肩をつかんだ。「みんなを起こそうよ」
「だめだよ、騒いだらばあちゃんたちが起きてくる」と佳代子は言った。
 利菜はそれが重大事であるかのようにうなずいた。寛太郎の言葉を思いだす――怖いときに怖がるだけのやつはしみったれだ。
 利菜はじいちゃんに怖がっていると思われるのはいやだった。寛太郎はつねに誇りたかい人間だ。そのことを寛太やみんなにも要求している節がある。利菜は子どもながらにその期待にこたえたかった。佳代子もおなじ気持ちらしかった。
 佳代子が、
「襖はひとりでに閉まったりしない。あたしたちは怖がったりしない」
「しない」
 と利菜はうなずいた。
 佳代子が襖に手をかけ、素早くいった。
「反対側から開けてよ。いっしょに開けるんだよ」
 二人は左右から襖を同時にひいた。おばさんが桟に石けんを塗っていたから、襖は思ったよりもいきおいよく開いた。
 佳代子が尻餅をついた。利菜はうめくような吐息をもらす。「ひゃああああ……」
 部屋のなかには、服がぶら下がっていた。両神山に着ていった服、神社に埋めたはずの服だった。寛太郎は子どもたちが安心するようにと、いっしょに神社の裏山に埋めてくれたのである。それも単にぶらさがっているだけじゃない、服は新たな血にまみれ、びしょ濡れになっている。古い血はえび茶色になり、泥もついていた。掘りだしてきたばかりみたいに……。
 佳代子が、持ち場の襖をそうっと閉めた。利菜も閉めた。
「ありえない、ありえないよ」佳代子がつぶやくように早口で、「いたずらだったらいいのに、寛ちゃんのいたずらだったいいのに」
「それこそありえないよ、あの服、神社に埋めたんだもん。掘りだすなんてむりじゃん。寛ちゃんも怖がってたし」
 利菜は襖までお化けになったというような顔つきで戸を見上げる。「それに床も汚れてた。自分の部屋なのに、そんないたずらしっこないよ」
 佳代子は、揺れるような目つきで、利菜を見、
「あの服、雨で濡れてたのかな?」
「ちがうと思う」
 その証拠に臭いがする。燃えたつような、血の臭いが。
 なにかが天井裏を駆けぬけ、二人は悲鳴をあげて飛び上がる。その音で達郎が起きた。彼は布団が空っぽになっているのに気がついた。
「利菜」と新治の体をこして、二人が寝ていたはずの布団をなでた。「佳代子」
「ここだよ」
 背中に声をかけられ、達郎は身を反りかえらせる。
「おどかすな、ぎっくり腰になるじゃんかよ」
 達郎は肚がたったのと、ほっと安心したのとでおどけていったが、二人はまったく笑わず手をにぎりあっている。
 達郎の下敷きになった新治が、
「なんだよにいちゃん?」
 枕元の眼鏡をつかむ。冷たい寝汗をかいたせいで、寝間着がぐっしょりと濡れている。
「こっちに来てよ」
 佳代子が静かな声で言う。自分たちが起きているのがばれるのを、こわがっているみたいな声色だ。
 兄弟は無言で顔を見あわせる。なにがあったのかは考えたくもなかった。
「開ける気?」利菜が佳代子に訊いた。「また開ける気?」
「そうよ」
「冗談、あんなのもう見たくもないよ。気いついてんでしょ、臭いもすんじゃん」
「臭い?」
 達郎が蚊帳からはいでてくる。懐かしい血の匂いが嗅覚をみたす。彼は部屋へとつづく襖を見た。いつもの扉が邪悪にみえる。
「なにがあるんだよ? 開けたのか?」
 達郎が二人のそばへいった。彼はまだ子どもだが、中学生ぐらいには大きい。利菜はわずかに安堵する。佳代子が答えた。
「服があった」
 ひっと息をのむ音がし、三人は飛びあがる。ふりむくと、新治が手で口を押さえている。
 新治はすまなそうな顔をし、視線をそらした。
 達郎が、「神社に埋めたのにか?」
「なめ太郎だよ」
 新治が布団をひきよせ、震えながらくるまる。
 達郎はそれをみて迷った顔をし、「新治はそこで待ってろ」と弟にいった。彼は襖に顔をちかづけた。襖のむこうになめ太郎がいて、開けると黄色い目玉がむこうからのぞいて、いなごみたいに素早い腕が首をつかむにちがいない、と思いながら扉に手をかけた。
 襖が五センチひらいた……むせかえるほどの血の臭いが、となりの部屋からかえってきた。達郎はふるえた。寛太の部屋は仏間を兼用しているから、部屋には仏壇があり位牌が祀ってある。床の間にはへんてこな絵の描かれた巻物がたれさがっている。そのうえにはご先祖さまの写真が飾ってある。そのうちの若々しい写真は寛太郎の兄弟のもので、さきの戦争で死んだ人だと言う。達郎はいつも、気味が悪いな、と思っていたが、いまはそんなもの目にはいらなかった。
 利菜と佳代子の目にもあの服が見えた。達郎の体がじゃまをして、新治には見えなかったみたいだ。
 達郎は唾をのんだ。襖を閉めた。いま見たものを考えた。寛太は部屋の天井にロープをわたして、そこにプラモデルや野球のペナントを吊っている。服はそのロープにかかっていた。達郎は服をとめている洗濯ばさみもしかと見た。たしかに血糊で真っ赤だった。
「どうしよう?」
 佳代子が訊いた。ばあちゃんと寛太の母親はとなりの部屋で寝ている。佳代子はそれを起こそうかといっている。
 達郎は服がひとりでに戻ってくるなんて、その目で見ても信じることができなかった。自分が見た物をたしかめたくてこういった。「電気をつけよう」
 佳代子がすばやく立ってスイッチをいれた。利菜が言った。「すっごい血の匂いがするよ……あの服、ぐしょぬれで、真っ黒みたいに見えたもん」
 すると達郎は怒ってふりむき、
「このかりかりいう音はなんだ」
 みんなは大きな声だったから、ばあちゃんたちに聞こえなかったか心配をした。かりかりいう音は四人がひそひそ話す間も、ずっとやまずにつづいていたのである。
 寛太も紗英も起きてきた。二人は寝ている間にすっかり事情をのみこんだようで(夢も現実もおんなじぐらいに悪かった)、恐怖に目を見ひらいている。
「おばちゃんを起こさないの?」
 利菜が訊いた。
「だめだ。だって、二人には見えないんだぞ」
 と達郎は答えた、他人に――大人に見えないこと自体がいまでは怖かった。
「寛太、おまえの部屋に服がぶらさがってるぞ」
 寛太の顔がみるみる青ざめる。みんなの顔も。
「神社に埋めたやつか?」
「そうだ」
「埋めたのに戻ってきたのか?」
「そうだ」
「なによ、この臭い?」
 紗英が両手で口をおおう。達郎が扉を開けたことで、血の臭いはますますきつくなっている。寛太と紗英も蚊帳から出てきた。
 新治が達郎のそばに来る。
「見ないほうがいいぞ」
 と達郎は弟にいった。
「見る。見ないよりいい」
 と新治は兄にいった。
 寛太が率先して襖を開けた。寝床の明かりが部屋へとのびた。おかげで恐怖心はへったのだが、血も服もへっていなかった。びしょぬれの服はそこにあり、さきほどよりもよく見えた。
 服は雨のかわりに血をあびたらしく、裾からぽつぽつと滴り、畳に血溜まりをつくっている。
「最悪だよ」寛太は言った。「最悪だよ。見ろよ、畳までぐっしょりだ。どうすんだ? これ、どうすんだよ?」
 これには達郎たちも同情をした。寛太はこれからもあの部屋で生活をしなければならないのだ。
「もちこんだのおれじゃないぞ」
 寛太が涙目で達郎を見上げた。
「わかってる」
 寛太は額を手でおさえ、精一杯気丈な声でいった。「手伝ってくれよ。あの服外にださないと」
 佳代子が言った。
「血も拭かないと。早く拭かないと取れなくなるよ」
「あれにさわるの」紗英が言う。「吐くよ。まちがいなく」彼女はもうえずいている。
 全員が泣きだしそうになっていた。女の子たちはすでに泣いていた。こらえようとしていたが、こらえきれていなかった。新治はショックでみじろぎもしない。寛太は畳が畳がと、おろおろしている。パニックの波がみんなを包んで、収拾がつかなくなり始めた。
 達郎は思った。じいちゃんに見つかる前になんとかしないと。べつに悪いことをしたわけじゃない。いたずらや悪さをしたわけじゃない。達郎のせいでも誰かのせいでもなかった。だけど、彼は怖かった。達郎はいつも弟たちのめんどうをみるようしつけられていたから、みんながこんな目にあっているのは自分の責任だと感じたのだ。
「お、落ちついてくれよ」彼は寛太をつかまえた。「おまえ、かごをもってこい。服を入れるから。新聞紙とティッシュ……それにぞうきんもだ」
 寛太がとなりの部屋に駆けこんだ。
 紗英が、
「おばちゃんを起こそうよ」
 と言った。が、誰も耳を貸そうとしない。これだけ物音をたてたのに、起き出さないこと自体が不思議だ。
 誰もいうことを聞いてくれはないとわかると、紗英はティッシュを探しにいった。達郎と新治は、物に血がつかないよう、部屋に散らばっている物を片づけはじめる。
「わたし、火箸をとってくる」佳代子が言った。「利菜、ついてきてよ」
 佳代子が部屋を出ていこうとする。利菜は慌てて続いた。

□    十四

 二人は寝床から土間につづく戸を開けた。障子戸の外には、土間に降りるための段差が一段あった。そこに足をおろすと、寛太家の広い土間がみわたせる。居間からは寛太がつけた電灯の明かりが落ちている。そのさきでは、真っ暗闇が、ずうっと奥までつづいている。
 二人はすっかり怖じ気づいた。利菜が電灯のスイッチをおす、かちかちという音がつづくばかりで、反応しなかった。
「やっぱりだよ。こんなこったろうと思ったんだ……」
 佳代子は小声で、「誰かいる……?」と訊いた。
「そんなこと訊かないでよ」
 利菜は小声でいいかえした。いったい誰に訊いてるのかと、疑いたくもなる。
 土間は暗くなにも見えないが、誰かがいるとは考えたくもない。懐中電灯がほしいと思ったが、同時に暗がりを照らしたくなかった。明るくなったところに、誰かが(つまりなめ太郎が)うずくまっていたら、どうしようかと思ったのだ。
 佳代子は利菜の手をまだにぎっている。手首にあとが残るくらい強く。彼女はその手を引きながらこういった。
「い、いこう」
「いくの?」と利菜。
「あの服、素手でつかむ気?」佳代子は訊いた。「それも怖いよ……」
 つっかけの上に飛びおり足をとおした。二人は履き物のイボイボにさえぞうっとなった。
「火箸は?」
 佳代子が訊いた。二人は風呂場のほうを見た。風呂場は土間の奥手にある。火箸はその煙突をささえるわっか型の金具にひっかけられている。その方向は、ちょうど台所の出っ張りの陰になっていて、もっとも暗かった。
 二人はぞうりをひきずるようにして煙突にちかづいていく。風呂場は台所の半分ほどの広さしかない。そのぶん奥まっている。利菜は佳代子の腕にしがみついた。居間から明かりは落ちているけど、目の届かない場所がいっぱいあった。心臓がどくどくと鳴っている。感覚が鋭敏になり、わずかな物音にもとびあがる。
 佳代子はまず台所に近づいた。すみっこまで行き、背中を壁に押しあてた。腕だけを煙突のほうに伸ばしていった。佳代子の手は煙突を、二度、三度と叩いた。寛太郎は、子どもたちがとりやすい位置に、火箸をつっていた。佳代子が金具にそって指をすべらすと、火箸にふれた。
 佳代子はうめきをもらしながら火箸をさぐった。だが、壁に背を貼りつけた体勢ではうまくつかむことができなかった。佳代子はしばらくもどかしさと奮闘したあと、利菜にむかって、
「とりにくい」と怒ったようにいった。「とれないよ。だってつかめないんだもん」
 利菜は、その体勢じゃ無理だよと言いたかったが、煙突側にまわってとれなんていえない。あんたがやれ、といわれるのが怖かった。
 佳代子は、利菜の気持ちをさっしたのか、「二人でいくからね」と切りつけるようにいった。利菜はうなずいた。
 二人は寛太郎に教わった腹式呼吸をやった。三度くりかえすと、すこしだが気分が落ちついた。壁際をはなれると、風呂場側にまわりこんだ。
「なんだ、なにもいないよ」
 佳代子が安堵の口調でいった。煙突のあたりには暗がりが広がるばかりで、その闇はじっとしている。なにかがうごめく物音もしなかった。
 利菜がささやく。「はやく取ってもどろう」
「わかってるよ」
 佳代子を先頭に煙突にちかづく。
 風呂場には土間からしか入れない。色ガラスの引き戸がついていた。彼女たちが煙突にちかづくと、その戸がキイィ……、と開いた。二人は悲鳴すらも凍りつかせて、縮み上がった。
 五右衛門風呂はかまどの上に乗っている。だから、風呂の入り口は高い。二人はぽっかりとあいた、四角い空間を見つめる。
 奥に据えつけられた洗濯機の白い肌……その高い踏み段の上に、真っ白な手がのび、ひらひらした。手には濡れた長い髪がおちかかる。佳代子は口を開けて固まった、悲鳴を上げようとしたのだが、息すらも出てこなかった。彼女は息をだそうと腰を折り曲げじたばたした。
 行動を起こしたのは利菜だった。彼女はすばやく火箸をひっつかむと、佳代子の腕をひっぱった。ぞうりを蹴たてて逃げた。土間をとおりぬけようとすると、居間の障子戸がぴいっと開く。痩せた女が、濡れた着物をたらして立っている。二人は頬骨をぶつけあいながら抱きあって飛びあがり、寝床にもどろうと壁際まで遠ざかったあげくにはしご段にぶつかり、そのはしごは屋根裏の物置にのぼるためのものだが、その屋根裏でもかさかさとなにかが駆けずる音がおちてくる、彼女らは夢中で部屋にあがった。履いていたつっかけを脱ぎとばし、蚊帳にもぐりこみ、そこを通りぬけようとすると、隣の部屋から、タタタッ、となにかが駆けてくる音がした。
 二人は夢中で蚊帳をくぐり抜けると、寛太の部屋にもどった。
 みんなはしばらく呆気にとられ、無言で二人を見つめていた。四人は軍手をはめて、それは子どもの手にはなんともふつり合いで、利菜は軍手の白と血の赤の対比のせいか、みんなのことも怖かった。彼女はごくりと唾をのむ。佳代子がそうっと扉を閉めた。
「なにかあったのか?」
 達郎がこわごわ訊いた。利菜は説明しようとしたが、言葉が出てこなかった。喉が渇いて貼りついた感じがする。
 佳代子はなんでもないと答えた。みんなに打ち明けるよりは、その方がずっとよかった。
 畳みの血だまりには、すでに新聞紙とティッシュがばらまかれていた。どれも血を吸って、重赤くなっている。利菜は火箸でティッシュをつまんだ。紗英がゴミ袋をひろげる、そこに放りこんでいった。
 佳代子はチラチラと襖を見ている。利菜だってさっきの女が気になる。着物を着て濡れそぼってるなんて、幽霊女の定番みたいなやつだ。でも、彼女はつとめて気にしないようにした。あんなの幻だ、幻。
 利菜は呼吸を深くして、胸をくつろげようとしてみたが、喉の栓を閉められたみたいに、うまくいかない。襖の外に、さっきの女が立っているんじゃないかと思うと、気が気ではなかったからだ。
 みんなはティッシュをばらまき、新聞紙をひろげる作業をつづけた。なんどか繰りかえすと、床の血だまりはうすくなった。女の子たちはしゃがみこむと、雑巾で畳の隙間に入りこんだ血をふきとりだした。
 寛太が椅子にのぼった。達郎が籠をさしだす。寛太は背伸びをして、洗濯ばさみを外していった。服が落ち、それを達郎が籠で受けとめる。
 しばらくして、利菜はパジャマをこした素足を、ひやひやと風がなでるのに気がついた。彼女はおそるおそる振りむく。喉のポンプがあやまって作動したみたいに、気管がつまった――襖が、あいていた。彼女の視線は寝床の蚊帳をとおりこして、一気に土間までとんだ。
 玄関の戸も、開いてる……。
 土間につづく障子戸は、開けはなしたままだ。佳代子も自分も閉めてはいない。だけど、その外にある玄関の扉が、いまでは開いていた。嵐の音は、さきほどよりも強くなっている。土間になだれこむ雨が見えた。
 利菜は、つめていた息をようやっと吐いた。
 玄関の戸があいてるんなら、じゃあ誰がはいって来たんだろ……
 それとも、出て行ったのか?
 彼女は出ていってくれた方がいいと思った。さっきの女が出ていってくれたんならいいのに。
「戸が開いてるよ……」
 声をかけると、女の子たちは顔を上げ、男の子たちはふりむいた。みんなぎょっとした表情をしている。
 誰かの口から蚊の鳴くような悲鳴がもれた。
「お、おまえら玄関も開けたのかよ」
 達郎が言った。利菜と佳代子は首をふった。それどころか、寝床につづく襖が、いつ開いたかもわからなかったのだ。
「くそ、ちくしょう」
 寛太は手が血まみれになるのもかまわず、服を外していく。みんなは表をじっと見つめる。まるで、なにか入ってくるものがいないか、見張っているみたいに。
 服を集め終わり、軍手もかごに放りこんだ。みんなは無言で互いを見あった。
「服を外に出さないと……」寛太が言った。
「ああ……」
 と達郎が答えた。外から響く風の音は、人の悲鳴のようだ。
 みんなは駆け足で土間に向かった。達郎が踏み段に足をおろす、冷たい空気が足を叩いた。玄関は大開きにあいている。
 達郎は素足のまま土間におりると、式台の下にかごをおいた。
 寛太家の庭には、安っぽい外灯がひとつある。その明かりがついている。みんなの目に、雨に濡れた畑がうつった。利菜は佳代子と視線をかわした。二人とも玄関の扉は開けていなかった。
「じゃあ誰が開けたのよ」佳代子が訊いた。
「両神山からついてきたんだと思うか?」
 達郎がふりむきもせずいった。利菜はぎゅっと唇をかんだ。佳代子はこらえきれなくなって後ろをむいた。寛太の手は血まみれで、新聞紙で血をぬぐっている。
「わかんねえよ、そんなこと」
 寛太は新聞紙を投げた。血で黒くなった紙の固まりが、居間から落ちる光のなかを、ころころと転がった。
「確かめるか?」達郎が訊いた。
「なにをよ」
 佳代子がわめきかえした。でも、達郎がなにを確かめたいのかはわかってる。神社にうめた服を、ここまで持ってきた奴の正体だ。最悪なのは、みんながすでに答えをもっていることだった。両神山に着ていった服をもってきたのは、両神山にいたあいつに決まってる。
「軒下にいるに決まってるよ」新治が言った。「にいちゃんもいったじゃんか。このかりかりいう音はなんだって」
 彼はその瞬間なめ太郎につかまれた足のことを思い出したのだ。新治は怪我をしていたから、その感覚はよりいっそうなまめかしく蘇った。
「あいつ、床板をはがそうとしてるんだ。それで、ぼくらを一人ずつ連れさるんだ」
「待てよ。音はしたけど、猫かもしれないだろ?」
「でも、わたしもそう思ったよ」利菜が言った。「そんなふうに考えんのやだけどさ。そう思うんだもん。佳代ちゃんはどう思った?」
「思いたくもなかったよ。あいつ、両神山からついてきたの? なんのために?」
「ぼくたちを捕まえるためだ」と新治が絶望的な声で言う。
「ちがう。そんなはずない」達郎が言った。「新治、おまえのいってるのは、先生の話そのまんま……」
 そのとき、庭の暗闇を左から右へと陰が走った。
 新治は言った。「もういやだよ。あんなのに足首つかまれたり、怪我したり、怖い夢みたり、もううんざりだよ」
 みんなは表を見ている。開いた、玄関の方を。
 達郎がふりむいた。
「お、おちつけよ……」
「おちつけって、どうやんのよ。達郎ちゃん説明つくの。服がひとりでに戻ってきたりさ、血まみれになってたりさ、そんなことの説明がつくってのっ?」佳代子の声はヒステリーを起こしたときみたいに大きくなった。「そんでその血がじいちゃんには見えないかもしんないんだよ!」
 みんなは佳代子の怒声にかたくなった。利菜にはその瞬間の佳代子が、怒ったときの登美子に見えた。そんなことを口にだしたら、佳代子にはぶったたかれるだろうけど。佳代子は他人に暴力をふるうのを極端にこわがってもいる。利菜が手をのばすと、佳代子はがっくりとうなだれて、その手をにぎりかえした。
 利菜は達郎に向かっていった。
「あたしたち、風呂場んとこで女のお化けをみたのよ。濡れてて、着物きてた」
 利菜がいうと佳代子も、
「あれって紗英が見たやつでしょ。溺死女だよ……」
 と言った。そのお化けのことならみんな知っていた。神保南小学校では、写生大会を水力発電でおこなうから、その怪談はなかば伝統のようになっている。
「うそでしょ……」
 紗英が訊くと、利菜と佳代子は首をふって否定する。
 達郎はすばやく扉によった。勢いよく閉めようとしたのだが、そのとき玄関の向こうから手が伸びて、扉の縁をかっと押さえた。達郎は、たたらを踏んであとずさった。みんなには血まみれの指だけが見えた。
 しばらく一同は無言だった。
 寛太は、たいへんだ英二が怒って戻ってきた、と思った。死ぬとなめ太郎の子分にされるんだ。
 指は、扉をひたひたと叩き、リズムをとった。
 達郎が動くと、指は止まった。
「動かない方がいいよ」
 利菜が震え声でいった。
 指がまた動きはじめた。童謡が一同の頭にひびいて、気が狂いそうになる。
 達郎は寛太と目をあわせた。二人は寛太郎のいった言葉を思いだした。おっかないのをやっつけるぐらいの気持ちがあれば大丈夫、という言葉を。寛太郎のいったことは根拠がない。だけど、幽霊をやっつけられないかというと、答えはノーだった。体はむりでも、精神の力でなら、やれるんじゃないか。
 寛太はなめ太郎に石をぶつけたから、そのことを体で学んで知っていた。それに相手は子どもだ。すくなくとも大人のモンスターじゃない。
 達郎が身をひるがえし、ファインプレーみたいなしなやかな動きで、ほうきをとった。寛太が土間にとびおり、壁の懐中電灯をとった。
「あいつをやっつけろ」
 達郎が震える声で叫んだ。
 佳代子も利菜も土間にとびおりた、紗英も。新治は迷ったが、それでもみんなの後につづいた。
 達郎は箒を振りかぶると、夢中で手を打ちすえた。男の子が顔をだした。達郎は目を疑った、思わずごめんよと誤りそうになった。男の子は血まみれどころじゃない。ほんとに腐っている。おまけに怒っていた。歯をむき出して、雄叫びを上げた。達郎は一番前にいたから、口の奧にある金歯が見えた。彼はひるんだ。
 寛太が懐中電灯のスイッチをいれ、モンスターの顔を光で照らした。そいつは顔を押さえて、悲鳴を上げる。彼が苦悶におどると、血と腐った肉がとびちる。土間とガラスにべちゃりと貼りつく。そいつは踊りながら庭にでた、みんなの耳に、濡れた土を踏むビチャビチャという音がした。男の子の体は、はがれるか食われるかしたようで、脛の骨はむきだしだ。
 みんなの心におじけがさす。
 彼らは達郎を先頭に、外へと踏みだした。
 外では風と雨が舞っている。落ち葉が庭をみたしている。鶏たちが騒ぎ、子どもたちは、雨に濡れるのもかまわず、立ちつくした。
 寛太の光は男の子の影をおったが形もなかった。
 寛太は電灯をふりまわす。光りのなかを雨は白い筋をつけて落ちてくる。トイレを見た。屋根をさがした。電灯の光はサーチライトのように旋回する、最後に畑と庭のあいだにある、どでかい蒲焼きみたいな稲木を照らした。寛太はあっと声を上げた。
 なめ太郎は稲木のてっぺんにいた。相撲の蹲踞にも似た姿勢で座りこんでいる。長い髪がびしゃびしゃに濡れている。上半身にパジャマを着て。そのパジャマのすきまからは、妊婦のようにふくれあがった腹がのぞく。
 女の子たちは、悲鳴をあげて寛太に抱きついた。達郎が助けをもとめてふりむくと、
「呼ぶなよ」
 なめ太郎が、ひび割れた、肋をきしますような声を投げかけた。彼は猿のようにしゃがんでいる、痩せた脛がめだつ。
「じじいは呼ばないでくれよ。あいつは嫌いだ。おまえらは好きだ。おれのものだから」
「お、おまえの子分はやっつけた」
 寛太が電灯をむけた。なめ太郎が長い舌をたらした。あかんべをしたんだろうか。
「光はきかない」と言った。「このこと、誰にもいうな」
 彼の舌が地面にとどくほどに伸びた。達郎は箒で叩こうとしたが、その前になめ太郎のパンチをくらった。腕だけが、ゴム人形みたいに伸びてきたのだ。達郎は棒みたいにぶち倒れた。
 ガーゼがべろりとはがれ、傷口があらわになる。
 あいつの手は縮まり、胴体におさまった。
 利菜たちは達郎を助けにかかる。なめ太郎が右手をふった。ゴムボールが落ちてきた。利菜の胸元に。彼女はそれをキャッチした。
 利菜は額に貼りついた髪をかきわけながら、稲木を見上げる。雨と涙のせいで、なめ太郎の姿はゆがんで見えた。
「他人にいうな。親にも友だちにも。おまえたちは戻ってくればいいんだ」
「いやよ」佳代子は泣いた。「あんなとこ、もどんないもん」
 なめ太郎は雲をつかむように両腕を上げた。
「逃げられると思うなよ! おれさまはいつでもおまえらを見てるぞ! おまえらを見て、おまえらをかならず連れもどしてやる! 暗闇にひきずりこんでやる!」
 なめ太郎は両腕を雄々しく天に伸ばす。子どもたちは力が――おまもりさまの力なのか、どす黒いものが空気を満たし、渦を巻くのを感じた。現実ではない、べつの場所に迷いこんだ感じが強くなった。
「弱気になれ! おびえてしまえ! 悪いもので心をみたせ! もうおしまいだと信じこめ!」
 なめ太郎の首が伸びた、ろくろ首みたいに地面に降りた。なめ太郎は叫びながら、一人一人の顔にちかづき、契約を迫った。
 血と腐った肉の臭いで息もできない。
「言わない」ついに新治は言った。「言いません。約束します」
 なめ太郎は首をふり、勝利の雄叫びをあげた。「ガーガーガーガガー」髪から泥と垢がとびちった。この声はばあちゃんには聞こえないんだ、利菜は思った、血が見えなかったみたいに。だから自分の声で助けを呼ぼうとした。涙と鼻水にまみれた顔を、家にむけた。
「呼ばない約束だろう」腕をつかまれた。「呼ばない約束だ。ボールにかけて絶対だ」
「そんな約束してない……」
 利菜は答えた。なめ太郎は前腕の骨をいじくりいたぶる。唇をかんで痛みをこらえる。
「やめろよ、いうこときく」達郎は言った。「誰にもいわない」
 なめ太郎は黄色い目玉でにたりと笑った。乱杭歯をむきだした。
「安心安心」なめ太郎は首と手をもどしていく。「言っとくけど、逃げ場はないぞお」彼は笑った。「助けもなあし。ひどい目にあうのは約束するよ。ひどい目にあわせるおれが請けあう」
 なめ太郎は呵々大笑した。その声は耳ではなく、ちょくせつ頭にひびき、頭蓋骨の裂け目が開きそうだ。
 新治は頭を手で押さえた、てっぺんから裂けてしまわないよう両手ではさんだ。
 そのうちに耐えきれなくなり、新治は家にかけこんだ。佳代子と紗英もつづいた。利菜が遅れたのは彼女がビニールボールをまだ持っていたからで、なめ太郎はボールに誓ってと言ったから、こんなものを持っているのは決定的にまずいな、と思ったのだった。彼女はボールを捨てた。達郎と寛太が、両脇から利菜の腕をひっぱった。
 利菜がふりむくと、なめ太郎は稲木の上でとんぼがえりをうった。ぼわっという音がして、彼の体は空中に吸いこまれた。闇にのまれたみたいだと、利菜は思った。


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