「ねじまげ世界の冒険」へようこそ

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ねじまげ世界の冒険


▼第五部 異変


○ 章前 一九九五年 八月十九日 ――夕刻

□    一

 両神山から警察につれもどされたとき、佳代子は寛太の家に泊まるといってきかなかった。紗英の母親もきていたが、佳代子は紗英とかたく抱きあい、双方の親が引きはなそうとしても、離れようとしなかった。
 夕刻の田園は、赤く染め抜かれていた。二人の背後には寛太の家。県道にはパトカーが停まっている。夕日を照りかえし影となり、千葉県警の文字はみえない。そのせいか、子どもたちには、なんの力もないただの車にみえた。
 警官たちは車から降りていたが、この騒ぎにとまどっていた。新治は救いをもとめるように家をかえりみるが、寛太郎はもどっていない。登美子が娘をぶったたこうとしたとき、達郎は体を張ってみんなを守った。年下の子どもたちを両腕でかかえ、親たちをつきとばしてでも追いはらおうとした。子どもたちは半狂乱で手がつけられなかった。杉浦登美子にも石川静子にも、子どもたちがなぜこんなにひっつきあっているのかわけが分からなかった。警官だっておんなじだ。子どもなら、こんなときは、両親といたがるのがふつうだからだ。
 でも、達郎たちは、自分たちが離れたがらないそのわけを、ちゃんと理解していた。バラバラになったらみんな殺される。利菜の父親や、おかしくなった登美子のことを、知っていたからだ。結局、六人の親連中は、警察の説得を受けいてれて戻っていった。佳代子は母親が向けたものすごい目をおぼえている。わるいものに支配されなくたって、戻ったら、殺されかねない目つきだった。
 みんなはともにいることを許されたが、それですべてが終わったわけではなかった。事態は山に行く前よりずっと悪化していたし、五人の誰もがそのことに気がついていた。
 利菜が、いない。
 その夜の悪夢はもっともひどかった。達郎は眠れぬ夜をすごしていた。紗英にのしかかられ、首を絞められた。佳代子と新治が助けてくれなかったら、ほんとに死んでいたかもしれない。ようやく騒ぎがおさまったときには、寛太がいなくなっていた。彼の布団はもぬけのからだ。四人は寛太を探した。納屋で泥まみれの大根にむしゃぶりついていた。たべなきゃ、たべなきゃ、とうわごとのようにつぶやいていた。大根から引き剥がしたあとも、寛太はぶるぶると震えた。
 幻覚、幻聴のオンパレードで生きた心地もしない。子どもたちをまもっていた結束、結界は、利菜がぬけることで完全に壊れたようだった。
 佳代子は利菜にたいする罪の意識のあまり、食事ものどを通らなかった。頭のなかでは、おまえが死ねばよかったのに、いまから死んだらいいのに、と誰かが寂れた声音で語りかけ、気が狂いそうだった。佳代子は利菜は死んでない、向こう側にいるんだ、といいかえした。ときには口に出していいかえした。紗英が心配して肩をゆすった。
 四人は佳代子がおかしな真似をしないように、たえず眼を光らせるようになった。口論が多発し、そのこともみんなの関係を悪化させていた。ここまで築いた信頼は、利菜をうしなうことで崩壊しかかっていた。
「両神山にもどるしかないよ……」
 と佳代子がいいはじめたのは、二日目の夜だった。それまでどんなにまっても、警察に問い合わせをしても、利菜を発見したという連絡は入ってこなかった。当然だろうと佳代子は思う。もし見つかることがあるとするならば、それはあの子が死んだときだ。彼女だけは利菜の行き先を知っていた。だって、坪井って人の家で見たじゃないか。
 佳代子はあの穴のことを思って身震いをする。黒い穴の、向こうがわ……。
「そんなのむちゃだ」
 達郎がいうと、佳代子はききかえした。
「ロングだった?」
 えっ? と達郎はききかえす。
「ロングだった? ショートだった? 利菜の髪型よ、どっちだった?」
 四人は答えられなかった。紗英でさえも。
「私たちそんなことも忘れてる。利菜のことがどんどん消えてく感じなのよ。私、あの子のこと覚えてようと、いろんなこと思いだそうするんだけど、紙にも書いたのに」
 みんなはとりつかれたように紙にむかう佳代子のことを思い出す。佳代子はチラシの裏に利菜のことを思い出せるかぎり書いた。その紙をにぎりしめ、
「でも、もう覚えてらんないよ。紙に書いたのみても、ぴんとこないんだもん。あの子、やっぱりこの世界にいないんだ」佳代子は自分の胸をたたいた。「ここにもいないんだよ……。だから、あの子のことも忘れてくんだ。あの子との絆が切れちゃった。利菜はもういない」
「なんでそんなこというんだ? そんなことわかるわけ……」
「わかるんだもん。わたしわかる。利菜はここにいないって」
 佳代子は畳を指差した。佳代子は泣いた。
「わかるんだもん。利菜はおまもりさまの向こうにいる。あの子を探しだして、手をつながないと。手をつなぐだけじゃなくて、みんなの心をつながないと。そうする必要があるの、わかる? 私たちここにいるのに……そろってるのに、絆が切れかかってる。利菜をみすてたからよ」
「警察がさがしてるじゃないか」と達郎は言った。
「警察がなによ! なにしてくれるのよ! 利菜のこと助けてくれない、私たちのことも」
「戻るの?」紗英は訊いた。「あの山に戻るの? 利菜を探しに?」
 達郎がうなずいた。放心したように。
「死体があるのに?」紗英がきくと、みんなは答えなかった。だまって唇をかみしめただけだ。「いま行ったら、こんどこそ戻ってこれないよ! それどころか、あたしらがあいつらの仲間入りをするかもしれないんだよ!」
「あんたどうしちゃったのよ!」
 佳代子が紗英をひっぱたこうとした。寛太と達郎が佳代子を抑えた。
「おちつけよ!」達郎が言った。「みんな、おれの考えをいうぞ、おちついてよく聞けよ」唾を飲む。「じいちゃんはもどってこない。利菜もだ。わるいものがそうさせない。そんでおれたち、おまもりさまにもどるのもむりだ。佳代子のいうことも正しいし、紗英のいうことも正しいんだよ。あいつは……」達郎は山の方角を指さした。おまもりさまの方角を……。「あいつはおれたちが弱るのを待ってるのかもしれない。このままなにもしないでいたら、みんなおしまいだ。おれたちはなにかをしなきゃいけない。でも、おまもりさまには行けない。もう手をつないでもなにも起きない。行ったら、絶対に殺される。そうだろ?」達郎には沈黙が返ってきた。「みんなもう限界だ。利菜を助ける方法を考えないと。利菜を助けないかぎり、おれたち自分を救えない」
 紗英は言った。「できることなんて何もないよ」
「ずっと子どものままでいたいんなら、好きにしろよ」
 達郎は暗に大人になれといいたいんじゃない、死んだら、子どものままなんだぞと、新学期も迎えないまま、この夏に閉じこめられるんだと、そういっている。利菜がそうなったように。
 新治は涙をぬぐった。ほかのみんなも。寛太は帽子を目深にかぶりなおした。
 達郎は子どもでいることがもどかしかった。五人を引き離すのは簡単だ。いつまでもかたまっているなんて無理だった。早くしないと、悪いものは明晩にも、殺人鬼をさし向けてくるかもしれないのだ。

□    二

 その夜をどうやってのりきったのか、達郎は後になっても思い出すことができなかった。状況は絶望的だ。けれど、利菜さえ見つけることができればなんとかなるんだという、妄信的な希望だけがかすかにあった。その思いにすがりつき、どうにかその夜をのりきったのだ。
 おさそいの面々は、今後の方針を話しあった。気になるのは捜索のことだ。
 佳代子がテレビをつけたが、ニュースではやっていなかった。この二日間、テレビで利菜の名前を聞いた記憶がなかった。達郎たちがニュースで見たのは、両神山で国村の死体が見つかったというものばかりで、利菜のことにはまったくふれない。
 達郎がみんなを代表して警察に電話をした。対応にでた婦警は、担当にかわると言った待たされている間、待ちうけの音楽には、なんども声が混じった。声は達郎にあきらめろといい、出頭すべきはおまえたちなんだよと、と説得をした。達郎はしばらくこらえていたが、もう受話器を置こうとなんども思った。
 音楽がとぎれた。本物の警官の声がした。さんざん待たされた挙句、かえってきた答えは、そんな子どもの捜索はしていない、というものだった。新田という担当警官は、捜索の届出も出ていないと言った。
 達郎は、何者かと問いただされそうになった時点で電話をきった。
 受話器を置き、呆然と言った。
「たいへんだ……」
 彼はみんなを見た。みんなも達郎をみかえした。
 ややあって佳代子が言った。緊張した面持ちだった。
「なにがあったの?」
「佳代子のいったとおりだったよ。警察は利菜なんて知らないって。そんな捜索してないっていってる。国村さんの捜査しかしてないんだ」
「そんなのおかしいよ」紗英が言った。「利菜のおとうさんは? あんなに利菜のことさがしてたのに? 私たちだって、利菜がいなくなったって、警察にちゃんと言ったよね?」
 とまどう視線をかわす。
「わたしが考えてるとおりなら……」と佳代子は息をのんだ。呼吸は浅く、泣くのをこらえている。「利菜のことを忘れてるのは私たちだけじゃないんだ。みんなはもう忘れてるかもしれないじゃん。最初からいないことになってるかもしれない」
「まてよ。だとしたら、そんなふうにいなくなったやつは……」
 達郎はのどを湿らす。
「もっと大勢いるかもしれない」
 新治は震えた。みんなの胸に去来していたのは、深い絶望だった。おれたちにはとても無理だと寛太は思ったし、達郎の心もくじけかけた。紗英は口を押さえてわななく。
「利菜を探せるの?」
 彼女はぶるぶる震えている。
「どうやって? もうおさそいにだって耐えらんないのに……?」
 佳代子が紗英を抱きかかえた。紗英の涙は熱く、恐怖をたたえた吐息は冷たかった。彼女はきっとみんなを見上げた。重苦しい空気が、彼女の肺を押しつぶす。佳代子は肩で息をしながら、しっかりしなきゃと鼻をすする。泣いたらだめだ。利菜はもっと危険なんだから。それにまだ早朝だ。時間はたっぷりあるし、夜なんかよりぜんぜんまし……。
 彼女はそう自分にいいきかせて、決意と不安にみちた顔で友だちを見上げる。彼女は言った。
「利菜を助ける方法、一個だけあるかもしんない。みんな、覚えて――

○ 二〇二〇年 ――神保町

□    三

 ――いる。あのころに感じた空気や、あの時代の雰囲気のことを。
 県境をこえた瞬間、利菜は神保町にもどるのを明確にかんじた。二人は新幹線から、私鉄の電車に乗り換えている。景色はゆっくりと流れている。午後二時をすぎると、その景色が見なれたものにかわる。利菜は三十七歳のおばさんから、小学五年生の子どもの目にもどる。脳みその奥底では、あのころの記憶がうずく。おそさいがはじまったんだ、いや、とっくにつかまっていたのかもしれない、と彼女は考える。その記憶とむきあうのが恐ろしく、手にしたビールを勢いよくあおった。紗英がそんな彼女を横目にみていたが、やがてはおなじようにビールをあおった。
 二人の服装は、ロングのシャツにストレッチジーンズ、足にはうすっぺらなスニーカーといういでたちだった。子どものころは、おさそいがはじまると、いつでも走れてどんなに汚れてもいい格好をするのがつねだった。二人して無意識にそんな服装をえらぶのが、利菜にはおかしく、恐ろしくもあった。
 携帯電話のパネルを無意識にながめる。アンテナがさきほどから一本も立たない。ボタンを操作して、佳代子の番号をよびだす。コールボタンをおして耳にちかづけるが、携帯のスピーカーは沈黙している。
「利菜?」紗英がきいた。
「携帯がつながらない。コールセンターも出ない」
「えっ?」紗英は自分の携帯をとりだす。ちいさなパネルをすみずみまで見わたす。「アンテナがたってない」
 紗英はしばらく携帯を操作したが、結果はおなじだった。無反応。
 二人の胸中に言葉がうかんだ。この数ヶ月、繰りかえし、思いだし、口にしていた言葉、世界はねじまげられている。
 そのとき、三両編成の電車が、神保駅に停車した。北側の扉がゴトリと開いた。二人は携帯を手に、呆然と扉の向こうがわをながめた。自分たちは神保町ですらない場所にきたんじゃないか、と利菜はおもう。おまもりさまでの体験がフラッシュバックし、二人は無意識に手をとりあった。構内は閑散としている。安物の長椅子には落ち葉がかかり、何十年も放置されたホームにみえた。利菜はどんな手をつかってでも、佳代子と連絡をとるべきだったと考える。あの子たちが駅で待っていてくれたら、どんなにかいいのに。
 二人は座席からゆっくりと腰をあげる。紗英が釣り棚から荷物をおろす。そのあいだも、利菜はホームから目を離せない。電車からおりたくない、このまま帰ってしまいたかった。でも、両親と佳代子たちのことがある。みんなをほおって、行ってしまえない……。
 電車を降りると、冷えた風があった。二人のほかは無人で、風が雨をまいている。空は一面の雲である。南にひろがった畑が雨にうたれ、ひまわりが頭をたれている。戻ってきた二人に敬意をはらっているみたいで、なんだかおかしかった。
 目にみえる景色、肌にふれる風の感触、空気の香りもまた昔のままだ。自分たちが五年生のままのように感じる。あのころの町、あのころの気配がまた戻ってきた。空気のざらついた感じは、殺気なんだろうか?
 自分たちは戻ってきた。ふたたび囚えられたような感覚。いいえて妙だと利菜は思う。二十五年前の街にきたような気がして、怖くなる。
 駅は五月雨に閉じこめられている。
「この電車、誰も乗ってないよ」
 紗英が静かにいった。利菜もふりむいた。電車には二人のほかに乗客がなかったようだ。
 二人は電車を降りてすぐのところで立ちつくした。
「車掌はどうしたの?」紗英が言った。
 電車の扉が閉まらないし、車掌の姿もない。利菜はつぶやいた。この列車、あたしたちしか乗ってなかった。
 そのとき、無人のはずのホームから、足音がした。

 利菜が紗英の肘をとった。その腕をひいて走った。紗英がおどろいた。
「どうするのよ」
「隠れるのよ」
 先頭の車両に駆けよると、運転士の姿がない。運転席はからっぽだ。彼女は愕然となる。
「そんな……」
 構内に人がはいってきた。二人はとっさに身をふせると、ホームから足をのばし、線路におりたつ。五月雨がまともにほおをうつ。利菜と紗英はコンクリートのホームに顔だけをのぞかせて、男たちの様子をさぐる。落下防止の黄色いタイルが大きくみえる。二十人ばかりがぞろぞろとやってくる。年齢もまちまち。女もいる。彼らは手に手に棒やシャベルをもっている。誰かをさがすような目配りだ。
「あたしたちを探してるの?」
「ほかにいないよ」
 と利菜はこたえる。けれど、自分たちがくるのは誰も知らないはずだ。紗英がささやいた。
「なんで来るのがわかったのよ」
「まさか、母さんが……?」
 紗英ははっとなる。「よしなよ」利菜の腕に手をかけた。「あんたの母さん、あんたが来るって知らなかった。連絡がとれないっていってたじゃん」
「でも……」
「そんなことより、逃げないと」
 うなずいた。
 二人は身をかがめると、電車の脇にまわる。土手をあるく。車両の切れ目にくると、早足で線路をたどりはじめる。来た道をひきかえしている。寛太の家は、ここからずっと西なのだ。
 駅では、男たちが車両を眺め渡している。電車に乗りこんだやつもいるようだ。
 なんどめか顧みたとき、ホームのはしにいた男が声をあげた。「いたぞ!」
 二人は脱兎のごとく駆けだす。男たちが線路に飛びおりる。足音が追いすがる。あまり大勢で走るから、端にいる人間は土手を崩して転げかかっている。
 これだけ夢中で追ってくるのに、自分たちが納得のいく理由があるなんて利菜には思えない。つかまったら、殺されると信じた。
 二人は、雨の中かなり長い距離を走った。踏切をぬけ、商店街にはいる。閑散とした通りが目にうつった。子どものころなんども通った道だ。閉店した店が多いとはいえ、道を歩く人がない。助けをもとめるのは賢明とは思えなかったが。
 息をあらげて、商店街をぬける。荒川に出た。側道には通る車もない。男たちは引き離したようで、声だけが聞こえてくる。二人は円筒式のはしごから、川原におりた。川幅はあるものの、水量はごっそりへって、玉砂利の中央をとぼしい水がちょろちょろと流れているだけである。二人はその水を跳ねとばして川をわたる。橋に足音がする。もう追いつかれてしまった。
 対岸の橋下には二メートルはある巨大な鋼管が口をあけている。水は流れていない。
 二人は鋼管にたどりつくと、河原に手をついて呼吸を整ととのええた。
「か、かげんをしなけりゃ」と紗枝は言った。「子どものころみたいには、走れないんだから……」
「もう年だってみとめなよ……」
 利菜はバッグからペンライトをとりだす。鋼管を照らす。さきは真っ暗だが、中にはいれそうだ。方向は寛太の家にむいていた。
 利菜は強烈な既視感に襲われた。以前にもこんなことをしたことがあるような、そんな気がしたのだ。
「これに入るつもり?」
 紗英がしりごみする。
「上にはあがれないよ。あの人数でさがされたらすぐにみつかる」
「なんであたしたちをさがすのよ」
「きかないでよ」
 利菜は目にものいわせて紗英を黙らせる。いまだに信じられないが、この街ではリンチや誘拐が頻発しているのだ。殺人も。理由がわからないとはいえ、自分たちのいたる結果は目にみえていた。
 紗英が嘆息する。「ほかに方法はなさそうね」
「そういうこと」
 鋼管は、地面から一メートルばかり上にある。利菜は足をのばして、穴の縁にスニーカーをひっかけた。紗英が押し上げ、利菜があがる。上から、紗英を引っぱりあげる。
 利菜は足元をぴちゃぴちゃいわせながら、奥を照らした。鋼管は鉄臭く、空気はよどんでいる。目にみえるほどの湿気が二人をつつんだ。流れが弱いせいかヘドロがたまり、スニーカーを滑らせる。
 利菜はこの下水道を、幼いころになんども見た気がした。ここを歩いたことがあるんだろうか?
「どこに通じてると思う?」紗英がきいた。
「まっすぐ行くとしたら、河内川に出るはずよ」
「そんなにうまくいくと思う?」
「運がよければ上にでられるわよ」
「今日の運の悪さは実証済みよ」
 紗英が吐き捨てると、利菜はにやりと笑って髪をかきあげる。「電車は無人だし、変なのに追いかけられるしね」
「運の悪さをいいはじめたら、この一年のこと蒸しかえしそうよ。あたしが精神科医にかかってたって、いわなかった?」
「医者とのロマンス聞かされちゃたまんないわよ」
 二人は文句をたれながしながら、下水管をたどりはじめる。
「この臭い、気分が悪くなるわ」
「飲んですぐに走ったからね」
 紗英は言った。「男には振られるし、仕事は休職だし、幻覚はみるし、肌は荒れるし、寝不足だし。この一年まともにセックスもしてないのよ」
「あたし、旦那がいてよかったわあ」
「これ以上悪いことがあるならいってよ。いい女が、いい年こいて、下水管を歩くんだから」
「あんたはさまになってるわよ」

◆ 第九章 サイポッツの国


□    四

 未明になり、一同は悪夢から目をさました。ヒッピは額にういた玉の汗をぬぐった。悪夢を見ていたようだが、それでもこんなに眠ったのはひさしぶりだ。
 外はもう白々とあけており、カーテンをしめた窓からは、冷涼とした空気がしのびこむ。ヒッピはあのカーテンの向こうに誰かいるような気がして震えた。ペックが、「利菜はまだ目が覚めないな」といって、彼を夢想からさまさせた。
「さあ、こぞうども、支度はできてるよ。出かけるんならはやくしな。どうせ国までは二日とかかるんだからね」
 マーサは老婆なのに朝から元気である。三人分のリュックに必要な物をもうつめこんでいる。一同はこれからの旅路を思うと、うんざりした。
 ともあれ、急がねばならない。
 三人はマーサに丁重に礼をいい、ヒッピとの別れをおしんだ。ペックは親友の身をあんじたが、考えてみると、野外では頼りになるとはいえない貴族の二人と旅をする自分のほうが危険かもしれなかった。マーサはヒッピに、利菜の精神に干渉されないよう、修行を受けてもらうといっていた。マーサはこれまで、人にどんなに請われようとも弟子をとろうとしなかったから、この二人は宮廷魔術師のもつ、はじめての弟子となるのだった。
 国までの道のりはマーサのいったとおり、二日の時間がかかった。マーサの地図は的確で、一行は最短の道程をたどることができた。もっとも、幻覚におびえながらの旅は容易なものではなかった。結局のところ利菜のいうとおり、わるいものを呼びよせるのはわるいものでしかない。一同はたがいを励ましあい(ビスコでさえ)進んだ。それにサイポッツはイニシエの森のあらゆる生き物と敵対していたから、最初から安易な道のりなかのはずったのである。森の切れはしに差しかかり、そこからエホバの国の城壁をみたときの三人の感傷ははかりしれない。一度二度ならず、もうこの景色は見られないと思っていた。
 結局三人のサイポッツは、森の異変には気づかなかった。ただ彼らは森の各所に影をみた。黒い闇がうすぼんやりと光るようにして点在していた。ペックはいつもの幻覚だと思いこもうとしたが、見つめているうちに夢も希望も吸いとられるようないやな闇だった。
 サイポッツの都は城壁と堀で囲われており、国にはいるには正門を通るしかない。夜間で門はしまっていたし、無断で外出した三人は、許可証もなく、夜明けをまっても門を通ることができなかった。ノーマたちは来るときにつかった用水路を、ふたたび利用するしかなかった。彼らは疲れた体に鞭打って、隠しておいた小船を堀にうかべ、対岸へとわたり、城壁に空いた穴から用水路へとしのびいった。
 その用水路は、ぶあつい城壁と街をむすんでいる。生活排水をそこから流しているのである。排水は国内を通る川までつづいている。
 エホバは、水路が発達した水の都でもある。水路と石畳の道が交差し、美しい町並みを形成している。
 パーシバルの書いた地図は、ナバホ族にとられたままだが、三人はへたくそな地図を思い起こしながら、どうにか出口にたどりつくことができた。

□    五

 サイポッツの都市は石畳が敷きつめられ、中世のパリを思わせる。広大な平野に発達し、エホバの他にも、周辺にはいくつもの都市が点在している。大陸でも最も巨大な国家である。人口は二十万人。
 エホバ内の内訳は、貴族一万に対し、平民が十九万人である。国王が代わり、独断的な圧制がはじまると、人々の都市ばなれがはじまったが、各種族との戦闘が始まり、いまでは難民の受け入れ口となっていた。若い男たちが兵隊としてとられる一方で、平民街には女子どもや、病人がふえていた。受け入れた難民のなかには素性の怪しいものもいる。平民街が犯罪の温床となっても、しかたのないことだった。サイポッツに友好的な種族もエホバに入ってきていたが、彼らに対する差別もはじまり、治安は急速に悪化していた。

 豆玉のパーシバルは城壁ちかくの物置小屋で、パダル、モタとともに、ヒッピとペックの帰りを待ちわびていた。ちかくには兵隊の厩舎があり、小屋の半分には藁が山積みにされている。パーシバルたちは毛布を持ちこみ、結構快適に過ごしていた。こまるのは隙間風がひどいことぐらいだ。
 四人が国を出てから、もう六日も経っている。パーシバルは小屋についた板の窓を開けて、用水路の出口から、四人の姿が出てくるのを待っている。パダルとモタは見張りにあきて、カードゲームに興じている。この三人の中ではちびのパシィが一番忍耐力があった。
 やがて時間はすぎ、モタとパダルは眠りについた。もうすっかり夜である。しかし、月が高く物はみえた。パーシバルは小屋の窓を開けて、城壁に目をこらす。そこには用水路への入り口があった。格子をはめこんだだけの簡単な排水溝だった。やがてその格子を内側からつかむ指が見えた。格子がはずれ頭が出てくると、パーシバルはうしろの二人に合図して、小屋をすばやく出て行った。

□    六

「ペック、ペック」
 ペックはビスコに手をかそうとした動きを止めた。兵隊に見つかったと思ったが、今の声には聞きおぼえがある。ふりむくと、パーシバル、パダル、モタがいた。みんなだ……と思うと、ペックはふいに涙ぐむのを覚えて目を瞬いた。みんなに会えたのがうれしくもあったし、ここにいないメンバーのことも思って彼は涙した。この二年間、さまざまな冒険を潜りぬけてきた彼らのグループも、一人かけ、今日またヒッピが欠けて四人となった。
 パーシバルは帰りが遅いのをなじろうとしたが、その涙を見てやめた。彼はなにもいわずにペックを抱きしめたのである。パダルとモタもその輪にくわわった。彼らだって、二人のことが心配だったし、これ以上メンバーがかけたらどうなるのか不安でもあったのだ。とくに、ペックとヒッピは、いろんな意味でグループの中心になっていたからだ。
 パーシバルは自分も涙ぐんだ声でいった。「よく戻ってきたな。よく戻ってこれたな。おれ、イニシエの森に行きたいなんていったけどさ、でも、そんな森、見たこともないもんな。よくつかまらなかったよ」
 言い終えると、パーシバルは大粒の涙をこぼしはじめた。グループのなかでも一番に喧嘩っぱやいが、ここぞというとき、まっさきに泣くのも彼だった。
「ぼくら、ナバホ族につかまったんだ。それで帰りが遅れたんだ」
 それを聞いて、三人は声をたてずに驚いた。いくぶん、顔が青ざめていた。蛮族の恐怖はさまざまな形で子どもたちにも伝わっていたからだ。
 ビスコが用水路から這いあがってきた。ノーマに手を貸している。二人の青年は無言で子どもたちをみている。
「おい、そいつらはなんなんだ?」とビスコ。
「友だちです。用水路の地図はこの子たちがくれたんです。みんなぼくらのことを待っててくれたんだ」
 ペックがいうと、パーシバルが得意げに笑った。
「ヒッピはどうしたんだよ?」
 パーシバルが訊いた。ペックは返答にこまった。ビスコが周囲をみまわしている。城壁の上にも見張りはいないようだった。
「手短に話してやれ」とビスコが言った。
 ペックはこの六日間の経緯をかいつまんで話した。ときおりノーマが力を貸した。ヒッピがマーサの弟子になったというと、三人はおどろき、ついで悔しがった。
 ビスコはいらいらと、「おい、そう騒ぐな。人に嗅ぎつけられる。だいたい、夜間は外出禁止のはずだぞ」
「あんたはどうなんだよ」とパーシバル。
「だまるんだ」ビスコは三人をながめわたし、「おまえたち、ちょうど三人だな」
 ビスコはマーサにもらったリュックを、パーシバルに押しつけた。屋敷にはもって帰れないからだ。ペックとノーマがリュックをわたすと、三人は急に上機嫌になった。だが、ヒッピはいつ戻れるかわからないとつたえると、三人の機嫌は急にかわった。
「そりゃねえよ、おまえたち、あいつを森に置いてきちまったのか? マーサってのは、おっかねえ魔女なんだろ?」
「そんなことはない。マーサは立派な人間だ(この言葉にノーマとペックは首をかしげた)。それに、ヒッピはマーサとは古くからの知り合いだった」
「うそだ。あいつはマーサのことなんかちっとも話さなかった」
「うそではない。ヒッピはタットンの弟子で、イニシエの森に出入りしていた。マーサと知り合いでもおかしくもなんともない」
 パーシバルは不承不承うなずく。ビスコは三人にいった。
「おまえたち、貴族街まで、安全におれたちを誘導できるか? 秘密警察にみつからないようにだぞ」
「そんなの簡単だよ。どのみちスラムは迷路みたいなもんだから。でも、あんたらそのかっこうじゃめだちすぎるよな。貴族だって、バレバレだ……」
 とはいえ、くるときに着用した変装用の服はナバホ族にとられたままなのだからしかたがない。彼らはパーシバルの用意したボロギレにくるまり、城壁から、街の中心街にむけて移動をはじめた。
 エホバには、神木と呼ばれる幹の直径が、一キロにもなる巨大な常緑樹がある。もともとは、そこを中心に発達したちいさな地方都市だった。中心には貴族の館がたちならび、庭園には緑をふんだんに配置し、森の都とも呼ばれている。面積の七割は貴族の邸宅であり、平民たちは狭い敷地に押しこめられていた。それも彼らの憤懣にかわっていたのだ。
 平民街の荒れようは予想以上で、六日前よりも一層ひどくなっていた。あちらこちらで縛り首の死体がそのまま放置されていた。六人が木陰で休息をとると、枝には自殺体がぶら下がっている始末だ。
 辻には難民があふれ、石畳の上にごろ寝をしている。そのいくつかは死体のようだった。真夜中だというのに、闘争の声があちこちから聞こえた。水路に浮かぶ溺死体がおおい。森でみた幻覚が、ここでは現実となっていた。
 都の禍々しさにくらべれば、イニシエの森の方がまだしも救いがある気がした。パーシバルらはずっと王都にいて鈍感になっているようだが、都を離れていたペックたちには、悪意がただよい肌を刺すようだ。
 貴族街の近くにきた。平民街とは巨大な道路でわかってあり、簡単にわたることはできなかった。平民たちはその道路を、壁、とも、あの道、とも呼んで、侮蔑してもいたし恐れてもいた。正円を描いて貴族街を囲っており、平民たちはどの方角からも入れなかった。夜中に忍びこもうものなら即座に射殺されてしまう。見通しがよすぎて、格好の的になるのだ。
 ここからは監視の目も厳しくなる。守備隊があやしい人影に目を光らせていた。ノーマたちも夜中は近づくことすらできなかった。
 三人は朝がくるまでに汚れた体を洗い、身支度を整えることにした。ここでもパーシバルが役立った。彼は抜け道をくさるほど知っており、知り合いの宿にころがりこむことも簡単だったのだ。
 パーシバルは、六日前に隠した服もいつのまにかとって戻っていた。はじめは怪しんでいたビスコも、豆玉の才覚を認めたよらざるを得なかった。ビスコとノーマには、緻密な計画性が不足していたからだ。
 風呂にはいり、服装を着がえると、ようやくおちついた。ペックは夜明けを待ちながら、パーシバルらと久しぶりの再会を楽しんだ。彼はイニシエの森での出来事を面白おかしく語って聞かせた。しかし、ビスコの注意もあって利菜のことはいわなかった。パーシバルたちは、その冒険に参加できなかったことをしきりと悔しがったのだった。
 朝が来た。ペックたちはそ知らぬ顔で、貴族街に戻っていった。守備隊の取り調べはおそろろしかったが、ビスコのおかげですんなりと通ることができた。守備隊にこんな横柄な口を利くものはいないから、逆に信用されたのだ。
 ペックは道路の向こうを見かえしたが、パーシバルたちは姿を消している。貴族街に近づくだけでつかまる恐れがあったからだ。ペックは首をのばし、仲間の姿をさがした。ちゃんと別れをいいたかったし、もう彼らに会えないような、自分がそばにいないとあの三人が死んでしまうような、そんな気がしたのだった。
 自分の屋敷を目にすると、ペックは虚脱してしまった。イニシエの森に行くことが決まって以来、気をはりどおしだったのだ。けれど、ヒッピを巻きこみあまつさえ彼を森に残してきたことに、罪悪感をおぼえた。
 ペックは急に後ろめたさを感じた。パーシバルたちは危険な平民街にいるし、ヒッピは今もイニシエの森の奥にいて、いじわるな魔女と、きびしい修行をしているはずだ。彼の心は重く沈みこんだ。ペックにとって、パーシバルたちはこれまでにない友だちだった。本音以上に体でぶつかりあった友だちだ。そうした友だちは、きっと特別なんだと彼は思う。なによりも……
 彼らは運命共同体だ。ジブレが死んでからというもの、一同はますますその思いを強くしていた。幻覚や幻聴に立ちむかい、危ない橋も共に渡ってきた。自分たちの周りで何かが起こっていて、いずれはそれに立ちむかうことを、それぞれに感じていたのだ。ペックは、グループの面子に好意以上の気持ちを抱いてきた。恩義を感じる友だちというのは、特別なんじゃないだろうか? 命を預けられるほど信頼でき、自分の一部のように感じられる友だちというのは。
 できれば、友だちを屋敷に呼び寄せたかった。だけど、母の笑顔を見ると、その言葉を飲みこんでしまった。彼はまだ子どもだったし、母親とこうして過ごす時間は、もうあまり残されていないと知っていたのだ。

 ノーマは待たせていた馬車に乗りこみながら、このぶんなら心配したほどもなく、屋敷に戻れるかもしれないと考えた。以降はビスコと連絡をとりあい、べつの手立てを考えるしかない。トゥルーシャドウたちにはああいったが、彼は戦争を止めるどんな手立ても思いつかなかった。彼らの軍隊は大陸中に散らばっていまも戦っている。止めることが出来るとすれば、それはハフスをのぞいてほかになかった。
 平民街をおもい、トゥルーシャドウたちの涙を考える。サイポッツの国を立て直すことばかり考えてきたが、荒廃しているのはここだけではないのである。
 ノーマはハブラケットの影響からか、正しい考えと生き方さえしていれば、かならず天が導いてくれるはずだと信じていた。ビスコもおなじのようだった。だが、二人の青年には、さらに過酷な運命がまっていたのである。

○  ビスコ

□    七

 屋敷に戻ったとき、ビスコはすぐにその異変に気がついた。最初のうち、彼はその異変が何であるのかを理解できなかった。時刻は深更である。召使いの多くは家に戻ったろう。それ以外の者も寝静まっているはずである。それでなくとも巨大な屋敷だから、静まっているのは当然だ。ビスコは最初のうち、踏み下ろす足すらそっと置き、誰の注意も引かないよう気をつかったが、すぐに堂々と歩き始めた。無人の気配。
 空気は停滞し、何日も人の動きがなかったかのようだった。脳裏をよぎったのは、苦渋に満ちたノーマの声だった。今では屋敷中がムーア教徒となっていると告白したときの彼の声。
「父上……」
 ビスコは絨毯の上を急いだ。トーマスは寝たきりである。父親が入信したなどと信じたくもないが、けれど、無人の屋敷に放置されたのだとしたら?
 ビスコは父の寝室に辿り着くと、廊下の左右を見回して、そっと扉を開いた。空気はよどみ、埃じみていた。何日も戸を開けていないのだろう。ビスコは懐から簡易ランプを取り出すと、そっと灯を入れた。ベッドの上で何者かが身動きしたので、ほっとしたのだが、そのとき部屋に漂う糞尿の匂いを嗅いだ。胸の中で、怒りと失望と空虚が満たすのを感じた。ビスコはランプを高く上げた、巨大な部屋にある大きなベッドの上で、トーマスが首を傾けているのが見えた。
 ビスコはショックを受けた。父親はこの六日間で、さらにしぼんだようだった。父上は死にかけている。
 何日だ、あいつらはいったいどれだけ父を放棄したのだ、と彼は怒りに燃えてそう思った。
 父親が死ぬかもしれない。そう思うと、心が氷柱のように冷えてきた。彼はこれまで心を許せる友人を持たなかった。母親は早くに死んで、父親にも特別かまってもらった記憶がない。彼はこれまで自分を孤独だなどと思ったことはなかったが、このときはじめて孤独を感じた。兄のパパスが死に、残った肉親は父親だけだ。だが、パパスが死んでから、トーマスは抜け殻のようになってしまった。ビスコは、自分という存在は何なのかと思う。肉親にすら関心をもたれない、無用な存在なのだろうか? ビスコは口元を拭って、なぜこんなことにと呟いた。忸怩たる思いがして、彼は自らをあざ笑った。全ては自分が無能だったからではないか。
 パパスは、なんでもよくできた男だった。人好きのする青年で、誰からも慕われていた。それに比べると、ビスコは誰かに好かれるということがなかった。負けず嫌いで、すぐに癇癪を起こすような奴だった。自分でも悪いところはわかっているが、意地っ張りだから、それを認めることができなかった。
 ビスコはパパスが好きだったが、好意と同じぐらいに憎しみをもっていた。なにかにつけパパスに敵対した。パパスがいうことにはなんでも反対するのが常だったが、兄はそんな弟を許容する、度量のある人間だった。自尊心が強く、他人を信用しないビスコを陰に日向に助けてくれた。そのことが彼には腹立たしかった。ありがたく思う自分に苛立っていた。今はそのことを後悔している。
「パパスか……」
 父親が目を開け、首をゆっくりと傾ける。ランプのかすかな灯火の中で親子は互いに弱々しい視線を合わせた。トーマスの瞳は濁り、目脂がいやに大きくうつった。
「ただいま戻りました」
 ベッドの脇に膝をつくと、トーマスが毛布の下から腕を出した。ビスコは兄がしたように振る舞うのが常だった。差し出された腕を優しく握った。
「寒くはありませんか?」
「おまえは心配性だな。私は寝ていただけだぞ」
 吐息まじりに笑った。ビスコは急に涙して、自分でも驚き顔を伏せた。トーマスは自分の状況がわかっていないのだ。額を撫でると、熱があるようだった。これほど痩せこけて、水分も抜け出たようなのに、じっとりと汗をかいている。
 トーマスは息子が泣いていることを知らない。目の前にいるのが、ビスコであることを知らないように。
「ビスコはどうした?」
 ビスコは驚いた。涙を拭きながら、
「今は眠っております……」
 死んでからも自分を苦しめる兄に、恨みがましい気持ちを覚えた。そんな自分がうとましい。死人にまで憎しみを抱く自分が、ちっぽけで、卑小な存在に思えてきた。
 トーマスが口をきこうと口蓋をあける。末期の酒を求めるように、ゆったりと。
「あいつは……」
 ビスコは驚いて顔を伏せた。父親が自分のことを話そうと覚ったからだ。
「あいつはおまえと争ってばかりいる。おまえは兄で、盛り立てていかねばならんというのに、ふふふ」と、嘆息した。「おまえの足をすくうことになるやもしれんぞ」
 ビスコは父親の枯れた掌を両手で包んだ。
「わかっております」彼は泣いていたから、父の顔が優しい笑みをかたどっていたことに気づかない。「きつく叱ってやらねば……」
 トーマスがビスコの手を軽く叩いた。
「おまえらしくもない……あいつはあれでいいのだ。あれがあやつのいいところなのだ。欠点にならぬように、気をつけてやれ。兄弟なのだからな。おまえもわかっているはずだぞ」
 ビスコは呆然と父をみた。涙線の向こうで二人の手が揺れている。父と兄のことが、今になってわかった気がした。ビスコはベッドに突っ伏すると、毛布に口を押しつけ声を殺して泣いた。ビスコは身を捩り泣き続けた。父の手が頭をなでていることにも気づかなかった。
「父上は……」顔をあげ、しぼりだすように言う。しかし、先を続けられない。これ以上、父の心底を訊き出すのは、おこがましいことのようだった。なにより事実を聞くのが怖かったし、もう十分でもあったのだ。「父上はおやさしい……」
「何者だ?」
 トーマスの緊迫した声にビスコは顔を上げふりむいた。部屋の入り口に人影がさしていた。一瞬パパスの姿に見えるが、頭を振って幻影を振り払った。後を付けられていたのか、と懐からナイフを取り出す。
「ムーア教団か!? 屋敷から出て行け! 人を呼ぶぞ!」
 ビスコは父親を逃がそうとベッドを離れ、放胆にも男たちに向かっていった。
 入ってきたのは三人だ。二人は覆面をし、黒ずくの衣装をしている。そのうち、巨漢が目にもおえない速さで迫ってきた。ビスコはナイフを上げる暇もない。肘打ちを顎にくらい吹き飛んだところへ、男がのしかかってくる。胸に掌底打ちを喰い、床にたたきつけられる、背骨を痛打して、呼吸もできない。苦しんでいると、男が背後にまわり、手慣れた動作で腕を捻り首をしめあげる。
 ビスコはヨダレを垂らし、視界をくもらせながら、父親を守れなかったことを悔やんだ。戦争を止めることも国を守ることも、頭になかった。こうなってみると、自分はちっぽな存在だった。
 ふと、喉を絞める男の腕がゆるみ、ビスコは息をついて咳き込んだ。すると知覚が戻って、彼の苦しみはいよいよ深くなった。男は喉を絞めるのはやめたが、彼の顎を引き上げて、背骨をへし曲げ始めたから、ビスコには目の前に立つ銀髪の男がぼんやりとしか見えなかった。その男だけは、覆面もしておらず素肌をさらしている。ビスコはどうにか視覚を確保しようと、全身で巨漢にあがらい、視線を下げようとした。男が着ているのはどうやら教団の神官衣のようだった。
「パパス、この者たちはなんだ。ビスコ! ビスコ、どこにいる!」
「父上に手をだすな」
 とビスコはかすれる声でいった。銀髪の男は膝をついて近づいてきた。
「誰と森に行った。何をやった。誰を呼び寄せたのだ」
 その瞬間、痛覚が遠のいて、ビスコの脳裏に打算が戻ってきた。ルカスはハブラケットを売りはしたが、ノーマたちの計画までは知らないはずである。
「し、知らん」また力が強くなった。ビスコは脊髄の切れるような苦しみに意識をなくしそうになる。
 力がゆるんだ。ビスコはあえぎながら、
「森になど行くものか。なぜ行ったと思うんだ」
「ならばゲートを開ける者がおまえたち以外にいるとでもいうのか」
 ビスコは思わず苦しみを忘れて顔を上げた。頭にあったのは、森でみた渦のことだった。男はあの場で起こったことを知っているらしい。まして、ゲートとは言い得て妙ではないか。あの渦は二つの世界を結んで、異世界の娘を呼び寄せたのだから。
 こいつ、誰かが来たことまで知っている。
 ビスコが思ったのは、ノーマとペックの裏切りだが、だとしたら、彼への質問は奇妙である。やはり拷問を受けたのかもしれない。二人の返答を疑っての事なのだろうか?
「ち、父上を見殺しにするつもりだったんだろう。卑怯な……」
 横合いから殴られ、ビスコは床に突っ伏した。背中に乗る巨漢が体重を掛けてきたので、彼はまた窒息した。自分を殴ったのは、銀髪の脇にいる痩身の男のようだった。覆面のせいで顔は知れないが、
「きさま、ルカスだな。ただですませると思うな」
「オットーワイド、こいつを殺そう。我々の役に立つような男じゃない」
 声からしてやはりルカスのようだ。
 銀髪はオットーワイドか
 とビスコは脳裏にその名を刻みつけたが、頭のどこを探っても出てこない。格好からしても、相応の地位にいるはずである。その男は生気のみなぎる目で、彼を見据えている。長い銀髪が祭服の左右に流れ、頬には深い皺が刻まれている。威厳の満ちた声に反して、かなりの高齢のようだった。ビスコはその男に畏怖を覚えた。背丈は彼と変わらない。なのに、奇妙なほど巨大に見える、彼は頭を振って、男の威圧を払いのけようとした。
「まあ、待て。この男からは探ることがある」
 オットーワイドはビスコの頭に右手を乗せた。その瞬間、ビスコは生身の脳を何者かがまさぐるのを感じた。まるで皮膚も骨も一挙に溶けて、直接素肌でかき回されているようだった。
「やめろ!」と彼はその言葉を連呼した。だが、脳を支配されて実際には声すら立てていなかった。
 オットーワイドはぶつぶつと何事かいっている。ゲートを開いたのはやはりきさまか……誰を呼び寄せたのだ……質問するたびに、オットーワイドは自在に答えを得ているようだった(といってもビスコの知る範囲でのみの話だが)。ビスコは視覚を失い、耳も聞こえなくなっていた。その中で、最後の、
「マーサに娘を預けただと」
 という言葉だけは聞こえた。オットーワイドが手をどけた。
「ちがう。マーサの家になど行っていない」
「ばかをいうな」
 オットーワイドが髪をつかみ上げる。それは感情に反して、静かな口ぶりだったので、ビスコはいっそうの恐怖を感じた。ルカスも巨漢もすでに彼から離れている。ビスコは赤子のように手足を身に寄せている。もう抵抗する気力すら失ったことを知っているのだ。
「全てを知られたことはわかっているはずだぞ。きさまの考えもな」オットーワイドは馬鹿にしたように鼻をならす。「きさまらなどに何ができる。おまえなどただ憐れなだけだ。父親はきさまをパパスとしか思っていない……」
 ビスコは耳の中でオットーワイドの言葉が目眩のようにグルグルと回って、ただ、ああ、ああ、とだけ呟くしかなかった。オットーワイドの囁く声は魔法の呪文のように彼の五体に轟き渡った。マーサと利菜とかいう娘も不思議な力を使ったが、このオットーワイドはそれ以上だった。
 銀髪の男は何事もなかったような自然な動作で立ち上がる。ルカスが近づいて憎しみをこめてささやいた。
「殺しませんので」
「まだ役に立つやもしれん。泳がせろ」
 オットーワイドはそう言いながら、ビスコのナイフを拾い手に持たせた。
「無残だとは思わんか? 息子が何者かもわからず、抵抗もできん。父親が一日に二度も糞尿を垂れ流すのを知っていたか?」
 ビスコが首を左右にふると、垂れた唾も左右に揺れた。
「きさまは傲慢で鼻持ちならん奴だそうだな。だが、父親を思う気持ちはあるだろう。このままでは苦しみ死ぬだけだ。他人に殺される前に、きさまが引導を渡してやれ」
 オットーワイドが彼の肩を友人にするように優しく叩いた。これでおまえはおれの物だと言わんばかりだった。
 オットーワイドは巨漢をつれて部屋を去りぎわ、後で連れてこい、とルカスに囁いた。ルカスは喜色をふりまきながら、ビスコをベッドにおしやった。
「やれビスコ! 父親を殺すんだ!」
 ビスコは重だるい体をどうにか支えながら、ベッドの脇に立った。父親を殺す、引導を渡す、そんな男の指令がなによりも最優先すべきものだと思えた。判断基準も何もない。彼は言われたことを実行する無機質な機械のようにナイフを掲げて父親の顔を覗きこんだ。息がかかるほどに顔を近づける。変化が起こったのはそのときだった。
 ルカスは気の狂うような喜びを浮かべて、ビスコの両肩に手を乗せた。
「どうしたビスコ? ん? 迷うはずがない。オットーワイドに言われた通りにするんだ。息子が何者かわからん父親がなぜ必要だ? これからの世はな、世は……」
 そのときビスコがふりむいたので、ルカスは黙った。彼が黙ったのは、ビスコの目に明確な知覚が感じ取れたからだった。
 ルカスが声を上げようとしたときはもう遅かった。ビスコは振り上げたナイフをそのまま彼の喉に突き立てたからだ。ルカスは驚愕に目を見開き、笛の音を立てながら、喉に立つナイフを掻きむしった。
「残念だったな。父上ならもう死んでいる」
 ビスコは憎しみと悲しみをこめて囁く。音を立てないようルカスを引きずり倒し、ナイフで喉をかきまわしつ真横に引ききった。ルカスが確実に死んだことを確認すると、父親の遺体に毛布をかぶせ、急いでバルコニーを目がけて駆けた。父親を残して行きたくはなかったが、オットーワイドがべったりと背中に貼りついているような気がして夢中で走るしかなかった。負けている、おれは恐怖に負けていると涙を流しながら、闇の中に飛び出し、記憶をたよりに庭園の林に向かった。貴族の邸宅は通常、塀で囲まれ、その内側には広大な庭園があったのだ。ビスコの頭には父の死に顔とオットーワイドの声しかなかった。だから、横手から誰何されたときには悲鳴を上げて茂みに飛び込んだ。
「おい、落ち着けよ」
 とベルトを捕まれる。パーシバルだ。パダルとモタもいる。子どもたちがランプを使おうとしたので、ビスコははたき落とした。抗議を上げようとする口をふさぎ、
「ムーア教団がいる。おれは逃げてきたところだ」
 少年たちの顔に恐怖の色が浮かび、闇にとけていくのが見えた。パーシバルはビスコの手をひいて誘導をはじめた。
「きさまら何でここにいる。どこから来たんだ」
「そこから連れ出してやるよ。急ごう」
 パーシバルが来たのは茂みの一角にあるマンホールだった。彼らは手元もろくに見ずに梯子を下りた。オットーワイドの眼力を思うと、いつ追いかけてきてもおかしくなかった。
「ヒッピがこれをくれたんだ」
 パーシバルがいうには、あの少年がいずれこのような事態が起こることを予測して、三人の家に行く地図を渡していたのだと言う。
「あんたらが危ない目にあうかもしれないって。なにかあったら連絡をとれっていってた。人数分をくれたんだ」
「くそ。だとしたら、ノーマも危ないぞ」
 ビスコは急いでノーマの元に向かおうとした、そう言おうとしたのだが、その前に嗚咽があふれて、彼はその場にすわりこんでしまった。父やノーマの言葉が胸裏を駆け巡り、何も考えられない。結局は彼を助けてくれたのは、貴族ではなく平民の少年たちだった。いろんな思いや感情が交じり合い、ビスコは額を抑えるとついに子どものように泣きじゃくった。パーシバルらは、途方にくれて立ち尽くした。そんな彼らに、
「父が死んだ……」
「え、あいつたちに殺されたのか?」
「そうではない。父はただ死んだ。もともと衰弱していたからな。だが、あいつらは父を殺せと、おれにいった」
「ひでえな……」とパーシバル。
「おれは父を誤解していた。おれは大馬鹿だった。ちゃんと向き合わずに、誰の気持ちも突っぱねたのだ……」
 ビスコはぽつりぽつりと涙の合間に話し、三人の少年たちはおとなしくその言葉を聞いた。三人にはわからないことが多かった。それでも、ビスコは聞く耳があることを感謝した。トーマスは、自ら死ぬことで彼を救ってくれたような気がしてならない。だからビスコは生まれてはじめて気がすむまで泣いたのだった。

○  ノーマ

□    八

 邸宅の扉を開けた瞬間だった。ノーマは何かがおかしいと感じた。無数の人の気配と不自然な静けさを感じたのだ。暗闇だった。扉を閉め切っているのだ。香の匂いが漂っている。
逃げようと身を翻すが、行く手を塞がれ、左右から羽交い締めにあった。口を塞がれ、声もたてられない。無数の腕に引きずり倒されたかと思うと、頭から袋をかぶせられた。夢中でもがくが、何十人という人間に踏みつけにされ、ボールのように蹴飛ばされる。
 ノーマは息を詰まらせ、昏倒しかかる。朦朧とするなかで、足を縛られるのを感じる。
 体格のいい男が(もとはマオリというこの家の下男だった。ノーマをけりつけたのは、この家の召使たちだ)、彼を荷物のように担ぎ上げる。ノーマは袋の中で、吐息をつき、血を流す。男が歩くたびに傷めた内蔵が揺れ、その苦痛にうめいた。さきほどの人影には、たいはん見覚えがあった。女中すらいたようだった。
 体の揺れが大きくなり、ノーマは階段を上っているのことを知った。そのさきの相手には会いたくない。粛々と進む人の足音。廊下の音になった。扉の開く音。
「やめろ……」
 床に投げ出される。傷めた体をゆっくりと動かし、袋を脱ごうとすると、上からはぎとられた。ろうそくの火が、血まみれの彼を照らす。
 ノーマが離れた六日の間に、屋敷はすっかり模様替えを終えたらしい。ムーア教団を示すタペストリーが四方に下がっている。暖炉の上には、教団の旗があった。赤地に黄金のワシが刺繍されている。森で何度も見たものだった。
 そして、目の前に父がいた。
 呆然と見上げる息子に、ニムベは言った。
「戻ったか、この反逆者め」
 ノーマは荒い息をついた。何をいうか、と彼は思った。顔を伏せたが、それは怒りを隠すためだった。戦争を止めようとしているのだから、現体制の反逆者と言えなくもない。だが、「あなたは、ムーア教団に与している……」と彼は言った。父は無言だ。ノーマは周囲を取り囲む召使を睨み、「おまえたちもだ! 恥を知れ。戦争を引き起こし、国を荒廃させ、いったい何が狙いだ! 平民街を見てみろ、難民と死体であふれて……」
 マオリの拳が飛び、ノーマは床に突っ伏する。彼が血を吐いても周囲は無言のままだった。過去はこうではなかった。このマオリなど彼の育ての親といっていいほどだった。ノーマは恐怖よりも悲しみと怒りを感じて悔しんだ。
 ニムベが、「おまえも、ムーア教団に入れ」
 ノーマは父親をにらみ上げたが、彼を見下ろす目も冷たかった。その瞬間、ノーマは激しい憎悪を覚えた。今まで父親だからと隠してきたが、自分はこの男が憎かったのだ。
「大臣の座にありながら恥ずかしくないのか!? こんなこと、長くは続かないぞ! あなたこそ考えをあらためるべきだ!」
 ニムベが杖を振うと、顎がはじけた。仰向けに倒れ、後頭部を激しく打つ。脳震盪と激しい吐き気がおそいかかってきた。
 ニムベはかたわらに膝をつき、顔を近づけてくる。召使が彼を引き起こした。
「考えをあらためろか……きさまは何もわかっていない」
 ノーマは首をぐらつかせながらも、「あの方≠ニは誰だ……」
 ニムベは無言で立ち上がった。一瞬覗いた憎悪は、その表情から消えていた。「連れて行け。牢獄に放りこむんだ」息子の目をのぞきこみ、「考えを改めるまでな……」
 ノーマは屋敷の地下にある牢獄に放り込まれた。そんな牢獄があることすら驚きだった。マオリらは岩をくりぬいた硬い地面に、彼を投げ捨てる。牢獄の鉄扉が閉まった。鍵を掛けおえるとマオリは鼻を鳴らし、
「あんたにもわかるときが来る。あの方の力は偉大にして、その理想は崇高なものだ!」
 ノーマは苦しい息の下で叫んだ。「おまえたちは操られている。正気をなくしているんだ」
「以前のおれこそ正気がなかったのだ。今はただしい道をみつけた」
「他種族に戦争をしかけ、人民を苦しめるのが正しい道か!」
「そのとおり」ゆるぎない信念に満ちた顔でうなずく。「この世は苦しみでいっぱいだ。だが、その膿みを吐き出したときに全てが終わる」
 マオリは出て行った。ノーマは暗闇に取り残された。彼らはノーマが幻覚に襲われていることを知っているのだろう。彼らもムーア教に与するまでは、同じ苦しみを味わっていたのだ。
 ノーマは絶望の中で震えた。地下にはわずかな明かりもささず、やがては幻覚がはじまるだろう。幻聴もするにちがいない。ノーマはわるいもののことを考え続けた。あいつらは信じる力を食い物にする。怖いのは、それらが現実化したときだった。
 身を起こし、背中を壁に預ける。岩盤をつたう水滴が、ぴちゃり、と音をたてて落ちたのだった。

○  ムスターサ

□    九

 サイポッツの全軍は四十万に達している。そのうち十万人がイニシエの森にいた。森中で戦っている。ムスターサ将軍は第一近衛師団を率い、すでに半年間にわたる戦いをつづけていた。兵士たちのすべてが、ムーア教団というわけではなかったが、軍隊も政権も教団に支配されている。誰がまともなのかもわからない状況だ。
 最初のうち、ムスターサたちはナバホやゴリアテといった森の蛮族と戦っていた。だが、今ではまったく別の戦いに苦しんでいる。幻覚をみ、幻聴を聞き、悪夢のために眠ることもできなくなっていた。恐怖のために発狂するものも多かった。同士討ちで壊滅した部隊もある。殲滅作戦は森の民だけでなく、サイポッツの軍隊をも飲み込んでいた。一万人いた師団は散り散りになり、蛮族との戦いに大半が命を落としていた。自殺者が多く、部隊内での処罰も横行している。もはや目的をもった組織とはいえなかった。兵士たちは血に飢え、命令もないままにたんなる殺戮を続けていたからだ。生存者のうち、ふとした拍子に正気に戻る者もいた。そうした者は自らの起こした罪の重さに苦しみ、耐えられぬ者は自ら命を絶ち、死にきれぬものは再び発狂するしかなかったのだ。ノーマたちが軍隊に助けを求めなかったのは、さまざまな意味から正しかったといえる。
 ムスターサの手元には三百人の兵隊が残っていたが、この三日で百人をきるまでに数を減らしている。百人は戦闘で命を落とし、残りのものは正気をなくし、森の奥深くへと姿を消した。イニシエの森は、狂気の渦に飲まれていた。ムスターサにも人間らしい思考が残っていない。彼らは強烈な目的意識のみで動いている。唯一考えられるのは、滅ぼす、ということだけだった。今もスーと名乗るイニシエの種族を殺戮してきたところだった。ナバホ族は恐ろしい相手だ。この手勢では返り討ちにあったかもしれないというのに無謀な作戦行動もいとわなかった。ムスターサに冷静な判断力は残っていなかったからである。
 ナバホたちは、すでに何者かに襲われた後だったようで、多くは放心状態にあった。ムスターサにとってはじつに単純な殺戮だったのだ。狩りを終えた後、ムスターサは兵に休息をとらせた。
 テントに入り睡眠をとった。この頃はろくに眠れず、眠っても悪夢をみるばかりだ。けれど、眠らないわけにはいかない。体は疲労しきっていたからだ。彼は眠るということに強迫観念にとらわれていた。休息をとらねば最後に残ったわずかな正気すら、消えてしまうにちがいなかった。
 夢をみた。彼に残った人間らしい部分は、夢を見ることを拒否していた。死んだ者を恐れ、自分のしたことを悔やまねばならないからだ。さらにへばりついた最後のシチューのような乾いた理性が、この事態を誰かに伝えねばと訴えていた。彼は国ではよき父親であったし、部下からは、あの親父、とも呼ばれる信頼のあつい男だった。蛮族との益のない戦争には反対だった。それが、いまでは……。
 夢の中にはいつも自分以外の誰かがいた。ムスターサはその男のことを、あの方と呼んでいた。恐れながらも、心の底では信奉していたのである。あの方は恐怖をやわらげ、すべきことを教えてくれる。
 ムスターサは、老婆と娘、少年の姿を夢で見た。マーサのことは知っていたが、後の二人は見覚えがない。ムスターサは少年たちが大鏡で何を行い何をしでかしたかを知らされた。謀反だ、と誰かがささやいた。しかしマーサは宮廷魔術師だ、とムスターサは考えた。が、あの魔女が城を追われたことを思い出す。二人の子どもが、マーサの弟子であることを知った。マーサはこれまで弟子をとったことなどない。王宮の許可を得ていないのだ。
 あの方は、老婆を捕らえ、子どもを殺せと言った。もう関係のない者を殺すのはいやだ、とムスターサは答えた。あいつらは子どもだ。子どもに謀反など……
 だが、あの方は三人の邪悪さを熱っぽく語った。ムスターサの残った正気は少しずつ目減りしていった。やがては自分のすべきことがようやく見つかったのだと考えるようになった。この森にきた目的がようやくわかった。部下たちの死も、無駄ではなかったのだ。
 気がつくと、ムスターサのまわりには、近衛第一師団が復活していた。ムスターサは死人を率いて、マーサらを襲った。
 夢の中で、三人を殺した。何度も。何度も。何度も。
 何度でも。

 夢から覚めたとき、ムスターサの残った正気は消し飛んでいた。脳の血管が破れたらしく、目は赤く充血しきっていた。彼の命も、そう長くない。
 ムスターサはテントを出ると、部下を集めた。あの方の訓示を一同に示すためである。彼の部下は、もはや自分たちで目的を探すことすらできなかった。殺戮の情熱に身を任せるばかりで、思考する意志が残っていないのだ。ただ、目的があれば別だ。
 ムスターサはその三人がどれほど極悪かを熱心にとき、抜け殻だった部下たちの目に、憎悪の炎がたぎるのを満足げに眺めた。
 第一近衛師団は、新たな殺戮を求めて進軍を始めた。それは近衛師団の最後の行動だった。

◆ 第十章 マーサの荒修行


□    十

 ノーマたちが去った後も、ヒッピは大忙しだった。森から薬草をとってまわり、汚れた利菜の服を洗った。近くの小川から水を汲むのも彼の役目だった。マーサは高齢だというのに、毎日一人でこれをやっているのだから大変なことだった。
「この娘が目覚めたら、すぐに修行を開始するよ」
 とマーサは言った。マーサは意外なほどまめまめしく、利菜の世話を焼いた。薬草を何度も飲ませ、頭部頸部の指圧を根気よく続けた。
 利菜はマーサの服を着せられたまま、目覚める様子もない。
 娘が長い休息から目を覚ましたのは、この二日後のことである。

 目を開けた瞬間、自宅のマンションにいるのかと思った。布団に寝ていたからだ。だけど、天井にいつもの蛍光灯がない。パジャマでなく、へんてこなローブを着せられていた。脇には、見たこともない窓がある。利菜は、まだあの世界にいるんだ、あいつら失敗したんだ、と思うと、怒りを覚えずにはいられなかった。なるほど、ナバホ族から逃げ出し、誰かの家には逃げ込めたものらしい。けれど、これでは状況が好転したとはとても言えない。
 不思議なことは他にもあった。頭を振ると頭痛は残っていたが、あのときのひどい疲労がまるでない。脳をまるごと洗浄されたようだった。
「目が覚めたのかい?」
 利菜は唐突な声に驚いた。そちらを向くと、信じられないぐらいに年老いた老婆が一人で椅子に腰掛けている。利菜の着ている服と同じものだ。彼女は急に記憶を取り戻して、
「あなたがマーサ?」
「そのとおり」
「助けてくれたの?」
「しかたなくね」
「ありがとう……」
 元気なくいうと、布団の端をギュッとねじった。老婆は利菜の顔をじっと覗いている。
「具合はどうだね」
「よくなったと思うけど……」
「けど?」と問い返した。「けどなんだい。はっきりいいな」
 きつい言い方だ。利菜は顔をしかめた。
「自分の体じゃないみたいで、気分が悪いんです」
「だろうね。おまえは無茶をしすぎたんだよ。そのつけさ」
「あたし、ずっと寝てた?」
「二日ばかりね」
「そんなに?」と身を起こす。「お願いが……!」
「待った、その先は聞きたくないよ」とマーサはさえぎる。「何をいうつもりかはわかってるからね。だから、先にいっておく。あたしはおまえを元の世界になんて戻せない。戻す方法も知らない。そうさね」と顎を撫で考え込む振りをする。「あたしの師匠なら、万に一つ知っていたかもしれないが……」
「そのお師匠さんは?」
「とっくに死んじまったよ。ずいぶん昔のことだ」少し遠い目をし、背もたれに寄りかかる。「師匠が死んじまったから、替わってあたしが王宮付きの魔女になったんだ」
 王宮と聞いて利菜はマーサにたいする軽い羨望と、強い失望を覚えた。マーサが王宮のお抱えというぐらい地位の高い魔女なのなら、彼女を上回る魔法使いはサイポッツにはいないことになるからだ。
 マーサは気を取り直すように利菜を観た。「利菜と言ったね。おまえがこの世界に来たのは偶然なんだろう。間違いないかい」
「うん」
「うんじゃなく、はいだ」
 利菜は唇をかんだ。なんでこんなばあさんに偉そうに言われてるんだろうと思った。「はい」
「言い方が悪いよ。丁重にしゃべりな。あたしは目上なんだからね。――さて、おまえは元の世界に戻りたいというが、もし戻れなかった場合はどうする?」
「そんな」利菜は肚を立てた。「あの人たちが勝手に私をこっちに呼んだんじゃない」
 マーサはぴしゃりと机を叩いた。「人のせいにしてなんになる。あいつらだって呼びたくておまえを呼んだんじゃない」
「あの人たちはどこに行ったのよ」
「国に戻った――」
「そんな」胸に手を当て「私を見捨てて?」
「人聞きの悪いことをいうんじゃないよ。あいつらだって大変なんだ。国に戻った方がずっと危険かもしれないんだからね」
 利菜はまだヒッピの記憶をたどれたから、マーサのいったことはうそではないと思った。彼女はうなずいた。
 マーサは利菜を指でさし、「そのかわり、ヒッピは手元に残してある。おまえとは精神がつながっちまってるからね。おまえはもうわかってるだろうが、そのへんのところをコントロールする術を身につけてもらう。簡単に言えば、あたしなりの修行ってことさ。ありがたく思いな」
「魔女になれっていうの?」
「そんなこた知らないね」
「冗談じゃないよ。わたしは早くもとの世界に戻りたいのよ!」
「お黙り!」
 マーサは老人とは思えないような声で利菜を黙らせる。
「戻る方法が見つかるまでは仕方ないだろう。そんなに戻りたけりゃあ自分でなんとかすりゃあいい。あたしはおまえの手助けなんて、まっぴらごめんなんだからね」
 利菜は悔しくて頬をかんだ。これ以上誰かの都合で振り回されたくなんてなかったが、マーサの助けがないのは困る。この世界では一人ぼっちで、おまけにここがどこなのかも分からないのである。それでも、これだけはいいかえした。
「こっちの世界はどうだか知らないけど、私の世界には魔女なんていないのよ」
「だけど、予想もつかないことが起こっておまえはここにいるじゃないか」
 利菜はまた黙る。
「もっとも、おまえが魔法なんてものを信じていないというんなら、なおさらけっこう、余計な説明をする手間がはぶける。おまえも魔法を不可思議なものと考えてるんだろう。おまえが考えてるような魔法をあたしは使わない――使えないんだよ。だから、おまえたちの想像する魔女ってのは、この世界にだっていない。あたしが教えるのは、精神や意識を操る術なんだよ。それはおまえがこれまでやってきたことの延長にすぎない。恐怖を払いのけようとしたり、幻覚を抑えこもうとしたことのだよ。それはわかるね?」
 利菜がうなずくと、マーサは鋭く、「返事をしな」
 利菜はこんな老婆に怒鳴られるのが悔しくて、はい、と大声でいった。
「言い方が悪い。そこもおいおい直していきな。早く国に戻りたいというが、あたしの修行は、おまえたちのいうわるいものに対してだって、きっと効果があるはずだ。心を遮断する術を覚えなけりゃ、わるいものにすぐに影響されちまうよ。今元の世界に戻っても、おまえはすぐに殺されちまうんじゃないのかい? ヒッピのいうとおりなら、元々は普通の子どもに過ぎないんだからね」
 利菜はうなずいた。それからすぐに、はい、と言った。マーサは目つきが鋭くて、なんだか怖かった。彼女は緊張でぎゅっと毛布を握り締めた。
「さてと……あたしも弟子をもったことはないからね。師匠がいたのもずっと昔だ。人に物を教えるなんてできるかどうかわからない。それでもやってみるしかない。これは、わかるね」
「はい」
 利菜はちょっと放心していたが、それでも自分が前に進めた気がした。それにマーサは開けっぴろげな性格のようだ。ずけずけ物をいってくれることが、今はありがたい。隠し事をされるよりも、ずっとよかったからだ。
「条件をいうよ。あたしの前で泣かないこと。我が侭を言わないこと、むやみにものを尋ねない、しつこく物を言わない──も一つ、あたしのいうことをよく聞くこと」
「それだけ?」
「あとは随時追加だ」
 そこへ外からヒッピが入ってきた。洗濯物を抱えている。起き上がっている利菜を見て、かごを落とした。
「利菜。もうすっかりいいの?」
 利菜はうなずき、ついで泣き出した。見知った顔があらわれて、どっと安心したのだ。ヒッピはそれを見ておおいに照れ、頭をかいた。
「少しも目が覚めないんで心配したよ。すぐに料理をつくるから……二日も食べてないんだ、おなかも空いたろ?」
「あたしの分もだよ」
「もう食べたじゃないですか。仕方ないな……材料もそんなにないのに……」
「おまえがとってくればいいよ」
「勘弁してくださいよ。森は危険なんだから」
 ヒッピはぶつくさ言いながらも、奥にあるかまどに立った。
 マーサは利菜を見ていった。
「おまえ、料理はできるのかい?」
 利菜は首を振った。されから急いで、「いいえ」と言った。
「女のくせにかい。洗濯は? 掃除は?」
「できると思います」
「マーサおばあさん、病み上がりですよ」
「お黙り。食うんなら働くことだ。働かないなら、食わないことだ。飯を食わなきゃならないのに、疲れたなんていってられるかい? 文句を言えば、満腹になるのか?」
「マーサおばあさんはそれで気がすんでればいいですよ」
「お黙り」
 利菜は二人の口論を聞き流しながら、ベッドに横になった。窓のガラス越しに見知らぬ森を見た。それで、また少し涙が出たのだった。

□    十一

 利菜はベッドに座ったままでいる。ヒッピの持ってきた食事を食べようともしない。食欲がわかないのだ。何かの蓋で、喉を塞がれているみたいだ。
 自分は今も生きている。でも、佳代子たちがあんな目にあって生きているとは思えなかった。あのとき彼女らは、何かを成し遂げるためのグループだった。だけど、おまもりさまから引き返すと決めた時点で、六人が象ったパズルは解けかかっていた。利菜がいなくなることで、ピースが欠けることにもなった。じっとなどしていられないのに、体を動かす気力がない。疲れもあるが、おまもりさまに戻ることが恐ろしかった。佳代子たちには会いたい。けれどあんな目に合うのはもういやだったのだ。そうして怯えること自体が佳代子たちを見捨てることになりそうで、寒気がした。
「私はどうなるの?」
「ぼくにはわからない」ヒッピは正直に語った。精神のつながった彼女にうそをつけるはずがなかったからだだ。「マーサおばあさんにも、君を元の世界に戻せる方法はわからないらしいんだ。儀式の神官はあの三人以外にいないし……」
「じゃあ、このまんまなの?」
 利菜は涙声である。ヒッピは心が痛むのか顔をしかめている。
「わからないよ。だけど……」
「佳代子たち、もう死んでるかもしれない」
 と利菜は唐突にいった。それは心の中にずっとあって考えたくもない疑問だったのだが、口にした瞬間からほんとのことのように感じられた。彼女は一息にしゃべった。
「だって、私がいなくなったんだもん。一人でも欠けたらだめなのに、私こんなところにいる。それとも、みんな私を見捨てたの?」
 利菜がふりむいたので、ヒッピにも泣き顔が見えた。こんど目線をそらしたのは、ヒッピのほうだった。
「そんなはずないよ」
「じゃあ、みんな死んだんだ。もう向こうに戻っても、どうにもなんない」
「まだ、わからないじゃないか」
「だって、向こうに戻っても、またおっかない目に合うに決まってる。私、あんなめに耐えらんない」彼女は責めるんなら責めろというみたいにヒッピを睨む。「母さんや父さんにも、会いたいよ。家に帰りたいけど、元通りになってるはずないもん。おまもりさまに行っても、何にもわかんなかったんだから」
「それはどうだろうね」マーサだった。「おまえはこの世界に来たじゃないか。それは偶然なんだろうかね」
 利菜は眉をひそめる。ヒッピが、
「ぼくらは幻覚を見てたろう。マーサおばあさんもなんだ。それにぼくらはみんな、同じ言葉を聞いている」
 利菜は口を閉じ引き結んだ。この夏何度も聞いた言葉、世界はねじまげられている、という言葉がまた聞こえた気がしたのだ。
「それって、私たち、六人とも聞いてた」
「マーサおばあさんも聞いてるんだ」
「どういうこと?」
 ヒッピは口にするのを迷うように、少し間を置いた。「あれがたんなる言葉じゃないとしたら、どうだろう?」と言った。「現実に起こっていることだとしたら? 説明がつく気がするんだよ。儀式は失敗したんじゃなく、ねじまげられたんだ。だから、君が出てきた。つまり……」
「馬鹿馬鹿しい、そんなことがなぜ起こる」
 マーサは魔女なのに信じないようだ。
 でも、利菜にはぴんときた。おまもりさまでは、色んな時代の死体をみた。色んな時代に行くことができた。空間がねじ曲がっていたのだとしたら確かに説明のつく気がする。
「それに、あれはただの幻覚じゃなかった」と彼女はつぶやいた。二人の視線が利菜に集中する。「あれは幻覚じゃなかったよ。認めたくなかったけど。私たち何度も話あった。幻覚なら、触れたり、触ってきたりするはずがない。佳代子のおばさん、佳代子のことひっぱたいたもん」
「どういうことだい?」
「知ってるでしょ?」と今度はヒッピに向き直る。「坪井の家で、わるいものは、おばさんになった。あいつら、みんな私らが怖がってるものに変身する。佳代子たちは、想像が現実になるんだと思ってた……。それに、坪井って人はなんでだかおまもりさまにいた。おまもりさまにいて、私の腕だってつかんだもん。痕だってあるよ。うそじゃない」
 マーサとヒッピは言葉もなかった。でも、ヒッピは利菜と記憶の一部を共有していたし、今でも精神がくっつきあっていた。利菜はうそをいっていない、全部本当にあったことなんだと彼は信じることができた。ヒッピはうなずいた。
「私、今なら信じられる」と彼女は締めくくる。
「でも、ちがうんだ」とヒッピは言った。利菜は聞き返した。
「そこだけがちがうんだ。ぼくらの世界では、想像の現実化なんて起こってない」ヒッピは言い直した。「誤解しないでくれ。君の言葉を疑ってるわけじゃない。ぼくは君がおまもりさまで坪井って人に会ったのも知ってる。あそこで何があったのかも」だからこそ、世界のねじまがりに考えが及んだのだのだが。「ぼくは君の話を信じられるけど、それでもわからないんだ」マーサに向かって、「わるいものっていうのはなんなんです。なぜぼくらには……」
「まあ、待ちなよ。わるいものっていう言葉自体は、この子らが考えたものだろう」
「でも、現実に」
「まあ、落ち着きなよ。これから、あたしの考えを話すよ。あたしはおまえから、ある程度のことを聞いてるからね」とマーサは腰を落ち着け直した。「あたしも師匠にはいろいろ学んだものだよ。未だにエビエラって人を超えられたわけじゃないがね。知見も能力も敵わないままさ。だから、いつも師匠ならなんと答えるだろうか、というふうに考えることにしている。まあ、一種の癖みたいなもんだね」
「エビエラなら、なんというと思います?」
「師匠なら、そうした体験の共有を、共感覚だというだろうね。というのも、人の意識は底の部分でくっつきあっていると師匠はかんがえていた。巨大な集合意識を形成しているというんだね」
 ヒッピは不審な顔をしたが、利菜はうなずいた。利菜の世界にも(魔法ではなく、心理学にだが)似たような考えがあったからだ。
「私も、佳代子たちと向こうの図書館で調べた。集合無意識とか、全体意識とか、書いてあった」
 マーサはうなずいた。
「そうだね。どれも言葉はちがうが、言おうとしていることは同じだと思う。すべての人間の意識は、三段階の層になり(顕在意識、潜在意識、集合無意識のことらしい)、底の部分でつながっている。そして、意識というものは、溜まるものだ。うちの師匠は、これまで生きた全てのサイポッツの意識や記憶は、無意識の層に溜まり続けると考えていた。もちろんこれは師匠のたてた仮説に過ぎないがね――そうした深い部分、普段は感じられず考えもしない場所に、どんな者もつながっているのだとしたら? ――やはりその場所からも、人は影響を受けていることになる」と吐息をつく。「そこでだ。全体意識に溜まっているものが、悪い物ばかりだとしたら? 悪い感情や意識の方がずっと多かったら? この次元にいるあたしたちにも、悪い影響があるかもしれない」
「でも、利菜の見たわるいものは、現実の世界での話ですよ。集合意識が深い次元の話なら、現実の世界とは無縁なはずでしょう?」
「そこで、おまえのいったねじまげだね」
「信じるんですか?」
「信じているわけじゃないんだよ。ただ、師匠なら考慮にはいれるだろうね。どんなことも可能性があるのならば、一考はしたにちがいないよ。世界や次元がねじまがって、通底意識の次元が、あたしたちの次元に、より強い影響を与え始めたのだとするなら、一応の説明はつくだろうね」
「仮説だけど、可能性はあるということですね」
 マーサはしわい顔をした。
「おまえはやっぱりタットンの弟子だね。議論好きなのは考え物だよ」
 ヒッピは照れたようにこめかみをかいた。
「ともあれ、それが現実なら、サイポッツもおまえたちも、歴史のなかで、悪い意識を溜めすぎたことになる。集合無意識の影響が悪い物ばかりなんだから。それに利菜は、そうした影響を、わるいもの、と呼んでいる」
「でも、そんなことになってるなんて、考えてもみなかった」
「そうだね。だけど、人間ってのは、理屈だけじゃなく直観でも生きてるものだし、真実を悟るのは理屈よりもひらめきが多いと思う。魔法っていうのは、閃きによる直観力を養うものでもあるんだからね。もちろん、今あたしがいった仮説が正しいというわけじゃないが」
 利菜はじれったかった。もっとはっきりした答えが欲しかったが、勘にすぎないことを鵜呑みにしてはいけないというマーサの考えも理解できた。
「あたしはおまえがこの世界に来たのも偶然じゃないような気がするんだよ。おまえたちは自分たちに降りかかった災いを、おさそいと呼んでいたしね」
 利菜はうなずく。
「この世界への誘いだったということですか?」
「わからない。だが起こったことには必ず原因があるものなんだよ。何よりあたしは、自分の勘というものを信じて生きているしね」
 ヒッピは首を垂れて沈思黙考した。マーサが世界のねじ曲がりを信じたくないそのわけは、それが現実だった場合に、対処のしようがないからではないかと思えたのだ。マーサは利菜がこの世界に来たことも偶然ではないといっている。そこに世界のねじまげを解く鍵がある、と裏では言いたいようだった。
 マーサは、起こったことには原因があるともいっている。世界がねじ曲がりはじめたのならば、原因があるのではないだろうか? マーサは、集合意識の悪の部分が人に影響を与え、不信や猜疑を増幅させている、という話をした。犯罪の多発もうなずける話だ。きっと利菜たちは恐怖を感じることで、集合意識の悪い物を呼び寄せていたのだろう。それが個人の悪い物と、感応したのかもしれない。
 マーサは、そこで話を打ち切りとした。
「さあ、飯を食って体力を回復させるんだ。これ以上泣き言は聞きたくないよ。逃げ出すから苦しいんだ。おっかないのを振り払いたかったら立ち向かうことだ。立ち向かうためには練習しかない。さあ、とっとと食っちまいな。ぐずぐずしてる時間はないんだからね」
 利菜は慌ててスープを受け取ると、木でできたスプーンを使って口に運んだ。それでも、また涙が出て、うっと、咳き込んだ。

□    十二

 腹ごしらえがすむと、マーサは二人を追いやるように外に出した。家の周りはきれいに雑草が抜いてある。彼女は切り株の椅子に腰を下ろし、説明をはじめた。
 マーサはまずは二人を地面に座らせると、姿勢をチェックした。少しでも、おかしな座り方をすると、すぐさま枝ではたかれた。無駄な力が入ると、マーサがそこを叩くのである。それから、マーサは呼吸の仕方を教えた。腹筋や背筋にわざと力を入れて、呼吸をさせた。すると、胸やおなかが膨らまず、うまく息が入ってこなかった。力を入れた部分が壁のようになって、息が入らないのだ。呼吸のためにも、力を抜くのが大切なんだよ、とマーサは言った。ともあれ、頭でなく体で理解する、という行為は新鮮だった。確かに、むだな力が抜ければ抜けるほど、そのぶん息が入ってきた。それに、マーサのいう中心をつかった立ち方をしていると、体が楽なのだ。
 利菜とヒッピはこれまでにない精神の落ち着きを感じた。マーサは頃合いをみて、次の段階に進んだ。
「向かい合って立つんだよ。まずは、攻撃と防御の訓練を同時にやる。攻撃側は意識を集中して相手の精神に入りこむんだ。課題は相手の記憶をのぞいて弱みをみつけること。防御側は……」
「私、そんなことしたくない」
「お黙り。本気で攻撃しなきゃ、練習になんかならないよ。あたしもおまえたちを攻撃するからね。おまえらの思い出したくない記憶まで残らず引っぱり出してやる。それがいやなら早く防御を覚えるんだ」
「どうやったら防げるんです?」
「うむ」とマーサはうなずいた。「利菜の意識を遮断しようとしたと言ったね。大鏡のせいでおまえたちの精神はくっついちまってる。相手の記憶や感情、感覚が、ほうっとくと勝手に入ってきちまうんだろう? つまり攻撃に関しては簡単なんだよ」マーサの指が利菜とヒッピを行ったり来たりした。「お互いに関してはね」
「マーサおばあさんのことは、攻撃していいんですか?」
「不可能じゃないが、利菜に対して仕掛けるよりはずっと難しいはずだ。利菜よ、おまえはヒッピの精神を探ったとき、どんな感じがした?」
 利菜は二日前のことを一生懸命思い出した。けれど、感覚を思い出すのは難しかった。
「手っていうか、触手みたいなのが、ぐーっとヒッピに向かって伸びてくみたいな感じだった。その気になったら、佳代子のことも、どこにいるかわかったりしたもん」
 今はわからないけれど。
 マーサはうなずいた。利菜は自分の体験を正確に覚えている。これはいい傾向で、マーサは精神の高揚を覚えた。才能うんぬんではない。二人は上級の魔法使いしか知らないような感覚を、実体験しているのである。
「そうだね、触手というのはいい表現だ」
 マーサが珍しくほめたので、二人は居心地が悪くなった。
「意識や精神なんてものは目に見えないだろう? あたしが教えるのは見えないものを扱う術なんだ。見えないものを確かなものにするってのは、本当に大変なことだ。感覚なんてものは、人によって違う上にじきにあいまいになって消えちまう……覚えておけないんだね。当たり前だが。だから、そうした感覚を大事にすること。言葉にして、あたしに説明させるから、自分の内面に注意を向けること。感覚を精妙に研ぎ澄ますのも課題の一つだよ。攻撃の感覚も、防御の感覚も、おまえたちはすでに知っている。これは本当にめぐまれたことだよ。教えたって、何も感じないままの奴が大半なんだからね。だから、その感覚を忘れずに深く体に刻むんだ。いつでもどこでもできるぐらいに再現性をもたすこと。これが目標だ」
 二人は顔を見合わせた。感覚をおぼえるなんて、今までやった試しがない。
「まあ、そう難しい顔をするんじゃないよ。感覚を忘れないためには、同じ体験をくりかえすことだね。ようするに反復練習をすればいいのさ。その点もおまえたちは恵まれてるよ。四六時中、気を張ってなけりゃ、じきに心がくっつきあっちまうんだからね。今も互いに精神を遮断している状態だと思う」
 言われてみるとそうだった。マーサはその遮断する感覚はどんな具合か、根掘り葉掘りきいた。利菜は壁をつくる感じがした。背筋をのばす、というのも有効な方法だった。ヒッピは利菜のやり方を真似たのだと言った。マーサは、精神をコントロールするのに、体から入るのはいい方法だと述べた。
「感覚はあいまいだと言ったね。だから、それを明確にするには、いろんな工夫がいる。感覚にわかりやすい名前をつけるのも、よい方法だね。イメージを描くのも有効な方法だ。ただ、やり方を複雑にしちまうのは考えものだよ。大事なのはあくまでも感覚なんだからね。複雑なこともシンプルにして捉えること。複雑なままだとわけが分からないままで終わる。だから、単純に捉えて、深く見抜くこと。単純にというのは、ポイントを見抜けということだ。さあ、はじめようじゃないか」
 簡単な説明が終わると、すぐに実践がはじまった。相手の精神を攻撃し、それを防御する。これを繰り返すのである。ときにマーサが相手となった。利菜たちは脳みそをまさぐられる気味の悪さにのた打ち回った。マーサに思い出したくない記憶までまさぐられるのだ。
 利菜にはマーサこそわるいものじゃないかと思えたが、彼女はころあいを見て子どもたちに休憩をとらせた。二人は薬湯と粉薬をのみ、マーサが調整と呼ぶ指圧を受けた。教えるのは初めてだとマーサは言ったが、彼女はおおむねはいい教師といえた。ただ、妥協というものを知らない分、その教育はとことん厳しかった。なにせ、回復させないと死にかねないほどの修行なのだから、利菜たちの辛さは言語を絶した。
 それでも、全体意識と戦って死なないためには、修行を受けるしかなかった。マーサは、利菜たちが初歩の精神制御になれたところを見てとると、常日頃戦闘ごっこ、というものをやり始めた。これはいついかなるときも、相手が気を抜いたときに、襲っていいというものだった。もちろん、マーサをやっつけてもいいし、マーサの方から攻撃をしかけたりもした。
 修行は常住坐臥となった。
 マーサは食事にも気を使い、料理は薬草をふんだんに使ったものを食べさせた。マーサはそのために、ヒッピに薬を集めさせていたようだった。
 利菜はなれないかまどでの煮炊きをヒッピに教わった。彼はタットンと二人暮しをしているせいか、なんでもできる少年だった。洗濯も板一枚ですませてしまう。
 利菜は佳代子たちが心配で始終やきもきしていたから、マーサにきついやいとを据えられた。魔法で大事なのは、集中力、とマーサは言った。上達するには、集中力、集中、集中、集中、集中しろ、このくそったれ。
 そうして一日が過ぎ、利菜にとって、この世界での、七日目の夕刻が近づいた。

◆ 第十一章 襲撃


□    十三

 同日――
 ムスターサたちは、ついに王宮魔術師の住居を探し当てた。住居と思わしき明かりが見えた。自分を見失い、何者かに操られている状況とはいえ、厳しい訓練がものをいって、彼らは兵士としての行動を忘れていない。
 目標を視野におさめると、兵士たちは散開し、銃に弾薬をこめ始めた。各々が必殺の位置に身を鎮め、息を潜めてその瞬間を待ち受ける。後は、将軍の号令を待つだけとなった。
 ムスターサは舌なめずりをした。たとえ魔女だろうと、銃弾に狙われては、ひとたまりもないにちがいない。

□    十四

 利菜はスープの入った皿とスプーンを机に置いた。花火のような音がして、家の壁がかんかんと鳴り始めた。マーサとヒッピは、すばやくテーブルの下に身を隠したが、銃声に慣れていない利菜は呆然とつったっている。連続音が激しくなり幹の砕ける音がする。ヒッピは慌ててテーブルを飛び出し、彼女を床に引きずり倒した。
 ムスターサの軍勢はわずかだったが、窓と扉めがけて集中砲火を浴びせたから、たちまち門扉は砕けて銃弾が飛び込んできた。笛のような音が四方から響き、弾丸が火を噴いて頭上を飛び交った。
「撃たれてるの?」と利菜はうつぶせになる。
「当たり前だろう。頭を引っ込めな」
 マーサが上にのしかかり、頭を押さえる。
 ヒッピはテーブルを倒そうと、軸足に取りつき、顔を真っ赤にして押し上げはじめた。厚みが一メートルもある堅固な造りだった。利菜にはとても倒せるとは思わなかったが、
「何してる! 早く押し倒せ! 殺されるぞ!」
 利菜とマーサは、ヒッピに協力して、机を押した。その間も、ムスターサたちの攻撃はますます制度をまして、三人の側の空間をかすめ始めた。空気の焦げる匂いが届き、皮膚に火膨れが起き出すと、さしもの三人も火事場力を起こして、巨大な机を押し倒した。床板が砕けるほどの衝撃がしたが、どうにか弾丸は防げるようになった。
 利菜には信じられなかった。ヒッピたちは馬鹿げた神官服を着て、儀式だなんていっていた。この世界を、自分たちの文明より遅れた世界だと、勝手に思い込んでいた。ナバホ族や森の妖怪(としか思えない)だけでもいっぱいいっぱいなのに、拳銃なんて持ち出されたらたまらない。
 ヒッピが机の角から顔を覗かせると、森中で火花が上がっている。木立の合間に軍服を着た男たちが見えた。
「マーサおばあさん、兵隊だ! 正面の林に大勢いますよ!」
 マーサがテーブルのかげで吐息をついた。「いずれは、こんなことになるんじゃないかと思ったがね」
「兵隊ってサイポッツの? 味方じゃないの?」
「とも言い切れない。あたしは城から追われたような形になってるからね」
「あいつら、きっとムーア教団だよ」とヒッピが言った。「旗印が兵隊のじゃない。赤地にワシが描いてある!」
「いよいよ厄介になったね」
「いやだよ……」と利菜は言った。表から向けられるどす黒い殺意が目に見えるようだった。外にいるのは人間なんかじゃない。まちがいなくわるいものだった。おさそいを受けて、わるいものに支配された人々、父さんや坪井に似た人々。その殺意は物理的な銃弾となって、マーサの家に飛び込んでくる。銃弾こそ当たらないが、その殺意は彼女の身体を貫いた。
「こんなどこかもわからないような場所で、死にたくない。逃げられないの?」
「走って逃げるのかい? 拳銃で撃たれたらたまらんよ」
「魔法でなんとかしてよ!」
「まだそんな馬鹿げたことをいってるのかい」マーサはきつくいった。「修行をしてわかったろう。あたしが使うのは、精神の力にすぎないんだ。集中力と根性で弾が防げるなんて、金輪際考えるんじゃないよ。命を落とすもとだからね」
「まだ死にたくないよ! こんなところで死ねない!」
「あたしだっておんなじさね」
「サイポッツの兵隊なら味方じゃんか!」
「ムーア教団は恐ろしいやつらなんだ」ヒッピが言った。「ぼくの友だちを殺したのは、あいつらだ」
 利菜はごくりと唾を飲んだ。その名前と記憶は知っている。「ジブレのこと?」
「そうだ」とヒッピがうなずいた。「世の中が悪くなってるのだってムーア教団のせいだ。ぼくらが幻覚を見るのだって……」
「講義中悪いがね。手を貸してくれないかい?」
 マーサが床に散らばった荷物をどかしている。よく見ると、床に真四角の扉があったのだ。
 これで表に出られると思った瞬間に利菜は吐いてしまった。殺意が三人の肉体を毒している。テーブルは分厚かったが、銃弾が当たるたびにその肉が削られていく。木片が上から舞い落ちてきた。壺が砕かれ、本は引き裂かれた。壁板が砕けて、粉塵が舞った。薬草が飛び散り、樽の水が床に流れる。フライパンに銃弾があたって跳ね返るのが見えた。
 ヒッピが鉄の取っ手をもち扉を持ち上げた。抜け道かと思ったが、底がふさがれている。
「元は師匠がつくった抜け穴なんだよ」とマーサがつぶやいた。
「なんでふさいだのよ!」
「下から、物音がしたり、誰かが入ってこようとしたりしたら、いやでもふさぐだろう」
 利菜はうなずいた。忘れていたが、マーサもおさそいを受けていたのだ。ヒッピがマーサに囁いた。
「中に入って来られたらみんな殺されてしまう。でも、外に出たって逃げられっこないですよ」
「あたしに考えがある」
「マーサ!」
 と大声が響き渡り、三人は作業の手を止めた。
「ムスターサの声だ。ありゃあ、将軍の一人だよ」
「知り合いなの?」
「知り合いだが、大嫌いだ」とマーサは歯をむいた。「あたしを撃ち殺そうとしてるんだからね」
 ムスターサは、これまでの使者を相手にもしなかったマーサの非礼を攻め、すぐに出てくるようにいっている。マーサは、なにを言いくさるあのじじい、と肚を立てた。その間も銃撃はやめないのだ。
「あんなのまともに相手してらんないよ。出て行ったら即撃ち殺すつもりさね」
「嫌われてるんだ」
「うれしそうにいうんじゃないよ。はたき殺すよ」
 ヒッピが穴に入って床板をはがしだした。マーサは利菜の肩を抱いた。
「あたしたちで表の連中をどうにかするんだ。後ろから狙い撃たれるのはごめんだからね」
「どうするんです」
「おまえは穴をひろげなあ」とマーサはヒッピに怒鳴ってから、「できるだけ心をしずめるんだ。さあ、手を出しな」
 マーサはあぐらをかいて、利菜の両手を握った。これから、本物の実践だ、とマーサの声が心に聞こえたから利菜はびっくりした。マーサは目を閉じて、口も動かしていない。ヒッピにも聞こえたらしく、彼がふと手を止めて見上げるのがわかった。
「おまえたち、魔法が見たいようだから、見せてやろうじゃないか……」
 利菜はナバホ族を思い出し、「わるいものを呼びだすの?」と言った。彼女は口元の吐瀉物を吹きながら青ざめた。これ以上の悪意を身に浴びたら、気が狂うにちがいないと思ったのだ。マーサは首をふって否定した。
「あいつらには効果がないよ」
 利菜はしばしの逡巡のあとうなずいた。兵隊たちはすでに集合無意識に支配されている。彼らは悪い者そのものだった。
「どいつも、わるいものとがっちりつながっちまってるね。自分の本性も見失ってる」
「全体意識って、みんなの意志でしょ」と利菜。「みんな死ねって思ってるってことだ」
「そうじゃない。あたしはね、いいかい、おききよ。魂の根っこには善があると信じてる。悪事はかならず露見しさばかれるものなんだ。ムスターサだって、昔は人格者だったんだ。長い戦争で正気もふっとんだんだろう……」
 利菜は自分が支配されないか自信がなかった。自分のことを善人とも思えない。
「教えたとおりの呼吸をくりかえすんだ。自分をしっかり保つんだ。……できるかどうかわからんが、非人間におちいったんなら、真人間に戻してやろうじゃないか」
「わ、わかったよ」
 マーサは意識を集中しているようだった。銃声が遠のいて体の感覚が消えていく。体がじっとりと重くなり、やがて、呼吸すらも感じなくなる。二人の精神は体から遠ざかり、意識の深い次元に入りこんだ。修行を積んだ今では、一瞬でこの状態に入れるようになっていた。
 利菜はマーサに引きずられ、ぐいぐいと精神の深い次元にふみこんでいった。修行を通しマーサの力は目の当たりにしていたが、これほどのものとは思わなかった。マーサは精神を自在に操っていたし、意識の届く範囲も広かった。
 顕在意識が薄まり、潜在無意識との同化が始まる。マーサにひきずられるようにして、深い層まで落ちていく。それは目を覚ましたまま眠っているかのようでもあった。
 マーサは意識の手を伸ばし、兵士らの精神を捕まえたが、あまりの無抵抗に拍子抜けした。兵士たちの心はからっぽで、自意識も何もなかったのである。催眠状態に近かった。一人一人の魂が、強い殺意と害意にみたされている。全体意識の悪い層に、どっぷりとつかっているようだ。利菜とマーサは自分を保つのもむずかしかった。兵士とつながったとたん、彼らの感情や記憶がどっと流れ込んできたからだ。その悪行の数々には身震いを禁じえない。流れ込む数々の凄惨な死体には、吐き気をもよおさずにはいられない。目玉が飛び出し、切り刻まれた死体。湿気てふくらみ、腐りきったもの。それらを見ただけで、自分の中の大事な部分が死んでしまったように感じられた。マーサのいったとおり、魂の根っこが善ならば、その根っこは確実に傷つけられたと感じたのだ。利菜は自分たちの世界の犯罪が、どのようにして起こったのか理解できたような気がした。マーサがいなければ、利菜だってとっくにわるいものに飲みこまれていただろう。
 長年修行を積んだだけあって、わるいものに触れても気を狂わせることがなかったのだ。マーサが働きかけたもの、それは兵士たち一人一人の記憶だった。そこには見苦しい憎しみもあった。けれどそればかりではない。親や兄弟の愛情、友人や恋人との確かなつながりがあった。けれど、マーサがしたことはよい結果をもたらさなかった。自らの理性に触れた人々は、その罪の深さに負けて自らの命を絶ち始めたからだ。
 マーサの誤算はまだあった。彼女はムスターサたちを裏で操る者の存在を知らなかったからだ。そいつは、兵士らに働きかけた者の存在にいち早く感づいた。

□    十五

 兵士たちの奥底から何かがやってくる。どす黒くて巨大な存在だ。マーサですらぎょっとなった。そいつはこっちを目指して一直線に突き進んでくる。エビエラにすら感じたことのない巨大な力だった。マーサの伸ばした意識をたちまち見つけ出した。……マーサはそいつをなぜか知っていると感じた。
 マーサはやっきになって目を覚まそうとする。彼女の意識は引き潮のように体へと戻っていくが、そいつはしつこく追いすがってくる。利菜が悲鳴をあげ、マーサから手を離した。マーサは自由になった両手をかかげ精神を遮断した。強く息を吐き出すと意識の壁をはりめぐらし、あわや一歩のところでそいつの侵入をくいとめたのだ。
 マーサは肩を落として吐息をついた。足元をみると、利菜が床に転げて青ざめている。
「今のはなんなの? あいつは……」
 マーサは答えられなかった。ここから逃げ出すのが先決だ。さっきのやつがどこにいるのかしらないが、とても太刀打ちできる相手ではないことを悟ったのだ。
 銃声はぴたりとやんでいた。マーサは、ヒッピの肩を叩き、
「おまえから行け。穴さえ潜れば、外に出られる」
 ヒッピが抜け穴から姿を消した。利菜が続いた。ヒッピの作った穴は彼女でもギリギリ通れるかどうかだ。
 利菜は慎重に体を通していった。こんなときだというのに、自分の服を持っていけないことを悔やんだ。今では向こうの世界と自分をつなぐ唯一のものだった。
「わたしの服」
「あきらめろ、今は命あっての物種だろう」
 利菜はくちびるを噛むと、穴をくぐった。

□    十六

 利菜が穴を抜けると、そこは木の洞だった。古くさいカビと湿った気の臭いがした。木の根に足をかけながら飛び降りる。たまった腐葉土のせいで、スニーカーがグズグズと沈んだ。そこは玄関とは逆の方角で、夕刻のくすんだ森が見える。
「この方角には、兵隊がいないみたいだ」とヒッピが言った。
 利菜はヒッピの側に寄って、「さっきの感じた?」
 ヒッピがうなずいた。
「すごい奴だったよね」
「あいつの正体をつきとめないと。あいつが兵隊たちをあやつってるんだ」
「そんなの無理だよ」なにせマーサが這々の体で逃げ出すほどの相手なのである。
「でも、世界をねじまげてるのだって、あいつかもしれない」
「そんな力を持った奴はいやしないよ」
 マーサの声が上から落ちてきた。ヒッピが手を貸した。利菜は寒そうに腕をさすっていたが、急に洞穴内が暗くなりふりむいた。洞穴の入り口を巨大な影が塞いでいる。利菜はそいつの吐き出す死の臭いを嗅ぎ悲鳴を上げた。
 真っ赤に光る目が見えた。ムスターサか、とマーサが叫ぶが、そいつはもはやムスターサですらありえない。ナバホ族なみに大きくなっていたし、姿が変わっている。おぼしき原型はあるが、わずかなものだった。口端がありえないほどに裂け、長い舌がずるりとのぞく。瘴気でふくれ上がった体を、穴に押しこむ。利菜とヒッピは悲鳴を上げて、マーサにしがみついた。
「みつけたぞ! エビエラ!」
 ムスターサは叫び、手にした銃床を真横にふるった。三人は腐葉土に倒れこんだ。ムスターサの銃は、空を切って洞の壁を突き崩す。そのはずみで引き金が落ち、鼓膜が破れるような轟音が響き渡った。
 利菜がそっと目を開けると、ムスターサはマーサに向かってかがみこんでいる。
「聖櫃はどこだ」
「知らないね」
 マーサはムスターサの中にさきほどの男を見た。ムスターサは後ろ腰に手を回し、巨大なナイフを引き抜いた。利菜がひっと息を飲んだ。ナバホ族が持っていた物だ。ヒッピが拳を上げて飛びかかるが、ムスターサは肘打ちでヒッピを突き飛ばす。ヒッピは地面に突っ込んで、腐葉土の層に埋もれてしまった。
 利菜はヒッピと精神をつなげて呼びかけるが、彼は答えない。自分の胸がかすかに痛むのを感じる。ムスターサはマーサの喉首にびたりとナイフをつきつけた。マーサの老いた肌を汗が流れる。
「きさまは知っているはずだ。知らぬとは言わせんぞ」
「あたしはエビエラじゃあない。おまえこそ誰なんだい」
 利菜は震えながら立ち上がった。ムスターサの首がぐるりと回り、彼女を睨め付ける。ムスターサの首はすでに折れているようで、背中と胸が逆になった。
「大鏡の娘だな」
 利菜は何か言おうとした。逃げたらこいつは(つまりムスターサの内側にいるやつは)どこまでも追ってきて、いずれは心を打ち砕くのがわかっていたのだ。でも足が出ない、腕が上がらない。声も出せず息もできず、涙と鼻水がこぼれて、利菜はとうとう尻餅をついた。
 ムスターサの胴体が回って、彼女と正対する。頭蓋を砕こうとナイフを振りかぶる。マーサが何か叫んでいる。利菜は両手で頭をかばい縮こまった。
 ここで死ぬんだ、これで最後だ!
 利菜はついに観念した。だが、なんの衝撃も伝わらない。
 そっと目を開いた。腕をどけると、ムスターサはナイフを振り上げたまま、動きを止めていた。利菜は体側に腕を落として震え上がった。
 ムスターサの腹部からは血塗られた剣が飛び出している。剣が押し下げられると、内蔵が飛び出し、服の中に溜まりだす。ムスターサはゆっくりと首をめぐらし、自分を串刺しにした男の正体を確かめた。彼は首をねじまげたまま、
「蛮族め……」
 苦しげに憎しみに満ちた声音を発した。剣が引き抜かれる。ムスターサはゆっくりと膝をついた。将軍を串刺しにした男が、利菜にも見えた。
「トゥルーシャドウ!」

◆ 第十二章  新しい仲間


□    十七

 トゥルーシャドウは、たった一人で軍隊の後を追いかけてきた。ぼろ布のようにはいずりながら、文字通り草露をすすって生き延びた。大きな傷だけでも五箇所ある。とくにざっくりと斬られた腰のために、歩行も困難になっていた。
 彼は薬草で傷を癒した。幾度となく死の淵をさまよった。ときに野鼠を食べた。死んだナバホや森の民が、暗闇の中をさまよい、歴史は狂い、世界は変転を繰り返した。トゥルーシャドウは、これは世界の終わりなのだとさとるようになる。
 二日たつと、傷口が癒え始めた。トゥルーシャドウは体力を回復させながら、兵士らの追跡を続けた。トゥルーシャドウはその気になれば、完全に森にとけこむことができた。トゥルーシャドウは注意深く、兵隊たちの様子を観察した。 
 サイポッツは、完全に気が触れている。殺人の熱狂にはまりこみ、自分たちでもどうすることもできない様子だった。彼らは自らの危険もかえりみず、ひたすら相手を殺害しようとする。自分が死ぬことに、何の疑問も感じていないようだった。知性や理性というものが感じられない。トゥルーシャドウは悪寒とともに、あれはもはやサイポッツですらないと悟ったのだった。ノーマたちは戦争を止めるといっていたが、いろんな意味で不可能だとトゥルーシャドウは思った。気の触れた人間の説得など、できはしないからである。
 トゥルーシャドウは若長として、仲間のもとに戻るべきだと考えた。だが、サイポッツの側を離れる気にはなれなかった。彼自身もまた、兵士たちの内側に根を張るものに、魅了されていたからである。
 トゥルーシャドウが我に返ったのは、森にとどろく銃声によってである。軍隊はマーサの家に攻撃を加えている。彼はそのとき、長老たちから寝物語に聞かされたマーサの伝説を思い出したのだった。
 トゥルーシャドウは剣を引き抜いた。音もなく駆け寄り、兵士たちを次々と殺傷し始めたが、彼らの多くが、見えない何かに苦しみはじめた。トゥルーシャドウには絶好の機会だった。一人しかいないトゥルーシャドウが軍隊を倒す機会は、今しかない。慈悲の心は微塵もわかない。憎悪の熱が、マグマのように全身を焦がしていた。多くの同胞を死に追いやった連中である。だが、神に慈悲をこい、自ら命を絶つ者があらわれると、トゥルーシャドウの手はとまった。
「ばかな……」
 トゥルーシャドウは東の方角から、何かが来るのを感じた。彼はとっさに身を伏せた。その気配は一瞬で消え去ったのだが、隊長と目をつけた男が、膝を折り苦しんでいる。目は真っ赤になり、唾を垂らしている。口角からは、どす黒い瘴気が立ち上った。その瘴気が、体のあちこちからあふれはじめた。男の体は、徐々に肥大し始めた。
「こんな、ばかな……」 
 トゥルーシャドウは目を疑った。兵士たちの多くは、全身から血を噴いて死に始めた。利菜が疲労の極地となり死を感じたように、彼らの肉体はもう限界だったのだ。
 彼らにとって、死ほど幸せなことはなかった。死ねないのはたった一人だった。男の足元では草が枯れ土は腐った。男は変化に苦しみながらも、家の裏手へと回っていく。
 トゥルーシャドウは後を追った。
 彼をとがめる兵隊は、誰もいなかった。

□    十八

 ムスターサの血が足元に流れてきた。利菜は足を踏み変え、血の川をかわした。顔を上げると森の奥で別れたトゥルーシャドウが、そこにいた。
 ヒッピが意識を取り戻して立ち上がろうとしている。利菜とヒッピは恐怖に震えた。トゥルーシャドウはここまで追いかけてきた。二人を恐れさせたのは、罪悪感でもある。逃げるためとはいえ、ナバホ族をひどい目に合わせたのだ。四日ぶりの再会だが、トゥルーシャドウの瞳はムスターサのように赤くはなく、異常をきたしてはいないようだった。それでも蛮族の目の奥底に、確かな憎しみを見た気がした。ムスターサの死骸を乗り越え入ってきた。
「トゥルーシャドウよ、すまないがね、そいつをどかしてくれないかね」
 マーサはトゥルーシャドウを知っているようだった。マーサはヒッピの胸に手をあて、傷の具合を確かめる。
「ひどい打撲だが、折れてはいないね」
 トゥルーシャドウはムスターサの身体に腕をさしいれて、外に引きずり出した。瘴気がまだブスブスとにじみでて、どす黒い血が生き物のようにトゥルーシャドウの手にまとわりついた。世界の変転がこの男に及んで、肉体すら変化させたかのようだった。
 三人は洞の外に出た。ヒッピはトゥルーシャドウを見上げていった。
「他のみんなは?」
 トゥルーシャドウは首を振った。「ここにいるのはおれだけだ」
「おまえはこいつらに襲われたんだね」
 マーサがいうと、トゥルーシャドウはうなずいた。
「みな不意をつかれてなぶり殺しに合った。おれは仲間の仇をとるために、こいつらの後を追ってきたのだ」
「一人でどうなるもんでもないだろう。村に戻ることだね」
 それが賢明だよ、とマーサは言った。トゥルーシャドウの見返す目は静然としている。
 マーサはムスターサの遺骸を見下ろし、
「こいつはなぜか師匠のことを知っていた。それどころか、あたしを師匠だと思ったようだ。こいつとは以前からの知り合いだったのにも関わらず、エビエラとあたしを呼んだからね」
 さっきしゃべったのは、ムスターサではないのかもしれないとマーサはつぶやく。トゥルーシャドウは利菜とヒッピをみた。ノーマたちの姿がない。
「あの三人はどうしたのです?」」
「一足先に国に戻ったよ」とマーサ。「戦争を止めるとか、馬鹿なことをいってね」
「おれにもいっていた」
「子どもの戯れ言にすぎんさ」とマーサは嘆息する。「トゥルーシャドウよ、すまなかったね」
「あなたのせいでは……」
「だが、同じサイポッツのしたことだよ。ナバホ族のすべての死んだ英霊にたいし、謝罪をさせていただきたい。それと、今苦しんでいる森の者たちにもね」とマーサは頭を下げた。「イニシエの民よ(サイポッツは本来、森の種族をこう呼び、畏敬していた)、もうしわけなかった」
 利菜とヒッピは視線をかわした。普段傍若無人なだけに、今の言葉には誠実みがあった。トゥルーシャドウは謝罪を受け入れるようにうなずいた。
「外の兵隊は心配ないでしょう。突然苦しみだしたので、驚きましたが。みな自ら命を絶ったようです……」
「ともあれ、ここを離れよう。危険が去ったとは言えないからね」

□    十九

 しばらく歩くと、トゥルーシャドウが言った。
「もうここで十分でしょう。詳しく話していただこう」
 マーサは倒木に腰をかけ、三人が囲んだ。
 マーサは話をした。二つの世界で共通して起こった変転。ムスターサの影にいたあの男。ヒッピたちは、トゥルーシャドウがまた怒り出すのではないかと思ったが、この若長は驚くほど素直に話を聞いている。数日前なら信じることはなかったろうが、今のトゥルーシャドウには納得のいく話だった。
 トゥルーシャドウも語った。イニシエの森が記憶にあったものとは変化していること。土地だけでない、動植物でも見たことのないものが増えている。ナバホの集落は移動をしないが、ミオの集落に向かったとき、これまでなら二日でいけたものが五日たっても到着せず、あげくに道に迷うという体たらくを演じたのだ。
「我々はサイポッツのように地図をつくりはしないのです。頭の中で記憶しているだけなので、混乱もある。ただこれほど明確な変化となると、地形が変わったとしか思えない」
 マーサはうなずいた。森のさまざまな種族から仕入れた話とも合致していたからだ。
 トゥルーシャドウはマーサを見おろし、「少しよろしいですか?」 
 いったきり、トゥルーシャドウは彼女を黙って見つめるばかりとなった。
「いいだろう。少し歩こうかね」

□    二十

 しばらく歩くと、トゥルーシャドウが言った。
「もうここで十分でしょう。詳しく話していただこう」
 マーサは倒木に腰をかけ、三人が囲んだ。
 マーサは話をした。二つの世界で共通して起こった変転。ムスターサの影にいたあの男。ヒッピたちは、トゥルーシャドウがまた怒り出すのではないかと思ったが、この若長は驚くほど素直に話を聞いている。数日前なら信じることはなかったろうが、今のトゥルーシャドウには納得のいく話だった。
 トゥルーシャドウも語った。イニシエの森が記憶にあったものとは変化していること。土地だけでない、動植物でも見たことのないものが増えている。ナバホの集落は移動をしないが、ミオの集落に向かったとき、これまでなら二日でいけたものが五日たっても到着せず、あげくに道に迷うという体たらくを演じたのだ。
「我々はサイポッツのように地図をつくりはしないのです。頭の中で記憶しているだけなので、混乱もある。ただこれほど明確な変化となると、地形が変わったとしか思えない」
 マーサはうなずいた。森のさまざまな種族から仕入れた話とも合致していたからだ。
 トゥルーシャドウはマーサを見おろし、「少しよろしいですか?」 
「何だい」
 トゥルーシャドウは少し間を置いた。考えこんでいる風でも、躊躇している風でもあった。やがて顔を上げたときには、いやにスッキリした顔をして話し出した。
「私はスーの長老たちから、森の種族に伝わる言い伝えを、幾度となく聞かされてきました。今、その約束を果たす時が来たと自分は思っています」
「なんのことだね?」とマーサはいぶかった。
「三百年前、死ぬ間際のエビエラが遺言を残したのです。もし世界に異変があるならば、マーサを助けてやってくれと。我々はその遺言に従うときがきたのです」
「それはおかしい。それは三百年も前に生きてた人だ」
 とヒッピが口を挟んだ。けれども、ムスターサ自身がマーサをエビエラと呼んだのである。トゥルーシャドウは改めてマーサと正対した。
「あなたはサイポッツではないのではないのですか? サイポッツならば三百年もの間生きながらえるはずがない。エビエラから言付けを聞いたというナバホの長老たちも皆死んでいるのです。あの伝承だけはエビエラの残した謎として、受け継がれてきました」
「それは……」
 トゥルーシャドウは少し声を高くした。「あなたが魔女だから死なないとおっしゃるならば、同じ魔女であったエビエラも生きながらえているはずだ。再び世界の終わりが来るならば、マーサを助けてやってくれ。エビエラはそういった。今こそその世界の終わりなのではないですか?」
「師匠がそういったというのかい?」
 マーサが目を光らせる。トゥルーシャドウはうなずいて、「古い種族はこれまで結束してきた。エビエラからの言い伝えを守ってきたからだ。あなたが立ち上がるというならば、イニシエの民は今こそあなたのために結束するでしょう」
「馬鹿な。あたしには何の話だかわからないんだよ」
「あなたは知っているはずだ」
「わからんものはわからん」マーサは悲鳴を上げたい気分だった。「ムスターサがいった聖櫃のことだって、何のことだかわからないんだよ」
 けれど、聖櫃を欲しがっていたのも、マーサをエビエラと呼んだのも、本当のところはムスターサではないのである。
「あんなすごいやつが欲しがるもんってなんなの?」と利菜。
「そいつがムーア教団を操っていると思いますか?」ヒッピが訊いた。「信徒たちのいうあの方≠セと」
「その可能性は高いと思うが」
「ビスコたちのいっていたトレイスとは関係があるんでしょうか」
「そんなことは知らないね。王宮にいたのはおまえのほうだろう」
 マーサがいうと、ヒッピは肩を落とした。
 タットンが亡くなってからは、王宮には研究所は捜索をうけ、タットンの残した研究品も採集品もむちゃくちゃになってしまった。ヒッピは部屋の中央に行くと、終日物も食わずに考え込んでいた。ヒッピはその日の内に研究所を後にした。以来、街に宿を借りて、タットンのわずかな財産で食いつないでいる。
「タットンはかせが死んでからは何もかもが変わったんです。はかせは王宮に貢献したのに、トレイスのせいで何もかも変わった」
 ヒッピは怒りに燃える目で二人をみた。ペックだけは彼らの居場所を知っており、イニシエの森に行くために会いに来たのだ。ヒッピが三人に協力したのは、個人的な事情もあった。タットンをこんなふうに冷遇する王室のやり方がゆるせなかったのだ。
「おまえまでそんなはめにあってるとはね」
「ビスコのいってたとおりですよ」ヒッピが言った。「はかせは、蛮族とのつながりを疑われたんだ」
 ヒッピはトゥルーシャドウとマーサの二人を睨んだ。タットンの件は疑いに過ぎない。けれど、トゥルーシャドウはどんな形にせよ、マーサに荷担するといっている。
「そのことで、まっさきに白眼視されるのは、あたしとあいつだからね」とマーサは言った。「おまえたちが、ハフスに救いを求めようとしたのは間違いじゃない。秘密を握るのは、あたしよりも、おそらくハフスだ……」
 マーサは考え込んだ。利菜とヒッピは、彼女の言葉を待ち受ける。
「なぜなら、ハフスもあたしと同じだからだよ。ハフスと、スミスという男。あたしたち三人は、ざっと三百年ばかりを生きてきたんだ」
 ヒッピは表情を凍り付かせた。これまでマーサの長命はうわさ話に過ぎなかった。これで本人が認めた事になる。
「でも、普通はそんなに生きられない」
「私の世界でも、そんなに生きてる人いない」と利菜。
「あたしやハフスの寿命がなぜ尽きないのかはわからん」
 とマーサは答えた。子どもたちの不信をよそに落ち着いた口調だ。
「師匠のいっているのは建国戦争の話だろう。だが、世界の終わりとは……」
「そんなばかな」とヒッピが口を挟んだ。「トゥルーシャドウはあなたのことをサイポッツじゃないと言った。そうだとしたら、ハフス大王だってサイポッツではないことになる」
 ヒッピの疑問に答える者はなかった。
「イニシエの人たちは、エビエラやあなたに協力してたんですか? だから、王室は蛮族に攻撃を始めたんですか?」
 最後の疑問はトゥルーシャドウにも向けられていた。
「三百年前の建国戦争でなにが……」
 マーサは沈黙した。この問いには、森の蛮族も興味をそそられたようだった。
「わからない。あたしには記憶がないんだよ」
 トゥルーシャドウが顔をしかめた。「覚えていないと? それは確かなのですか?」
 マーサは黙っている。
「あなたは記憶がないと言いましたね」とヒッピ。声音は低いが、ほとんど脅しのような口調だ。「事実ではないとは言わなかった」
 ヒッピはそこで黙り、マーサに発言の機会を与えた。けれど、彼女は何も言わなかった。
「では、あなたが三百年間生きていて、そのとき起こった困難の記憶もないと仮定して話しましょう。あなたには記憶がないだけで、世界の終わるようなことが確かにあったとするならば、ムスターサのいった聖櫃だって、存在していておかしくはない。となると、将軍の背後にいたのは、三百年前の事件の関係者と考えていいことになる」
「おまえは信じるつもりなのかい?」
 ヒッピは目線を落とし沈思黙考した。「信じます。利菜の世界で起こったこと、この世界で起こっていることは共通している。ぼくにはエビエラのいう世界の終わりと思えてなりません」
 利菜は顔をそむけた。空恐ろしくなったのだ。
「でも、再びってどういうこと?」と彼女は訊いた。「そんな昔に、今と同じことが起こったってこと? 世界の終わりって、なにがおきるんだろ?」
「答えはたぶん王都にある。あなたのいうとおりなら、ハフス大王も関係者だから。それにたぶんトレイスも」
 マーサはうなずいた。
 沈黙していたトゥルーシャドウが、久方に口を開いた。「棺ではありませんが、願いをかなえる小箱の伝説なら、森のいたるところで伝わっております」
「そんなものは、ただの伝説にすぎんよ」
「私とてこれまで伝承を信じたわけではありません。ですが、この現状こそが遺言を裏付けている」とトゥルーシャドウは言った。「あなたが王都に行かれるのならば、私はついていきます」
「馬鹿な、里へ戻るんだ。こんなことに巻き込まれることはない」
「帰ったところでどうなりましょう。あの連中は我々を根絶やしにするつもりです」
 トゥルーシャドウは苦しんだ。一刻も早く集落に戻り、同胞の無事を確認したかった。しかし、ここで別れれば、マーサの命はないかもしれない。三人は兵隊に命を狙われている、サイポッツということで森の種族にも襲われる立場にある。
「帰る場所もなくなっているかもしれません」
 トゥルーシャドウはヒッピに手をさしだした。
「すまなかった。おれは憎しみに我を忘れおまえたちの話をきかなかった。森を抜けるまでおれが保護しよう。死んだ仲間もそれをのぞむはずだ」
 ヒッピはトゥルーシャドウの手をとった。「ぼくらの方こそあなたに謝らなくては」
 トゥルーシャドウは首を振って否定した。利菜を向いて、
「おまえたちのせいではない。敵は他にいる」
 利菜はうなずいた。マーサが言った。
「国に戻れというのに。どいつもこいつもあたしのいうことは聞きやしないんだからね。言っとくがあたしゃ戦争を止める気も自信もないよ。こんな年寄りになって厄介ごとに巻きこまれるとは、思いもしなかったよ」
 マーサがあんまりぶつくさいうので、利菜とヒッピは呆れてしまった。
 トゥルーシャドウが目を細めた。
 利菜にはこの見慣れぬ種族が、笑ったようにも見えたのだった。

□    二十一

 彼らはほとんど眠ることもなく(結局、眠りは悪夢でしかなかったのだから)、サイポッツの国をめざした。途中には戦場の跡もあった。兵士の死体もあり、三人は黙祷をささげた。トゥルーシャドウは顔を背けた。
 イニシエの森の変化は、はっきりと感じられた。おまもりさまに似た林に出ることもあった。虚無としか思えないような暗黒も目にした。これではペックたちが無事に王都に戻れたかどうかも怪しいものだった。東の方角から感じる不穏な空気は、どんどん強くなってくる。利菜にはその都とやらが、神保町やおまもりさまと同じ、邪悪な場所なのではないかと思えた。
 二日後、とうとう森を抜けた。
 一同は固唾を呑んだ。丘の上からは高い城壁に囲まれた街が見渡せる。間近に見ると王都のいやな気配は、ひたひたと一同をとりまくようだった。生きているのに死に片足を突っこんでいるようだ。
「いいかい、あまり力はつかうんじゃないよ。気配をだすとあいつにみつかるからね。なるべく意識を遮断して、気配を出さないようにするんだ」
 マーサはムスターサを操っていた男のことをこの頃、あいつ、といっている。
 城門は閉じたままである。城壁の上では夜間の監視する兵隊の姿が見えた。マーサはときおり力≠つかって、兵隊たちの注意をそらした。
 利菜はほとんど泣きべそをかいて三人のあとについていった。あんな都に乗り込んで、神官の生き残りを捜そうだなんて、気の遠くなるような話だった。
 草原を渡りきると、王都の城壁は広い堀に囲まれているのだとわかった。足をつけると、水はつめたく震えが下から上がってくる。利菜は異世界で水泳をやるとは思わなかったし、服を着たまま泳いだことなんてもちろんない。思い切って飛びこむと、水しぶきと波紋がたち、すぐさま血の気がひいた。彼女はガタガタ震えながら、水をかいた。
 対岸は岩壁になっている。下水につづく鉄格子は頭上一メートルばかりのところにある。下水につづく鉄格子は取り外されたままだ。となると、あの三人は無事にたどりついたということになる。
 トゥルーシャドウが、ついでヒッピが水路にはいあがり、利菜とマーサを助けあげる。利菜のローブは水を吸ってすっかり重くなっていた。服をしぼると細い足がのぞき、ヒッピは目をそらした。
 水路は煉瓦で出来ていたが、ブロックの抜け落ちた箇所があり、ヒッピはそこに腕を突っ込んで油紙に包まれた荷物を取り出した。包みをほどくと、ランプに羊皮紙が出てきた。出発のときに残しておいたものだ。手紙が追加されている。
「パーシバルからの伝言ですよ。あいつが荷物を戻してくれたんだ」
 ヒッピはランプに火を入れて、四つに折られた手紙を開いた。
「みんな無事らしい。でも、ペックたちがつかった排水溝は出口につかえない。ムーア教団も政府もぼくらの後を追っている」
 利菜が訊いた。「逮捕されるの? 森に行ったから?」
「大鏡でハフス大王を呼び出す計画は、神官長のハブラケットがたてたものなんだ。ハブラケットはそれが原因でつかまった。それに、王都から外に出ること事態が禁止だ」
「では、どうする?」とトゥルーシャドウが訊いた。
「パーシバルたちとは、他の出口を決めてある。そこに行きましょう」
 ときおり水が流れてくるから、急いで進む必要があった。水路はかび臭い。陶器でできた通路はじっとりと湿気り、滑り気がある。生活排水の悪臭が、充満していた。
 しばらくのあいだ、水の流れる音と、ランプの油が燃えるじりじりという音だけが聞こえる。
 十メートルばかり進むと、水路の合流地点があり、そこは立つことのできる竪坑となっていた。天井の高さは三メートルばかり。大小二十ばかりの配管があつまっている。
 ヒッピのいったとおり、水路のあちこちから、水がときおり流れこんだ。気温が低い。
 整然と並んだ配管をみつめるうちに利菜はめまいがした。この向こうには絶望しかないような、そんな気がした。
 配水管を前に、じっと立ち尽くしていると、汚泥の臭いにかぎなれたものが混じるのを感じた。それは、死の臭い。世界のねじまげが始まってからこちら、ずっとかぎ続けてきた、死の臭いだった。
 いやな予感に見舞われて、利菜とヒッピは自然に手を握り合う。
 ヒッピは三本並んだ配管の一本に見当をつけると、そこに這いこんでいった。利菜はまだ裾をしぼりながら、後に続いた。


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