「ねじまげ世界の冒険」へようこそ

このページは、ネットで小説を読まれる方用に用意しました。
長編、短編とそろえています。古い作品もあるので、できには目をつぶってやってください。
ねじまげ三部作も、よろしく!

ねじまげ世界の冒険

▼第四部 ねじまげ世界の邂逅


○ 章前 二〇二〇年 ――ねじまげ世界 八月十四日 午前九時十四分――

○  尾上達郎、徴兵される

□    一

 新治は自宅のログハウスで目をさました。床の上に、うつぶせで倒れている。体の節々が痛む。顔をしかめて身をおこした。なんでこんなところで、といぶかったが、謎をといているひまはなかった。義理の姉と甥の裕太が、ログハウスのガラス扉を力いっぱい叩きつづけていたからである。
「姉さん、どうしたんだ?」
 新治はあわてて鍵を開けにいった。ほうっておいたら、ガラスを割りかねない勢いだ。
 義姉の史恵は、倒れるように中にはいると新治の腕をつかんだ。
「達郎に赤紙がきたのよ! 召集令状をもった憲兵がいっぱいきてる! あのひと、殺されちゃうよ!」
「なに?」
 新治の疑問の言葉もそこそこに裕太が大声で泣きはじめる。史恵は裕太を抱いてあやす。
「召集令状? なにをいって……」
「いままでこなかったのが不思議だったのよ。あの人、抵抗したから、憲兵にはさからっちゃいけないのに」
 疑問をといているひまはなかった。新治が表にとびだすと、カーキ色の軍服らしいのをきた男たちが、大勢達郎家の玄関先にあつまっている。胸に去来したのはひとつの言葉だった。世界はねじ曲げられている……。
「新治、なんとかしてやって! あの人を殺させないで!」
「二人とも、ここで待ってろ!」新治は駆けだしながらいった。「鍵をかけてろ! 誰もなかにいれるな!」
 史恵がうなずくのを確認すると、新治は小道をかけだした。達郎の家のまわりには憲兵だけでなく、丘の下にすむ住民も大勢あつまっていた。彼は住民の肩をかきわけると、憲兵のつくる人垣にちかづいた。
「兄貴!」
 達郎は憲兵に脇をとられて、はこびだされるところだった。気絶しているのか、ぐったりとうつむいている。
「なんだ! きさま!」
「まてよ、兄貴をどこにつれてく気だ!」
「兄弟か。これをみろ」
 中年の憲兵が、新治のまえに紙をつきだした。史恵のいった召集令状だった。でかでかとした判子があり、そこには、大日本帝国と捺されている。彼は呆然たる面もちで、紙と玄関にはられた赤紙をみくらべた。
 憲兵たちは十人ばかりいる。腕章をつけた男が、新治の肩をおしのけ、
「これでわかったろう。どけ、きさま!」
「待てよ! なんなんだおまえらは! 兄貴をどこに連れてくんだ!」
「この男は徴兵を拒否した! 徴兵拒否は重罪だ!」
「馬鹿なことをいうな! 徴兵なんていつはじまった!」
「馬鹿者お!」
 腕章の男は、手にした軍棒で新治のこめかみを殴った。
「第三帝国は、音をたててそこまで来ているのだぞ! この多難なおりに、きさまら兄弟は徴兵を拒むつもりか!」
 倒れこんだ新治が周囲をかえりみると、集まっているのは女老人ばかりだった。
「第三帝国だと……」
「日本帝国の男子ならば、生まれたときから国のため、民のために、命をなげだす覚悟ができているはずである! それをきさまら兄弟は、その年になるまでのうのうと過ごしたばかりか、兵役を拒むなど言語道断である!」
 新治はつばを散らしてわめく腕章の男を見つめた。気が狂っているのかと思った。最初のうち、十人の憲兵はみな年老いてみえたのだが、それは髭を生やしていたからで、よく見ると、みな二〇代になるかならぬかの若さなのだった。
「我が大日本は、一国になろうとも、いや、一兵になろうとも、第三帝国にくらいつく所存である! きさまらがそれを拒むというのであれば、帝国人種の人類抹殺計画に与するものとみなすぞ!」
「非国民だ!」
 声がした。
 かえりみると、人垣の女たちが涙ながらに叫んでいるのだった。彼らも兵役に夫や家族をとられたのだ。
 新治はひざ立ちとなり訴えた。
「まってくれ。話をきいてくれ、第三帝国なんて、そんなものの存在は……」
「いいかげんにしろ! きさま!」
 男は新治を足げりにし、おし倒した。腕章は軍棒で新治を殴りはじめた。
「帝国によって滅んだ世界の英霊にわびろ! 帝国と戦い、人類をまもろうとする兵士たちにわびろ! きさまの体に連綿とながれる大日本の英血にわびろ! 先祖にわびろ! 親にわびろ! 未来の子どもたちにあやまるんだ!」
 新治はもはや倒れふし、抵抗もできなかった。男の棒切れがふりおりるたびに、地面の上で頭がはねた。
 血が彼の頭髪をみたし、ついに意識が遠のいてきた。群衆は、非国民、と兄弟を罵倒し、血と暴力に興奮の雄叫びをあげる。
 のこった仕事もやり終えて、いよいよ山にのりこもうとしていた矢さきだった。おれはこんなところで、こいつたちに殺されるんだなあ、と思った。予想どおり、その死の理由とはわけのわからないものだった。だけど、わるいものではなく、気の狂ったふつうの人間に殺されるんなら、それもずいぶんましな死に方かもなあ、と新治は考える。そんなとき、人垣のうしろで、嬉々満全と飛び跳ねるなめ太郎の姿が、目にとまったのだった。

◆ 第五章 ナバホ族


○ 一九九五年 ――おまもりさまにて

□    二

 子どもたちはなにかに追いたてられるような急ぎ足だった。目にうつるのは真っ白な霧だけだ。一刻もはやく林をぬけるよう、つんのめりながら歩く。枝葉にほおを引っかかれ、下草や死体に足をとられた。帰り道をたどれているのか、全くわからない。
 ときおり、寛太のつけた×印にでくわした。夜のような闇が、だんだん明るくなる。霧が晴れてきた。達郎が頬をなでる風に気がついたとき、みんなの目に入り口である蔓網がみえた。利菜がいないことに気づいたのは、やっぱり杉浦佳代子だった。
「利菜は?」
 達郎がふりむく。後ろにくっついていたはずの利菜が、姿を消していた。
「はぐれたのか?」
 寛太は、利菜いないのか? と途方にくれて繰りかえす。
「そんな……」佳代子は呆然と胸に手をあてた。「あたしたちあの子おいてきちゃったの? あの子わすれてきちゃったの?」
 達郎はみんなに急いで手をつながせた。彼らは一人足りない環になった。あの力はのこっている。でも、かすかだ。利菜のことが感じられない。
 みんなは意識の触手をのばし、森のあちこちをさぐったが、利菜の気配はどこにもなかった。
 達郎は呆然と森をかえりみる。「たいへんだ、利菜をとられた……」
 彼らは来た道をあわてて引きかえす。霧は潮が引くみたいに、あっという間になくなった。死体もない。そこはもうおまもりさまではなかった。あの不可思議なジャングルは消えた。ふだんの雑木林にもどっていたのだ。
 利菜を探してうろつきまわる間も、あせりはひどくなる一方だった。彼らはかなりの距離を引きかえした。大声で利菜を呼んだが、声はうつろに響くばかりで、返事はない。達郎たちはこの雑木林に、利菜がいないことを確信した。おまもりさまに残してきたのだ。
「だめだ、もどれない!」
 寛太が絶望したように叫んだ。彼は懐中電灯をつけたままだ。達郎はそれに気づいて自分のデンチの明かりを消した。寛太もまねした。
 真っ暗だったはずの林は、八月の明かりをとりもどしていた。熱気がどっと襲いかかり、五人は汗だくになっている。
「利菜をとったからもとに戻ったんだ。あいつら、あたしたちにあの子をかえさない気だよ」
 佳代子は半べそでヒステリーを起こしかけている。紗英が腕をとろうとしたが、彼女はその手をふりはらい、みんなから離れてしまった。佳代子は自分が利菜をみすてたみたいな気になった。そのことを思い、彼女は泣いた。
 達郎はまよった、佳代子をみた。利菜をのこして林を出るなんて、納得しないにちがいない。でも助けがほしい、大人の助けがいる。自分たちは、もうふつうの子どもに戻っている。その証拠に、幻覚すらみなくなっている。
 達郎は、いまさらながら気がついた。自分たちが信じたから、幻覚は現実化していった。そんな気がした。でも、もう信じるもくそもない。ヘトヘトで、わずかな意志力さえなくなっていたのだ。
 おまもりさまの外には大人がいる。あのときは様子がおかしかったけど、でも今なら……
「みんな外にでよう」
「利菜はどうするのよ!」
「おれたちじゃみつからない、見つけられないんだ。捜索隊をよぶしかないだろ」
「達郎ちゃんまちがってるよ……」と佳代子は言った。「あたしたちにみつけられないんなら、大人にだって見つけられっこない。だって利菜はおまもりさまにいるんだよ、ここにはいないの。それがわからない!」
 達郎はぐっとだまった。自分が正しいのか、佳代子が正しいのか、もうわからなくなった。

□    三

 そのころ、寛太と新治は、利菜をさがして、やみくもに歩きまわっていた。暑さと湿気が、二人の小学生の体力をうばう。死体がなくなったとはいえ、ここがおまもりさまなのにはちがいないのだ。どこかにあのジャングルにつうじる通路があるはずだ。自分たちには、その通路が見つけられると思った。
 彼らは斜面をのぼった。目の前に蔓網がみえた。奥を目指していたはずなのに、いつのまにか引きかえしてしまったらしい。
「寛ちゃん、見てよ」
 新治が指さした。蔓網の前に、誰かが倒れている。新治は、利菜だ、と駆け寄りかけたが、すぐに足をゆるめた。駆け足が早足になり――やがて歩いて彼は立ち止まる。
 利菜じゃない、あれは死体だ。
 ぶんぶんというハエの羽音がする。それにものすごい悪臭だ。
 その人がきている服には、みおぼえがあった。
「国村さんだ……」
 と新治は言った。

□    四

「おい、たいへんだ、みんな来てくれよ!」
 いい争いをする達郎と佳代子の耳に(達郎はもうおまもりさまにもどるのはむりだと考えていて、一方佳代子はかならずもどれるはずだと信じていた)、寛太の声がとどいてきた。
 彼らはおそるおそる国村のそばによった。
 最後の五メートルをのこして立ち止まった。おまもりさまでは死体に手をふれた寛太も、こんどは無理だった。国村の遺体は、真夏の陽気で完全に腐りきっている。ぶんぶんという羽音が高くひびく。甘ったるい臭いだ。人間の体が、こんな悪臭をはなつなんて、信じられなかった。
 こいつらは国村さんを巣箱にしてるんだ、と思うと、新治は吐き気がした。国村の体のなかでは、蛆虫がうごめいているのだ。
 あれはもう国村さんじゃない。紗英は泣きながら、達郎の背中にかくれる。佳代子が腕をつかんだ。
「はやくしないと、利菜もあんなになるよ」
 達郎はこたえることができない。国村から目が離せない。
 新治が言った。「国村さんはあのとき死んでたんだ。国村さんもつかまったんだよ」
 達郎は佳代子をみた。「このことをつたえないと。警察にしらせないと……」
「いやよ!」佳代子が怒鳴り、その声がみんなの体をびりびりと震わせた。「利菜はいるんだよ! ここにいるんだよ! 利菜をおいてけない!」
「でも、おれたちじゃ、もうむりだ!」
「手をつないでよ」と佳代子は言った。「手をつないでよ、おまもりさまに戻るんだから!」
 達郎はしぶしぶその手をにぎった。みんなもそうした。
 彼らは目をとじて、利菜を念じた。なにも感じられなかった。五分ばかりも、冷や汗をかいていたろうか? だれもが疲れきって、意識の集中もむずしかった。脳みそが疲労物質でうずくまっている。この日感じた力は、のきなみ喪失していた。利菜は感じられない。
「どうしたらいいの……?」
 と佳代子は言った。その声は、ぞっとする喪失感にふるえていた。
 達郎は妥協案をだした。彼は寛太と新治にいった。
「二人とも草原をおりて、利菜の親父さんを呼んできてくれよ。そんで佳代子のおばさんには、警察を呼んでもらうんだ。利菜がいなくなったって、国村さんの死体をみつけたって、ちゃんというんだぞ。あたごまで行って、捜索隊を派遣してもらえ。おれたちもいっしょなら、利菜をみつけられるかもしれない」
 寛太と新治はおとなしくうなずいた。達郎の真剣な眼差しが突き刺さるみたいだ。彼だって、利菜を救うために、必死だったのだ。

□    五

 林をでた二人は、ひまわりが消えているのを見た。アスレチックは大岩に喰らいつき壊れたままだったが、あれだってほかの人には見えないのかもしれない。寛太と新治は、腕をあげて服の臭いをクンクンと嗅いだ。国村の臭いが、あまりにも強烈だったためだ。
 二人は駐車場をめざして走った。草原を駆けあがってくる俊郎と登美子がみえた。
「おじさん!」
 寛太が呼びかけると、敏郎が顔をあげた。
「寛太」
 とおじさんは呼び捨てにした、ふだんは竹村君というのに。きっと必死だったからだろう。それで寛太にも敏郎がもとに戻っていることがわかった。
「大変なんだ、利菜が林でまよったんだよ」
 おじさんに空白がおとずれた。これまでの彼とはちがって、じつに人間らしい表情だった。俊郎は娘がいなくなったときいて、茫然自失となったのだ。
「あんたたち、なんであんなところに行ったの」
 登美子が二人をなじったが、だれも聞いているひまがない。
「おれたち国村さんの死体もみつけたんだよ」
 俊郎の目に意識の光がもどった。
「国村って、あの国村さんか? あの人が死んだのか?」
 子どもたちがうなずくと、敏郎は林にむかって走りはじめた。新治がつづいた。登美子も後につづこうとしたが、寛太が体をはって止めた。ラグビーをするみたいに登美子の腰に組みついた。
「おばさん、人を呼んでくれよ、おおぜい呼んでくれよ」
「竹村君? 佳代子はあの中にいるんでしょ? 林にいるの?」
 登美子は寛太の腕をとっていった。毛穴が開くような、鬼気せまる表情だった。
「だけど、国村さんが死んでるんだ」
「なんであんなところに……」
 登美子は言った。わたしはなんでこんな所に……? という言葉もつづいているようだった。
 おまもりさまに背をむけると、車にむかって歩きだす。寛太は、二人とも目が覚めたら(といっても、眠っていたわけではなかったのだが)両神山にいたんだから、驚いたんだろうな、と考えた。彼はふりかえると、すぐにもどってくるから待ってろよ、と念じた。みんながその思いを感じとってくれることを願った。
 それから、登美子の後をおって草原を降りていった。
 子どもたちはそのあとも、利菜の姿をさがしもとめたが、みつかることはなかった。
 じつのところ、彼女は、この世界にすらいなかったのである。

○ ジノビリ暦三年 ――イニシエの森にて

□    六

 樹齢は千年をこし、樹高は百メートルをこえている。家一軒がはいるほどの樹幹があった。そんな大木が、天をつくように立ちならんでいる。
 木々のすきまを、二メートルはありそうな巨大な鳥が滑空していく。恐竜好きの佳代子がみたら、プテラノドンだといって喜んだろう。大地は苔むし、おまもりさまの景色にすこし似ていた。イニシエの森と呼ばれる、大陸の三分の一を占める、広大な森だ。
 毛むくじゃらの生き物が、倒木のすきまにうごめいている。その目は人間のような知性を感じさせるうえに、二本足で歩いていた。イニシエサマとよばれる、猿に似た真っ黒な生き物、鹿に似たクルエツボ……じつに多彩な動物があつまっていたが、彼らがみまもっているのは四人のサイポッツの少年だった。
 そのうちの二人は、青年といっていい年齢だ。一人は中肉中背で、ビスコと言った。筋肉質で、精悍な顔をしている。もう一人はノーマといって、とてもやせて長身だった。二人の少年のうちの一人は、ペックとよばれていた。とても太っている。この三人が貴族で、ヒッピという少年だけが、平民だ。
 サイポッツたちは、イニシエの森の生き物に気がついていない。動物たちは気配をころし、四人の行状をみまもっていた。だが、子どもたちの様子がおかしくなると、彼らは隠れるのをやめ、身をのりだした。

 四人は、大鏡とむかいあっていた。二メートルばかりもある、楕円形の鏡である。銀の装飾をほどこされた鏡は、ぽっかりとあいた空き地に、石台とともにあった。彼らは死んだと思われている、ハッツ王を呼びだそうとしている。
 二人の青年と二人の少年は、恐怖に息をつめていた。上空でいくつもの鳥が、ぎゃあぎゃあと泣きわめいていた。
 大鏡にむかっている少年――ヒッピはひときわ小柄だったが、その目にはつよい好奇心と、人しられぬ意志の輝きを感じさせた。明るいブルーの瞳が、いまは恐怖にみひらかれている。彼は大鏡にむかって手をのばしている。指は鏡にふれている。その冷たさに脳がしびれあがるが、離すことができなかった。強力な粘着剤でぴったりとくっつけられたかのようだ。
 大鏡からはどすぐろい煙とともに、突風がふきつける。ヒッピは風にあおられて、背筋を大きくそらし、呼吸も満足にできなかった。口のなかまで風が吹き荒れ、叫ぶこともできない。
「ヒッピ、もう手をはなせ!」
 ペックが言った。ヒッピはなにか答えようとしたが、首がぴくりとも動かない、視線すらも鏡のむこうに吸われていく。突風で瞳が乾き、こぼれた涙もふきとばされた。
 誰かいる……とヒッピは考える。くぐもった鏡のむこうで、なにかが蠢いている。小柄な人影だ。ひどく慌てているみたいだ。その子が手をのばしてくる。ヒッピは逃れようと体をよじったが、鏡の吸引力はますます強くなる。その子の指が、彼の指とかさなりあう。そのとたん、右膝と腕にするどい痛みがはしった。関節がきしみをあげ、ヒッピは顔をしかめる。肋にはしる痛みに、ヒッピはあえぐ。
 相手がなにかをいった。
 ヒッピは、その女の子の意識や感情が、自分にむかって流れこんでくるのを感じた(女の子、女の子だ!)。その子は友だちとはなれて独りぼっちになっている、なにかに追われていたこともわかった。その子の恐怖を感じ、ヒッピはついに悲鳴をあげた。仲間が彼の体に手をかけ、大鏡からひき離そうとした。
「利菜だ!」
 ヒッピが叫ぶと、ノーマとビスコは、驚愕の表情をみあわせる。
 ヒッピの手が大鏡からはなれかけた瞬間、鏡のむこうから、にゅっと指が突き出てくるのが見えた(ヒッピの指とは、ぴったりくっついたままだった)。つぎに、頭が大鏡をとおりぬけた。三人は仰天しながらも、ヒッピの体をひきつづける。女の子だった。髪がぺったりと頭にはりついているが、それは血まみれのせいだった。ペックは悲鳴をあげながら、ヒッピの体をひきつづけた。肩がでた。腰もとおった。四人は石畳のうえに倒れこむ。最後に、足が鏡をとおりぬけた。その血みどろの女の子は、どさりと地面にくずれおちた。
 彼らは呆然とその子をみおろした。
 女の子は、ヒッピの足元にうずくまっている。背の高いノーマが、ゆったりとした足どりで女の子の脇にまわった。一瞬だけ、大鏡をみあげた。
 鏡面は真っ黒な渦をまいている。いまはなにも映していない。
 彼は少女の肩をゆすった。生乾きの血がべったりと手のひらにつき、ノーマは顔をしかめた。
「死んでいるのか?」
 とビスコが訊いた。二人はひどく仲がわるい。ノーマはじろりとビスコをにらみつけただけで、なにも言わなかった。
「大鏡から出てきたぞ。ハッツ王をよびだすはずだろう」
「この儀式は本物だったんですよ」ペックが親友のヒッピを、助けるようにかかえる。「古くさくて、ためした者もなくて、すくなくともぼくらはやった人間をしらないけど、本物だったんだ」
「ならば、なぜ国王がでてこなかったんだ!」
「こういうことではないですか? ……ぼくらはハッツ王の霊魂をよびだすつもりだった。でも、ハッツ王は死んでいなかった」
「この子はなんだ? 国王のかわりに出てきたとでもいうのか?」とビスコは言った。「死人なのか?」
 霊魂にはとても見えん……と彼はつぶやいた。
 ヒッピは、さきほどその女の子と意識を共有した。だから、彼女が死んでいないことを知っている。血まみれで、ぼろぼろ、呼吸もしていないように見えるが、ちゃんと生きていると彼はおもった。
「あなたはこんな儀式、信じていなかったのではないのですか?」
 ヒッピはペックにたすけおこされながら、ひどくしゃがれた声でいった。ビスコは少年をにらみつけた。
「いったい誰なんです?」ペックが言った。「ぼくらとおなじサイポッツですか?」
 ビスコがさげすむようにいった。「黒髪のサイポッツなどいない。きっと別種族だろう……」
 ノーマはうなずいた。ビスコはいけすかない差別主義者だが、頭のつくりは合理的だ。
「死んでるんですか?」
 ペックがきいた。ノーマが答えようとしたが、そのまえに、女の子はうめき声をもらした。四人が見守るなかで、その子はゆっくりと身をおこした。

□    七

 うめき声がもれた……骨がひしゃげ、肉の裂ける痛みがあった。
 意識がまたはっきりとした。彼女は自分が唾をたらしているのを知っている。おまもりさまにきたことも、お堂で銅の鏡に吸いこまれたこともおぼえている。だが、なぜ、そんなことになったのかがわからなかった。
 坪井の家でみた、黒い渦を思いだした。あのときはあの穴から登美子が出てきた。自分はあの向こう側にきたんだと思った。
 なんとか起きあがろうとするが、視界がかすんでひどく気分が悪かった。喘息にかかったみたいに、息がうまく吸えない。顔を上げることもできなかった。
 大鏡をぬける瞬間、彼女は誰かと意識を共有した(少年……相手は少年だった)。佳代子や紗英たちと手をつないだときより、ずっと強くその少年と絆をもった。
 吐きそうになり、利菜はゆっくりと体を仰向けにする。わずかだが、吐き気が遠のいた。
 ぼやけた視界を、三つの顔がのぞきこんでいた。利菜はなめ太郎に捕まったんだとおもった。なめ太郎と、溺死女と、坪井善三に。それとも、またべつの殺人現場にいあわせているんだろうか。利菜は銃剣をもった兵隊を思いだした。こんどはこの三人に殺されるんだ……。
 焦点があった。その三人はまだ少年といっていい年で(とくにその中のひとり)、外国人だった。三人ともみごとな金髪をしている。
 利菜は青い目玉をのぞきこむ。そこには気づかわしげな色さえあった。
 だんだん知覚がはっきりする。彼女は三人の顔をこして、森の景色をながめわたした。雲をつくような巨大な木々だ。ここはすくなくともおまもりさまではない。あの森の、草木一本までもがはっしていた邪悪な妖気を、ここでは感じない。
 利菜は、不思議と、とある映画のワンシーンを思いうかべた。虚無におかされた太古の森に、どこかしら似ていた。
 利菜はこの三人もわるいものの見せる幻覚かと思った。でも、彼女は、あの少年と、まだ意識を共有している。その少年の目が、自分の視覚と重なり、利菜は血みどろの自分の姿を目にする。裂けたシャツが体にはりつき、幼い胸のふくらみがわかる。血にぬれそぼった髪のせいで、できそこないの溺死女みたいにみえた。
 胃袋の中身が喉をつきあげ、利菜はまたその場につっぷした。硬い岩の地面に頭部がおちて、その痛みがまた彼女の意識をまたいっそうとはっきりさせる。利菜は佳代子たちとやったときのように、なんとか意識を遮断しようとした。五感と重なりあっていた少年がすこし遠のき、利菜はどうにか落ちつきをとりもどした。それでも少年の感情や考えを読みとることができた。
 こいつわるいものなんかじゃない、と利菜はおもう。幻覚ではないんだと。なぜかそのことが怖かった。自分の中にいた少年の名はヒッピだ。涙がこみあげる。ヒッピのことは感じられる。でも、佳代子たちのことは、どこにも感じないのだ。
「ここはどこ?」
 彼女は口を片手でおおうようにする。
「君こそ、誰だ?」
 と青年の一人が言った。名前はビスコだ。利菜はその青年を知っていることが恐ろしかった。佳代子や紗英のことを知っているみたいに、その青年のことを知っている。おまけにビスコが、まったく知らない異国の言葉をしゃべっているのに(すくなくとも日本語ではまったくなかった)、自分はちゃんと理解してもいた。
 疲労から震えがおきる唇を、ぞろりと舐めた。ビスコが貴族で、ヒッピを嫌っているのは、平民だからだ。ビスコは平民をみくだし、それでヒッピは彼のことをこころよく思っていない。まるで、自分が嫌われているみたいな、ひどい扱いをうけたみたいな気になった。記憶を共有しているせいだ。まるでうしなった記憶を、とりもどしたような感覚だ。
 のっぽの青年はノーマで、どうやらこの人はいい人らしい。ヒッピは嫌ってはいない(もちろんヒッピが弟のような扱いをうけているからといって、自分が妹のような扱いをうけるとはかぎらない。そんな考えは危険だ)。
 利菜は重い頭をもちあげた。三人とは離れたところでうずくまっているヒッピをみる。彼は腰をぬかすほどに驚いている。見ひらいた瞳の奥に自分がいるような気がして、また岩に頭をあずけた。ヒッピからながれこんだ情報は、全体からみればごく一部だった。それでも整理ができずに、めまいが起こる。百科事典を、むりやり頭につめこまれた感じだ。その逆もおこったんだと思うと、彼女は逆上した。
「あんたたちが、あたしを呼びだしたのね」しゃべりながら、利菜は自分が彼らの言葉を口にしていることに気づき困惑した。彼らも当惑している。「あんたたちのせいじゃない。もといたとこに戻してよ!」
「ぼくらはハッツ王を呼び出そうとしたんだ!」とペックが言った。
「あたしはそのハッツなんかじゃない!」
 ビスコが冷笑した。「そんなことはわかっている」
「なにがおかしいのよ、この身分差別のサディスト野郎」
 ビスコは最初面くらい、つぎに真っ赤になって怒りをあらわした。
「きさまはいったい何者だ。なぜサイポッツの言葉をしゃべってる? この血はなんだっ?」
 利菜はビスコに腕をとられて顔をしかめた。腕の傷に、指がふれたのだ。
 同時に、ヒッピも驚きの声をあげた。彼も腕をおさえている。
「怪我をしてるのか?」
 ビスコが手を離す。ノーマが彼女にちかづいた。その青年がものすごい男前だったので、彼女はちょっとどぎまぎした。ヒッピのせいで、つい心を許してしまいそうになる。気をつけなくちゃいけないはずなのに、この三人が仲間みたいな、そんな気になってくる。
 ノーマが言った。「もといた場所とはどういうことだ? いや、大鏡から出てきたことは知っている。だが、われわれが呼びだそうとしたのは、死人だ」
「わたしは死んでない……」と彼女は確信をもてずにいった。「ここって、外国? あんたたちこそ死人じゃないよね」
 三人は、困惑の表情をかわしている。
 うずくまったままのヒッピが、
「きみはまったくべつの森にいたんだ。この子は、サイポッツじゃない」
 やっぱりあいつもあたしのことがわかってるんだ。利菜は怒りに唇をかみしめた。知らないやつに、自分のことをのこらず知られるのは嫌な気分だった。
「ぼくだっておんなじだ」とヒッピがいいかえした。こっちの考えを読みとったものらしい。彼は立ちあがった。「この子は友だちといっしょにいたんですよ。恐ろしい目にあったんだ」ヒッピは一瞬記憶をたどるようなそぶりを見せた。「だから、血まみれなのか?」
 利菜がうなずいた。ヒッピは大鏡をとおして、おまもりさまで利菜の身に起こったことを、まさしく体をとおして体験した。彼は見知らぬ子どもたちの苦悩を知り、身震いをする。だけど、それは三人の仲間のあずかりしらぬところだ。
 ペックが、「なんでこの子のことを知ってるんだ?」と訊いた。
 ヒッピは唇をなめた。説明するのは難しかった。彼は懸命に言葉をえらんだ。
 利菜には彼の頭をぐるぐるまわっている言葉が目に見えるようだった。
「ぼくらは大鏡をはさんで手をくっつけあった。そのとき、その子がぼくのなかに入ってきたんだ」
「なにをいってるんだ?」とビスコは眉をよせる。
「この子の感情とか、痛みがはいってきたんです、記憶も。まるでこの子になったみたいな感じだった。名前はリナだ。友だちの名前もわかる」彼は腕をおさえる。「さっきビスコがさわったとき、ぼくも腕が痛んだんです。傷はないのに、いまも腕が痛い。この子の考えが読めるような気がする……」
 ヒッピが利菜に腕をのばし、目をのぞきこんできた。
「やめてよ」
 と視線をそらす。彼女はヒッピのことが怖くなる。こんな目にあっているのに、氷みたいに冷静なやつだ。利菜は佳代子たちと意識の共有を体験しているが、ヒッピは初めてのはずだ。それに、彼をみていると、心の奥まで読みとれそうな気がするのだ。
 おまもりさまにいたときより、ずっと力が強くなっている。それにすごく眠たかった。脳の疲労が顔全体におりて、皮膚がごわごわする。いますぐに眠りこけてしまいたかった。ここが自宅のマンションなら、どんなにかよかったのに。
 それよりも、佳代子たちはどこにいったんだろう? あの子たちがぜんぜん感じとれない……。
「この子はむこうの世界でも、友だちとこんなふうにつながり合ってたんだ。心をひとつにしていた」
「おい」
 ビスコが怖い顔をして、ヒッピの肩をつかんだ。利菜は自分の肩もつかまれた感触がして(もちろんそれはヒッピが感じているものよりずっと薄らかなものだったが)、右肩に目をおとした。
「おまえはいま、向こうの世界と言ったな。向こうの世界と……」
 それはヒッピにたいするというより、自問にちかいものだった。利菜は唾をのんだ。心が冷たくなった。
 利菜だって、心のどこかではその可能性を考えた。でも、とりあげたくはなかったのだ。
「そうとしか言いようがないんです」ヒッピがビスコの腕をふりはらった。
 ノーマが言った。「いつもの幻覚ではないのか?」
 利菜は驚いて彼をみた。「幻覚をみてるの?」
 彼女の目は、いつもの二倍ぐらいに見ひらかれる。おどろきで心臓の鼓動がはやくなる。胸が痛かった。脳だけではなく、心肺機能もいかれている。脳に酸素をおくるために、無理な呼吸をしてきたからだ。いますぐに眠りこけるかして、すこしでも疲れをとらないとやばいと彼女は直覚する。だけど、この四人に訊くことがある。
「幻覚をみてるの? 夢はどうなのよ? 無意識に行動したり……自分で考えてることが、現実に起こったりする?」
「なにをいってるんだ……」
 ビスコは否定しようとしたが、その声は弱弱しかった。だけど、ヒッピの目は、彼女の質問を肯定していた。肯定しているのが、感じられる。
「あんたたちもなの?」と彼女はまた訊いた。
「それはどういう意味だ……」とノーマが言った。
 利菜は癇癪をおこした。胸に手をあてた。「あたしにもなのよ。あたしにも、この子の考えやいろんな記憶がながれこんできた。全部じゃないけど。だからあんたたちのことがわかるの! あんたたちは……すごくやばいことになってる。まわりで人が死んでるんでしょ? 詳しいことはわかんない……でも、追いつめられたから、ここに来たんじゃないの? ここで儀式をしたんだ。ちがう?」
 四人は彼女の強い視線に、顔をそむける。
 頭のアンテナがどんどんふくれあがっていく。ここはおまもりさまじゃない。もうどんなにアンテナをのばしても、友だちのことも父さんのことも、神保町のことも感じとれない。自分はすごく遠いところにきた。もしかしたら、ヒッピのいうとおり、ほんとにべつの世界にやってきたのかもしれない。
 利菜は言った。「手を出しなさいよ」と手をとしだす。ヒッピはあとじさった。
 とまどうヒッピに歩みよると、その手をにぎった。利菜はヒッピにむけての記憶を流しこんでやった。自分たちがこの夏に経験したこと、わるいもののこと、友だちとの間に起こったこと、おまもりさまでの出来事を。なんでこんなことができるのかはわからなかった。でも、できることを知っていたのだ。
 ヒッピが痙攣をおこし、唾をたらした。彼はうめきを上げている。
 ビスコが利菜を殴りつけた。
「やめろ!」
 ノーマがビスコを突きとばした。ペックが利菜を助けおこした。彼女の口のはしから血が流れるのをみて、ペックは言った。
「ひどいじゃないですか」
「おれは、こんなことのために、危険な森にきたんじゃない」ビスコは憎悪のまなざしで身を起こす。「きさまら、よく考えてみろ、大鏡から出てきた、血みどろの子どもだぞ!」
「出てきたくて来たんじゃない!」
 利菜は口のなかを切ったようだ。ぺっと唾を吐くと、赤いものが地面に落ちた。
「ヒッピ、大丈夫か?」
 ビスコが言った。ヒッピは両手をついて頭をふっている。利菜は、この子のほっぺたにもおんなじ痛みが走ったんだ、と思った。
 ヒッピが唾を吐くと、やはり赤いものがまじっていた。みんなは、ぞっとその光景をみた。ヒッピはその唾をみながら、
「君の世界もおんなじなのか? 犯罪がふえてるんだな?」
 利菜はうなずいた。
「親やまわりの人間がおかしくなってるんだ、そうだな?」
 またうなずく。
「どういうことだ?」ノーマが訊いた。
「この子がぼくに見せてくれたんだ。なんだかわかってきたぞ」
 利菜にもわかった。おなじことが、別々の世界でおこっているのだ。だけど、状況はこの世界のほうがずっと悪いようだ。ヒッピたちは、いろんな国と戦争をしている。禁制だらけで、自由に物をいえない状態だ。
 それにこの四人の、憔悴しきった表情。この顔は達郎たちとおんなじだ。幻覚や、頭のなかの空想が現実になることで、追いつめられていった者の表情。
 利菜は頭をかかえこんだ。割れるように痛かった。立っているのもやっとだ。利菜のなかにはまだヒッピがいたから、この四人が幻覚を見ていたことも、素直に信じられた。おさそいのことを、悪いものと呼んでいたかどうかはべつとして、おなじ体験をしているのが感じられたのだ。
 足元がふらつきだす。
 ヒッピが利菜にかわっていった。
「この子たちも幻覚や幻聴をきいていたんです。まわりの人間がおかしくなってることまでおんなじだ」
「そんなばかな、そんなばかげた話が信じられるか?」
「でも、現実としてこの子はいるでしょう?」
 ビスコとヒッピが言い争いをはじめた。
 ヒッピから受けとった知識だけを点検してみても、この四人がたいへんな目にあってここまで来たのだということはうかがい知ることができた。ここは、サイポッツの国からは遠く離れている。この森は、おまもりさまのような、町の近辺にあるキャンプスポットではなくて、富士の樹海のように危険なところなのだ。
 ついに、片膝をついた。ペックとノーマが支えた。利菜はそのとき、二人のきているのが、豪奢な生地でできた神官衣であることを知った。本気で死者を呼びだそうと考えていたのかどうかはわからないが、行為をおこなったことだけはわかる。そのおかげで、自分はあのお堂を抜けだすことができたのだ。
 それが、よかったのかどうかはわからなかった。だけど、ここはすくなくとも、おまもりさまほど危険じゃない。
 ノーマが森の奥を透かしみている。利菜も空気の異変をかんじとった。不自然な静寂があった。その静寂を切り裂く音がした。
「くそ」
 とノーマは言った。森の木々の影には、巨大な獣が群れをなしていた。利菜は熊かと思った。でも、熊にしては動きがへんだ。
 完全な二足歩行をしているように見える。
「おまえらやめろ。ナバホ族だ!」
 巨大な槍がうなりをあげて飛来し、ビスコの足元につき刺さった。太鼓やシンバルの音が森にひびき、戦いをつげる鬨の声があがる。
 木々の合間から、毛むくじゃらの男たちが躍りでてきた。

○ トゥルーシャドウ

□    八

 ナバホ族には十の氏族があるが、そのうちのひとつであるスーの戦士たちは疲れはてていた。サイポッツとの戦闘が男たちを消耗させた。群れの長をつとめるトゥルーシャドウは、仲間をはげますのがやっとだった。
 ナバホ族はイニシエの森にすむ太古の種族である。広大な森のあちこちに、それぞれの集落をつくっている。ナバホの男たちはみな巨体で、サイポッツにくらべると身のたけは倍ほどもある。生まれついての豪力にくわえ、森での暮らしのせいか、みな敏捷だった。その顔は狼に似て、五感にすぐれている。イニシエの森には数十になる種族がいるが、ナバホ族に手をだすものはなかった。森にくるサイポッツは数すくなかったが、彼らはナバホ族のことを「毛のある人々」とよび敬っていたのだ。それがなぜこんなことになったのか?
 はじめのうち、ナバホ族は狩をするのとおなじやり方で戦った。トゥルーシャドウは狩のときにつかう銀の仮面を、いまもつけている。サイポッツが相手なら、三人にかかられようが負けるはずがなかった。
 サイポッツたちは、集団で戦闘をしかけてくる。戦うことを専門にした軍隊だ。軍隊のたてる作戦は巧妙で、トゥルーシャドウたちは戦闘のたびに数をへらしていた。仲間の多くは傷つき、氏族のひとつであるモノの裏切りに心を痛めていた。
「大丈夫か、トゥルーシャドウ?」
 リトルロックがそばに来た。彼は狩の副官であり、トゥルーシャドウの親友でもあった。
「ほかの者をみてやれ。おれならば、五体軒昂だ」
「むりをするな」リトルロックは邪険にこたえた。「怪我をしているぞ」
 リトルロックは、すりつぶした薬草をさしだしてきた。
 トゥルーシャドウは、美しく彩色のほどこされた、金の仮面をとりはずした。
 男たちは染料で自らの毛皮を染め、各家につたわる衣を身にまとって戦った。サイポッツのつかう火薬は、それらの衣装をぼろきれに変えてしまった。代々つたわってきた装束を、二度とつかえぬものに変えられいらだっていた。
「バロウズが荒れているな……」
「あいつはシャムナックと仲がよかった」
「いっしょに戦っていたのか」
「うむ」
 サイポッツとの戦いがすすむにつれ、トゥルーシャドウたちも、伝統的な狩の手法をすてるしかなくなった。狩は必要な食用をえるためのもので、戦闘や無用な殺戮とは無縁のものだったのだ。トゥルーシャドウは三人をひとつの単位にして戦わせていたが、それも日がたつにつれ、欠ける者が多くなった。トゥルーシャドウは仮面をじっとみつめ、バロウズの苦境をおもった。目の前でともにそだった仲間が死ぬのは、耐えられぬことだった。
 トゥルーシャドウは恐れをしらぬ男だと思われていたし、自分でもそう思ってきた。だが、いまでは恐怖にどっぷりとつかっている。それをみたのは彼とリトルロック、バロウズの三人だけだった。サイポッツの兵隊たちは、ミオの住人を殺しつくしていた。同族の死体が、まるで薪かなにかのように積みあげられていた。ナバホの死体の山。トゥルーシャドウはあのときのバロウズの言葉が忘れられない。あいつらの目的は、これか――?
 ナバホの各氏族は、おおよそ百人ばかりの集落をつくっている。千人以上の人口が存在することになるが、サイポッツとの戦争がはじまって以来、五百人ほどに数がへっていた。たった半年のことである。彼らが根絶やしとなり、この世から消えさる日も、そう遠くはない。
 虐殺にあっていたのは、なにもナバホだけではない。そうした死体のきずくオブジェは森のあちこちにできていたからだ。死体を木につるし、なますぎりにし、内臓を引きずりだし、さらしものにしていた。切り離した手足をつかって、子どもの工作のようにつなげていたこともあった。サイポッツの行動は、たんなる殲滅作戦というだけでは足りなかった。ひとつの村を襲ったあとは、女子どもにいたるまで殺しつくし、焼き尽くしをおこなっていた。種族の生活した痕跡すらも消そうとしているかのようだ。トゥルーシャドウにはわからなかった。
 なぜ、あいつらはこんな真似を――?
 おかしなことはほかにもあった。トゥルーシャドウたちは、さいきん森でよく迷うのである。サイポッツならいざ知らず、自分たちが迷うなど、これまでになかったことだ。感覚が狂ったというより、地形が変化しているようだった。見たこともないような動植物が出現することもある。
 トゥルーシャドウは顔をあげると、バロウズのもとに歩みよった。
 だが、ナバホのスーは負けんぞ。けっしてサイポッツの軍門にはくだらん。
 彼はリトルロックにささやいた。
「やつらはなにかを探している。それがなんなのかを知ることだな」
「だからといって、おれたちを殺す理由にはならんぞ」
 トゥルーシャドウはうなずいた。
「だが、なぜかおれたちに恨みをもっている」
「ばかな、やつらに恨みをいだかれることなどあるか」とバロウズがききとがめた。
「サイポッツたちはなにを考えているんだ。このまま殺しをつづけるつもりか?」
 ワークバイスが薬草を噛みくだいていった。
 ナバホ族は工芸にたくみで、サイポッツとも古くから交易があった。金銀の品々を国王に贈ったこともある。一年前までは、良好な関係をきずいていたのだ。ここにいるワークバイスも有能な工芸家で、サイポッツの技術者をまねいたときは、またたくまに彼らの建築を理解し、水道の建設に尽力した。
「あいつら、砂漠の種族とも戦闘をしているそうじゃないか」
 クランドルが薬草をはきすてた。
「サイポッツは数もおおいからな。おれたちと戦っても、兵隊の頭数にはこまらんのだ」
「ミオの連中は行方しれずのままだぞ。みんな殺されたんだろうか?」とワークバイス。
 サイポッツたちは、ナバホのミオを襲い、彼らのもつ鉱山を奪いとった。長老たちが全氏族の男をあつめ、救助にむかわせたときには、集落にいた大半のものが殺されてしまった。残りの者はいまも見つかっていない。
 サイポッツはほかの集落をつぎつぎ襲い、虐殺を繰りかえした。モノとシャム、マイルの三氏が早々と降伏してしまった。トゥルーシャドウは裏切りをおそれ、仲間の氏族と連携もとれないありさまだった。
「このさきどうなるんだ、トゥルーシャドウ?」ワークバイスが言った。「あいつらは頭がいかれてるとしか思えん。おれたちを殺してなんになるというんだ?」
「皮をはいで毛皮を高く売るのさ」クランドルが答えた。
「理由にならんな。毛皮よりも、工芸をやりとりしたほうがもうかる」トゥルーシャドウが言った。「あいつらは鉱山を掘ったところで、細工をする技量がない」
「だから、ミオの生きのこりをつれて行ったのか?」
「サイポッツのいうことをきくナバホはいない」
「じゃあ、モノの連中はどうなんだ? シャムもマイルもサイポッツに降伏したじゃないか」バロウズが言った。いずれもナバホの氏族だった。
「女子どもを殺されればいやでもそうなるさ」リトルロックがぼんやりと答えた。「ほかの族長だっておんなじだ」
「冗談ではない! おれはシャムナックや殺された仲間の敵をとるぞ! サイポッツのいうことをきくぐらいなら、死んだほうがましだ!」
「それは族長のヘテナムンが決めることだ」
「従わんぞ!」とバロウズは言った。「おれは従わん! ひとりになっても戦う!」
 おれもだ、おれもだ、とみな唱和した。温厚なワークバイスさえもだった。
「やめろ。みんな支度をしろ。一刻もはやく村にもどろう。おまえたちがそんな話をすると、いやに不吉だ」
 トゥルーシャドウがめずしく冗談をいうと、男たちはみな苦笑した。たしかに、集落のことが心配だった。
「とにかく、ナバホの体をもてあそばれることに、おれは耐えられんのだ」とバロウズは言った。
「トゥルーシャドウ」リトルロックが彼の肩に手をかけた。「話し声がするぞ」
 みなは、すわサイポッツかと緊張をめぐらせた。彼らの聴覚はサイポッツよりも俄然すぐれている。むこうには気づかれていないはずだ。
「もうフッドの集落に近いぞ」
「みんな耳をすましてみろよ。サイポッツのくそったれな公用語が耳にさわる」
「公用語なもんか。あいつらがあっちこっちと交易をするものだから、自然にひろまっただけだ」
「おちつくんだ」
 トゥルーシャドウが言った。彼らが沈黙すると、森からは生物が消えたかとおもうほどに静かになった。ナバホの男たちは、気配を完全に殺して、森のはしまで移動することができる。その能力が、これまでトゥルーシャドウたちの命をすくっていた。
「やりすごすか?」リトルロックがきいた。
「いや、もうフッドの集落にちかい。兵隊だとしたら、フッドを襲うつもりだ」
「そらよ」バロウズはハンマーをひろいあげると、リトルロックにおしつけた。「トゥルーシャドウはやるつもりだ」
「この方角は大鏡のほうだ。神官どもが来ているのではないのか?」
「こんなときにか? やつらの儀式など、この一年見たためしがない」とトゥルーシャドウは否定した。「いいか、今回ばかりは退くわけにはいかん。サイポッツをみたら迷わず殺せ。女子どもをなぶり殺される前に、やつらを殺すんだ」
 トゥルーシャドウたちは音もなく駆けていった。声はどんどん大きくなる。その時点で部族の誰もが、声の主が言い争いをしていて、その人数が五人しかいないことに気づいていた。その優れた嗅覚は、血の臭いをかぎわけていた。このさきで何者かが――サイポッツなのかナバホなのかそれともまったくべつの種族なのかはわからないが――血を流しているらしかった。
 トゥルーシャドウたちはサイポッツをまねて作った飛び道具の数々をかまえた。木々のむこうにのぞく空き地には、サイポッツの姿が見えた。
「サイポッツだ、まちがいないぞ」
 バロウズが歯ぎしりをした。トゥルーシャドウは彼をおさえた。そして、自分の槍をたかくかかげると、サイポッツめがけて投げつけた。

□    九

「ナバホ族だ!」
 ペックが言った。利菜は目をみはった。
 大鏡の周囲にまたたくまに群れつどってきたのは、毛皮におおわれた人間だ。色とりどりの腰巻や、鉄の胸当てなどをつけている。どうみても動物なのに、二本足で立っている。巨大な斧や槍、クロスボウを手にしていた。
 二十人はいる。
 威嚇の矢が、五人の周囲に突きたった。
「あいつらとも戦争してるの?」
「そうだ」とヒッピがこたえた。
「サイポッツはいまあらゆる種族と交戦している」とビスコ。「こいつらはその中のひとつにすぎんぞ」
 ナバホ族は石台にのぼり、五人の周囲をとりまいた。獣のような臭いが鼻をついた。ナバホの言葉でうなりを上げる。
 全員ポメラニアンのように、カールをうった長い髪をなびかせている。口もとからのぞく牙は獰猛そうだ。人間とは比べものにならないぐらいに背が高く、筋骨もゴリラのように隆々としている。こんな連中と戦争をするなんて信じられなかった。ナバホ族は人間のようにすっくと立ちあがり、その姿はまるで大木のようだ。利菜は痛む心臓をおさえる。ここは異世界なんだと、みとめるしかなかった。
 ナバホ族は、ここにいるのが子どもであるのをみとってとまどっている。ヒッピが彼らの説得にあたっていた。ビスコがその肩をつかんだ。
「きさま、ナバホの言葉がわかるのか?」
 ヒッピがうなずいた。彼はちらりと利菜をみた。利菜はかすかにうなずくことで、自分もナバホの言葉が理解できることをつたえた。
 ビスコが言った。
「ならば公用語を話すようにいえ」
 ヒッピがナバホの言葉で話をした。すると、男たちはますますいきり立って武器をふりあげた。ノーマたちはたじろいだ。ペックが訊いた。「なんていってるんだ?」
「彼らはサイポッツの言葉は、しゃべらないといってる」
 利菜はうなずいた。ナバホ族は、戦争中の相手の言葉を話したくないにちがいない。
 ヒッピが悲鳴に似た声をあげる。「こいつら、ぼくらを殺すといってる」
 ノーマが言った。「冗談ではない。我々はこんなところで死ぬわけはいかん」
 ヒッピが利菜のそばまで下がった。ペックが訊いた。「知り合いなのか?」
 ヒッピはうなずいた。彼はナバホのうちでも、とくに大柄で、豪奢な装飾のほどこされた槍をもつ男を指さし、「仮面をかぶっているのは、若長のトゥルーシャドウだ。リトルロックもいる。斧をもっているのはバロウズだ」
「ここは我らの土地だ。サイポッツは出ていけ!」
 トゥルーシャドウが共通語でいった。男たちの興奮はますます高まった。たがいにナバホの言葉でさかんに論争している。彼らはサイポッツの子どもがなぜ自分たちの土地にいると怒り、サイポッツの物がここにあるのがおかしいのだ、といっている。
 利菜は大鏡をみた。どうやらこれはサイポッツが造ったものらしい。
 彼女は自分がとおりぬけた渦が、まだそこにあるのをみとめた。大鏡の穴はちいさくなっていたが、閉じてはいなかった。真っ黒な瘴気を、ときおり噴出している。利菜は大鏡に駆けよって穴に手を当てた。
 なにも起こらない。癇癪をおこして鏡をたたくが、向こうの世界にはもどれない。
 バロウズが怒りの声をあげて、鏡に剣を振りおろした。利菜は危うく斬られるところだったが、ヒッピが肩をひいて地面にころがした。
 大鏡は台座からころげおちた。ナバホ族は巨大な槌をつかって大鏡を粉々に砕いてしまった。
 利菜の眼前で、鏡の中央にあった黒い穴が、ひゅうとしぼんで空に消えた。利菜は鏡の欠片をひとつひとつ拾いあげた。彼女はこんな世界を信じたくなかったし、理解したくもなかった。だけど、その世界への入り口だった鏡が壊れた。これがゲートのようなものだったとしたら、もうつかえなくなったのだ。
「なんてことを。大鏡を砕くなど、正気か」とノーマが抗議する。
「蛮族め! きさまらなど……」
 トゥルーシャドウの氷のような視線がビスコを射抜いた。ヒッピが言った。
「下手なことをいわないでくれ。むこうはこっちの言葉がわかるんだ」
 そのとき、ナバホ族の間から、ワークバイスがすすみでてきた。
「トゥルーシャドウ待ってくれ、彼はヒッピだ」
 トゥルーシャドウがふりむいた。
「彼はタットンの弟子だ。五年前に村にきたろう」
 ワークバイスがその場の一同に説明をはじめた。タットンはサイポッツの技術者で、戦争がはじまる前は各地の種族をまわっていた。もう初老だというのに、旺盛な行動力で、ナバホ族の村に用水路をもうけ、医術や農作物をつたえたのだ。ヒッピはその唯一の弟子で、ナバホ以外にも八つの言語をしこまれていた。
 バロウズが憎しみをたぎらせ、どなった。
「関係あるか、サイポッツはみな殺しにしてやる! こいつらはナバホの毛皮をはいだ。ナバホの臓物をひきずりだし、ナバホの魂をけがしたのだ! 女子どもを殺し、我々を根絶やしにするつもりなら、サイポッツにもおなじ災いをもたらしてやる!」
 トゥルーシャドウがノーマと向きあった。彼はこんども共通語でいった。「きさまたちはここでなにをしている。イニシエの森がサイポッツを歓迎しないことはわかっているはずだ。それとも、どこかに大人がいるのか?」
「誰もいない。この森にはぼくらだけできた」
 トゥルーシャドウはノーマの神官衣を指でなぞった。「きさま、儀式の神官なのか? ハブラケットはどうした?」
「それは先代の神官だ。彼らはみな罷免になったんだ。ハブラケット様はぼくらに儀式を伝えてきたが、いまは幽閉されている」
 トゥルーシャドウたちがざわめいた。
 ノーマが訊いた。「ハブラケットさまを知っているのか?」
「なんどか、この森であったことがある」
「おれたちはハブラケットたちを、森の外まで送りとどけたこともある」
「ワークバイス、余計なことをいうな」バロウズがどなった。
「悪いがおまえたちにおなじことをしてやるつもりはないぞ」トゥルーシャドウは利菜をあごで指した。「その子はなんだ? サイポッツではないな」
 トゥルーシャドウが見たところ、血を流しているのはこの子だけのようだ。
 ノーマはこれまでのいきさつを説明した。ハッツ王を呼びだそうとしたこと、すると利菜が出てきたこと。
 ナバホ族はその話自体を信じていない。
 ノーマが言った。「聞いてくれ、戦争を仕掛けたのは、サイポッツのなかでも一部のものなんだ。彼らが兵隊をうごかして……」
 バロウズがノーマをはりとばす。彼は棒のように地面にころげた。
 利菜はきっとバロウズをにらみあげる、疲労を忘れてつかみかかった。
「ちくしょう、あんたのせいだ! あたしはほんとにこの大鏡をぬけてきたんだよ! それを壊したら、もう戻れないじゃないか!」
 バロウズは利菜が女の子どもであるのを知って、乱暴にはあつかわなかった。彼は右手で利菜の頭を押しやりながら、トゥルーシャドウにきいた。
「この子はなにをいってるんだ」
 トゥルーシャドウは肩をすくめた。利菜はナバホ族の言葉で怒鳴った。
「おまえらのせいで、もとの世界に戻れなくなったっていってるんだ」
 利菜は地面をたたき、その場に泣きくずれた。彼女の癇癪に男たちは毒気をぬかれてしまった。
「おまえ、ナバホの言葉がわかるのか?」
 トゥルーシャドウが言った。利菜は腕でまぶたを押さえたまま、うなずいた。
「ほんとうにおまえの仲間ではないのか?」
 ワークバイスがヒッピに訊いた。ヒッピはどう答えていいかわからなかった。
 バロウズが斧をふりかぶった。彼はノーマとビスコに向かっていった。「どのみち、こいつらはもう大人といっていい年じゃないか。サイポッツは女子どもも容赦なく殺したんだぞ」
 ヒッピはバロウズの前に立ちふさがった。
「やめてくれ。村ではあんなに協力してくれたろう。博士やぼくによくしてくれたじゃないか」
「そんなことは、忘れた。そんな記憶は、もうおれのなかにはないんだ」
 バロウズは斧を振りかぶってはいたが、それを振り下ろせないでいた。
「戦争をしかけたのはきさまらだ」
「あやまるよ。たしかにぼくらが悪いし、それに……」
 今度はバロウズも本気で怒った。「あやまってなんになる! 我々の仲間が生きかえるのか! きさまら死者を呼びだすといっていたが、ならば死んだものを呼びもどせ!」
 利菜は顔をおおっていた手をどかした。バロウズたちの怒りが、苦しみがわかったのだ。バロウズの発する怒気はあまりにするどく、それはそのまま利菜の心に入ってきた。彼女は顔を上げた。けれど、疲労のあまり目がよくみえない。
 ノーマが立ち上がる。頬はぶっくりと腫れ上がっている。骨が砕けるほどの激痛のもとでいった。
「トゥルーシャドウ。ハッツ王が死んだかもしれないんだ、幽閉されているのかもしれない。国の要職にあったものは、暗殺されたり、牢獄にいれられたりしている。貴族の間もむちゃくちゃだ。平民たちは反乱をおこそうとしている。ぼくらの国はもうだめだ」
「それがわれわれになんの関係がある」
 利菜が言った。「関係あるわよ」
「なんだと?」
 利菜はトゥルーシャドウをみあげた。いってやろうと思った。こんなことになったわけを、人の心に働きかけるわるいものがいて、そいつらがみんなを操っている。でも、利菜はその相手の正体を知らなくて、うまく言葉にできなかった。トゥルーシャドウは涙のむこうでにじんだ。
「我々はハッツ王の死をたしかめるために大鏡まできたんだ」
 ビスコがいうと、トゥルーシャドウは笑い声をあげた。
「きさまらのような小僧があたらしい神官だと。それもたったの五人でか」
 ビスコは吐き捨てた。「三人だ。神官になれるのは貴族だけだ」
「トゥルーシャドウ、そいつらのいうことを聞くな。サイポッツの申し出はすべて嘘いつわりだ」
「みんなきいてくれ」ワークバイスが子どもたちを守っていった。「この子たちは生かして村につれ帰るべきだ。人質になるし、サイポッツがわのことも訊き出せるだろう」
「子どものいうことなどなんになる」
「だが、神官になったものなら、サイポッツのうちでも身分は高いはずだ」
「やつらの位階などくだらん。われらには無意味なものだ」
「破壊された村をたて直すためにも、サイポッツの技術者が必要になる」
「くるしい言い訳だな、ワークバイス」と若長は言った。「この子はタットンの弟子にすぎん。再建の役にたつとは思えんぞ」
 トゥルーシャドウの憎しみは誰よりもふかかった。ワークバイスはさらにいった。
「この子たちは兵隊じゃない。大人が起こした戦争にまきこむつもりか」
 バロウズが静かにいった。「おれはこいつら全員の生皮をはがねば気がすまんぞ。我々の氏族がうけた痛みを、この場でかえしたいのだ」
「それでおまえの傷がいえるとは思えない」彼はその場にいるみんなにいった。「そんなことをしても、自分を恥じるだけだぞ」
 ワークバイスは黙った。もう多くを語らなかった。ナバホ族は自分の心に問いかけた。彼らが迷ったときにするのは、内なる声を聴くことであり、感情に身をまかせることではなかったのだ。
 何人かが、トゥルーシャドウに言葉をかけた。彼らは子どもたちを集めると、後ろ手に縛りあげた。
「名言だったな、ワークバイス」リトルロックがワークバイスの肩をたたいた。「つぎの族長が必要になったときは、おれがおまえを推挙してやる」
 利菜は荒縄で手首をかたく縛られた。頭が痛み、眠くてしかたなかった。もう眠いのをとおりこした。全身がしびれ、呼吸もとまりかけていた。疲労のあまり、脳活動が停止しかかっていた。視界がかすんで、彼女はとうとう膝をついた。感覚がなくなり、全身が冷たくしびれあがった。意識をなくし、彼女は倒れたのだった。


◆ 第六章 五人の逃避行


○ ジノビリ暦元年 ――地下回廊にて

□    十

 広い王宮の一角で、フロイトはひとり苦しんでいた。自分が狂気と正気の狭間にいるようだった。
 やったことは正しかったのか?
 その疑問がたえず胸のうちにある。目をそむけようとしても、疑惑が、沈もうとして沈まぬ浮き葉のように浮かびあがってくる。相談しようにも、まわりにはまともな人間がいなかった。一人も。
 フロイトは、貴族のなかでも高貴な家柄に生まれた若者で、あたらしく親衛隊の一員となってからは、一年以上がたつ。はじめは、厳正な審査のある親衛隊に入隊できたことが誇らしくもあった。だが、いまではその旗印も自分も、すっかりうす汚れた気がする。
 フロイトがスミスを殺したのは、親衛隊隊員となって、まもなくのことだった。
 スミスというのも不思議な男だった。王宮のなかで絶大な権力をふるっているにもかかわらず、出自も階級も不明で、おもてだった役職にすらついていない。それでいて、国王であるハフスのつぎに権力がある。どんな大臣も、スミスの言葉にはさからえないようだった。
 スミスは寡黙な人間だ。自分のもつ権威に関心がなく、だからこそ大臣たちはこの老人を畏れたのだ。ハフスはこの老人に全幅の信頼をおき、重要な相談は大臣よりも彼にしていた。そのスミスが、うらわかいフロイトを信頼し、特別な任務をあたえたのは、偶然の出来事というほかない。
 その任務をあらたに請け負ったのは、自分とヒルギス、トルバーンという三人の若者だった。三人とも王宮に仕えはじめたばかりというほか接点はなく、それぞれの役職もまったくことなっていた。ヒルギスは文官であり、トルバーンは裁判所の役人だ。スミスがあたえた任務につかなければ、顔をあわすこともなかったはずの人材である。その点、スミスの人選は巧妙だった。三人とも身分がたかく、なにか事をおこせば失うものが多かった。秘密のもれる危険性が低かったのだ。
 といっても、フロイトが、自分のほかに任務についている者があるのを知ったのは、ずっと後のことだった。スミスは、人数すらも明かさなかったのだ。交代で任務につくと聞いて、フロイトは他人の存在を知ったのだった。
 スミスは任務につくにあたって、ほかの任務者の詮索を禁じた。集まって話をすること自体を嫌っていた。もし、このことが外部にもれれば、誰がもらしたかに関係なく、いずれもが姿を消すことになると言った。フロイトはその時点で、親衛隊隊員となった自分の未来に、傷がついたことを知った。
 任務は変わったものだった。彼は夜間、その存在を知ることもなかった地下回廊に降りていくことになった。その回廊の存在自体が秘密なのだった。
 その場所に食事をはこんだ。回廊は荘厳な雰囲気にみちていた。スミスはその回廊のことを恐れているようだった。フロイトがそう感じただけかもしれない。だが、目には緊張がはしり、彼がはっする空気は緊迫感にみちていた。
 不思議なことに、その回廊には誰もいなかった。廊下をすすむと、床に目印があった。スミスは、その印より先にすすむことを禁じた。食事だけを、印のむこうに置けと命じた。
 フロイトは、食事を置いた。トレイのスープからは、湯気がたっていた。スミスは、後はその場所から立ち去ることだけを命じた。
 フロイトにはわからなかった。誰もいる気配がなかった。なのに、食事を置いた。誰かが食事をしているはずである。それに、回廊におりると、位置感覚が狂うような気味の悪さがあった。
 フロイトはその仕事を、生まれついての勤勉さでつとめた。その仕事は三日に一回めぐってきた。が、親衛隊士の本道ではない。このような待遇をうける自分がみじめでもあり、選んだスミスに恨みがましい気持ちをおぼえた。
 そのようなささいな感情が、本物の憎悪にまでとって変わったのは、回廊に奇妙な現象が起こりはじめてからだった。

 所定の位置に食事を置いた瞬間、うなり声を聞いた。恐怖を感じるよりもさきに、学んだ武芸が体をつきうごかしていた。身をひねらせて、位置をかえると、危険をだっしたと見て剣をぬいた。
 だが、そのときは、回廊には誰もいなかった。そのときは。
 フロイトは幻聴だろうと考えた。回廊におりるたびに感じる、現実感覚のなさが原因だろう。あの場所ではまるで夢のなかにいるように、体の感覚が、うすれる。ともあれ、誰にも話すことができないのは苦痛だった。誰にも相談することができないまま、フロイトはつぎの回に、人の姿をみた。
 彼はその男と目があった。大柄だが、鎖につながれている。なぜか男のいるあたりは、ぼやけてよく見えなかった。
 男にも自分が見えているようだ。
 彼が鎖を引きずり、立ち上がった瞬間に、フロイトはその場を逃げだした。

 任務をつづけることは困難になった。
 フロイトはなぜかその男のことを忘れることができず、夢に見、そして白昼夢まで見るようになった。まるで、男が頭のなかにいて、どこまでも追いかけてくるようだった。
 そして、その男の姿は、思い出すたびに鮮明になってくるのだった。
 フロイトはしだいにその男の概容を知ることになった。男はスミスをこえるような老人で、やせほそり、重い鎖のために手首足首に傷をおっていた。髪ものびるまま、服もきたままになっている。男がいるのは、回廊ではなく、一室だ。石のベッド、排泄物をながすための簡易トイレがある。なぜそんな場所にいるのか、そして、生きながらえることができているのかがわからなかった。
 二日目になると、フロイトは、その場所が鉄格子でふさがれていることを知った。男は囚人なのだ。
 そして、また彼の番がやってきた。
 フロイトはなんども回廊におりた。なにも見ないこともあり、男に会うこともあった。老人の発散する、狂気ともとれる威光にうたれ、フロイトは逃げだすのがつねだった。男は囚人だというのに、覇王のような威厳をまとっていたからだ。
 フロイトは悪夢にうなされるようになり、やがては眠れなくなった。ある言葉が、なんども脳裏にうかんだ。世界はねじまげられている、という言葉。
 彼は任務をやめたいと思うようになったが、やめることは不可能だった。任務はやめたいが、まだ死にたくはなかったからだ。そして、そのときがきた。
 地下回廊への扉は、城内通路の一角にある。絨毯をめくれる場所があり、その下に、回廊におりるための扉があった。フロイトはその扉をいつものように開けた。右手に食事ののったトレイをもち、左手には、ゆいいつの灯りとなる燭台をもった。
 回廊へとつづく階段は、かなり長いものだった。その階段は、おりるたびに段数がちがった。フロイトはいつしか、数をかぞえることを意識的に拒絶するようになったが、今回、その階段のさきには回廊がなかった。あの男と、一室があった。
 世界はねじまげられている。
 フロイトは、階段をのぼり、通路にもどろうと思った。もう限界だ。すべてをスミスに話そう。だが、そうするよりもさきに、あの男の声がとどいた。うなり声いがいの言葉をきいたのは、それが最初のことである。
「名はなんだ?」
 男が言った。
「名はなんだ?」
 重ねてきいた。フロイトは勇気をだしてふりむくと、食事を投げすてた。
「わたしの名はフロイトだ! きさまこそ何者だ!」
 脳みそがどくどくと脈打っている。鼻の片側から、血がながれる。
 男は鎖を鳴らして手をあげると、なぜか親指の先を舌でなめた。
「よし、通路につづく扉をしめろ」
 フロイトは急に考えることができなくなり、男がいうままに扉を閉めた。暗闇が濃くなった。
 燭台の灯りの下に、あの男がいる。
「食事は大事にあつかえ。おれにとって、ゆいいつの楽しむものだ」
 フロイトはわけもなくうなずいた。
「降りてこい。おまえにもおれが見えるとは感慨のいたりだ。この部屋にやってきたのは、きさまがはじめてだぞ」
 男の声は歓喜にみちていた。フロイトはまるでほめられたような心地がし、自然に階段をおりていた。
「あなたは何者です」
「きさまこそ、何者か知りたいものだ。おれには外の世界のことがまるでわからぬ。この次元の回廊に閉じこめられているからな」
「そうです。ここは回廊のはずなのです。なのに、いまはこのような一室となっている」
 フロイトと男は鉄格子をこして向かいあっていた。囚人であることにまちがいのない男をうやまっている。囚人の前に正座をし、話を聞こうとしている。それは男の発する得も言われぬ魅力のせいもあったが、フロイト自身の知りたいという好奇心のせいでもあった。
「おまえがいるのは、次元の狭間だ。この部屋はその狭間にある」
 フロイトは男のいっていることが理解できなかった。彼は、親衛隊とはいえ、純粋な武官であり、宮廷の儀式や伝説にはうとかったのだ。
「あまりここにはいれません。帰りが遅いと、スミスさまに怪しまれます」
「スミスか」
 男が大声をはっした。フロイトのもつ燭台の火がゆれた。
「いや、すまん。あの男とはな」
 声の響きには、歓喜とも怒りともとれぬ震えがある。
「気にすることはなかろう。次元の狭間に時間は無意味というものだ。それよりも、次元のねじまがりがもどったときに、きさまがどちらの世界にいるかだ」
 ねじまがり、と聞いたとき、フロイトは過剰に反応した。男のいっていることが、なんとなく理解できた。信じられない気持ちだが、無下には否定はできなかった。彼ははやく引き上げたくて、立ち上がった。だが、知りたいという欲求が口をついてでた。
「あなたはなぜここに……」
 男は手を上げて、フロイトの質問をさえぎった。
「まず、おれが何者であるかに答えよう」
 フロイトは地上へとつづく階段が消えていないかとふりむく。
「さまざまな名で呼ばれていたものだが、きさまにはトレイスと名乗ってやる。そのほうが、後々わかりやすかろう。おれがここにいるわけだが、それはハフスと、きさまの知るスミスという男にはめられたからよ。おれをこの場に封じたのは、エビエラという魔女だ」
 フロイトの胸裏に、さらなる疑問がふくらんだ。
「あなたがいう、ハフスとは、前国王のことですか?」
「ほう、国王か」とトレイスは喜色をうかべる。「あの男がな。おれの後釜にすわったわけだ」
 後釜だと? どういうことだ?
「しかし、あなたのいうエビエラは……」
「みろ、フロイト」
 トレイスは言った。フロイトは背後をかえりみた。彼の眼前で空間がゆがみ、低くうなるような奇妙な音がした。
「次元の扉が閉じようとしている。おれたちはゲートとよんでいたがな……」
「わ、わたしはもう、失礼する。あなたは囚人だ。いっていることはまやかしだ」
「そうかな。では、スミスはなぜこの場所を秘密にする、おまえたちに食事をはこばせる。すべてを訊いてみることだ! おれはおまえの思ういじょうの者だ! もういちどここにこい! おれがほんとうは何者なのかを、きさまに教えてやる!」
 フロイトは階段を駆けのぼりはじめたが、急に心変わりがしてふりむいた。
 彼は、トレイスに向かってこういった。
「エビエラという人物を、私は一人しか知らない。三百年前に生きていた人だ」
 その瞬間、トレイスはすさまじい怒気をはっし、何事か吠えたが、フロイトにはもはや耳にとどかなかった。彼は、ただ、命からがら逃げだしたのである。

 フロイトはスミスにすべてを話そうかと思った。地下回廊に、秘密のはずの牢獄が出現していると。だが、そこにいる男と話したなどと言えるだろうか? 自分が秘密をにぎったと? とても、できないことだ。
 フロイトは秘密をかかえたまま宿舎にもどり、トレイスとの会話、あの男がはっした言葉の数々を思いおこした。
 トレイスはおかしなことをいっていた。彼の言葉を推測するに、自分が元国王だったといっている。しかも、あの男がいたのはこの世でないどこかべつの世界。その部屋をつくったのは、三百年前に死んだ、魔女のエビエラだと言う。
「その魔女がとじこめたのだとしたら、あの男は三百歳なのか?」
 布団のなかで、フロイトは声をあげて笑った。高く、高く、笑いつづけた。
 やがて、眠れぬ夜がやってきた。
 二人が交わした言葉は数すくなかったが、フロイトはすぐにあの老人が危険な男なのだとさっするようになった。なによりも危険なのは、思想よりも、全身からはっする魅力だ。あの老人は人を惹きつける、人心を掌握する術にたけていた。その昔、国王であったとしてもおかしくはない。
「ばかな、あの男の言葉をうのみにするのか……」
 だが、たしかめる必要はあると思った。一考する価値はあると。
 機会はすぐにやってきた。城の堀で自殺体があがり、スミスからは、食事をはこぶ回数がふえると告げられた。それがヒルギスという男で、その男も任務にあたっていたと推測された。
「トレイスは、きさまにもおれが見えるのかといっていた。きさまにも、と。ヒルギスも、トレイスに会ったということか?」
 事実の重みに耐えきれなくなって、死んだのだろうか?
 フロイトが任務につく回数は、二日に一度になった。しかし、トレイスはなかなか現れなかった。ぼんやりと見えそうになることもあれば、まったく何事もない日もつづいた。つまるところ、自分があの男に会ったのは、偶然であったのだ。ヒルギスの死も、あるいは偶然なのかもしれない。
 フロイトはその瞬間を待ちかまえ、せっせと食事をはこびつづけた。そして、その時はやってきた。

 回廊の下の、牢獄を目にする以前から、フロイトはトレイスの出現を予言していた。体の状態が、老人の出現を予告していた。鼓動がたかく、かるい興奮状態にあった。頭の回転が高まって、すべてが見通せるかのようだ。
 フロイトは、階段を慎重におり、鉄格子の直前に丁重においた。自分がまるで国王にたいするような粛然とした態度をとっていることに気がついても、もはや驚かなかった。
 トレイスは以前とかわらず、傲然としていた。
「ヒルギスは死にました」
 トレイスはうなずいた。だが、おまえは生きている、と語らずも、伝えているかのようだ。
「あなたは国王なのですか?」
「おれは王ではない」
 フロイトは心がゆらぐように体を揺する。
「では、あなたは、あなたは、なんなのです」
「おまえがおれをここからだすというのなら、おまえに、おれの夢を、理想を、すべてを見せよう」
「あなたをここから出す……」
 夢物語のような気がした。
 フロイトにかすかにのこった理性は、この男が正気ではないと告げていた。この男は気が狂っている。以前はまともだったとしても、こんな暗闇の一室で、何十年だかわからない年月を過ごしてきたのだ。
 フロイトは額に手をおしあてる。「わたしの頭のなかに、言葉がうかぶ。世界はねじ曲がってなどいないのに」
「いや、世界の崩壊はすすんでいる。着実にな」
 トレイスはいつのまにか鉄格子の側にいて、鉄の格子をその手でつかんでいた。
「きさまにひとつ聞きたい。エビエラは本当に死んだのか?」
「エビエラという魔女なら、一人しかいません。死んでから、三百年がたっている」
 トレイスは突然、額を牢獄にうちつけた。
「死んだだと? あの魔女がか!」
 トレイスは叫んだ。
「なぜあの女が死んだ! あの女はおれが殺すんだぞ! このおれをこんな牢獄に閉じこめた! たかが、サイポッツにすぎんあの女が! このおれのなんたるかも知らないあやつらが!」
 トレイスは格子から手をのばす。
「エビエラが死んで三百年がたっただとお! ならばなぜハフスとスミスが生きている! ほかの連中はどうしたあ!」
「おやめください! おっしゃっている意味がわかりません」
「ならば、スミスを殺せ! 鍵をうばい、おれをここから出せ!」
「ばかな、そんなことができるはずが……」
 あとずさろうとしたフロイトは、地面におかれた食器に足をかけ、転んだ。トレイスが、格子のすきまから手をのばし、フロイトの胸倉をつかんだ。
 その瞬間、電流が走ったように、フロイトの思考が停滞した。まるで遠いかなたから、自分の体をみているようだった。
 誰かが体のなかに入りこんでくる。
「スミスを殺せ、鍵を奪え。そうすれば、きさまにすべてを見せてやる」
 フロイトはうなずいた。燭台を捨てると、剣を引き抜き、階段を上った。
 そして、スミスを殺した。
 フロイトは血まみれの手で、震えながら、鍵穴にいくつも鍵をとおした。
「どれもあいません。スミス様は鍵を持っていなかった。そんな重要な鍵を持ち歩くはずがない」
 絶望したように泣いている。トレイスはいつくしむように撫でた。
「案ずるな。きさまはよくやった。おれにはわかるぞ。あの男が今夜、鍵を手にしていたと。なぜならば、世界にはおれが必要だからだ。そうでなければ、なぜ次元の屈折がここまでおよぶ。さあ、鍵をあけろ。この鎖を解きはなて! そうすれば、すべてを始まりにもどしてやる」
 その言葉とともに、鍵穴が、カチリと音をたてた。
「え?」
 フロイトは涙にくれたまま顔を上げる。「はじまりとはなんです」
 扉が開き、トレイスの手が、頭にのった。
「それを教えてやる。さあ、鎖を断ち切るがいい! 終わりとはじまりが見たければ、やるんだ!」
 フロイトは剣で鎖を断ち切り、すべてを見せられた。それは、トレイスの記憶、トレイス以前の男の記憶だった。男のいったとおり、フロイトには、そのほとんどが理解できなかった。男が送りこんできた情報の量はとてつもなく、それだけで、脳回路のいくつかが焼き切れたほどだった。
 すべてが終わったとき、フロイトは、気を失っていた。目覚めた後も、廃人同然にちかかった。次元の扉は閉じていた。二人はその場で、つぎの機会を、ゲートが開くのをまちかまえた。

 それからは、あっという間のことだった。フロイトは城の一角にトレイスをかくまい、城内の有力者を引き合わせた。トレイスはつぎつぎと信奉者をふやし、誰にも知られることなく、勢力をましていった。親衛隊を配下にくわえると、現国王であるダッタすらも支配してしまった。一年たったいまでは、大臣をも掌握し、軍と政治の全権をにぎっている。
 最初のうち、フロイトにとって、トレイスの話は崇高ですばらしいものだった。だが、日を得るにしたがって、気が狂っているのではないかと思えてきた。
 何千年もの年月を経たかのような表情。長い白髪を切ろうともせず、台座から周囲を睥睨している。全身の立ち居ふるまいは精気にみち、声は熱気をおびている。低くはっするのに、晩餐の間をゆるがすようだ。フロイトら、配下の臣は、はっとして顔をふせた。男が怒っていたからである。
「神官はすべて捕らえろと言ったはずだ」
 大臣が、冷や汗をかきながら、進みでる。
「僭越ながら、陛下。神官職にたずさわった者は、のこらず幽閉いたしております」
「では、なぜ、ゲートが開いたのだ!」
 トレイスの怒声に、一同がたじろいだ。
「と申しますと?」
「神官をとらえたのならば、儀式を知る者はいないはずだ。だが、異界から人間を呼びよせた者がいる」
 フロイトらは困惑した(フロイトにのみはトレイスの言葉がつうじたが)。彼らは親衛隊であり、儀式に精通するものがいなかったからだ。武官である彼らには、古めかしい儀式など、たんなる儀礼としかみていなかったのだ。
「新しく神官職に就任した者がおります」
「ばかな。ハブラケットが教育にあたったのは、わずかな期間にすぎん」
 トレイスは考えた。ゲートが開いたのはまちがいない。イニシエの森での出来事のようだ。あそこには、大鏡がある。ゲートを開ける神官はすべて捕らえたはずだ。誰が開いたのだ?
「イニシエの森には、エビエラが住んでいたはずだ。あの魔女は、本当に死んだのか?」
「陛下のおっしゃる老婆が、我々の知るエビエラなら、生きてはおりますまい。存命したのは数百年と昔のことです」
「ではなぜ、ハフスは生きていた……」
 ハフスが三百年も生きていたことは、彼とフロイト以外は誰も知らない。
 トレイスには、わからなかった。ただのサイポッツであるハフスが、三百年も生きたこと自体が異常だった。生きながらえる方法があったのだとしたら、なぜエビエラは死んだのか、解せなかった。エビエラはハフスにとっても最も重要な人物のはずだ。
「エビエラではございませぬが、あの森にはたしかに魔女がおります」
「なんだと? 名はなんという?」
「マーサと申す老婆でございます。くだんのうわさのある人物ですが、くわしい実体を識るものがおりません。ハフス大王とちかしかったのは確かですが……」
 トレイスは大臣に注目した。
 あの女と同じ名だ……。
「マーサというのは、エビエラの弟子のはずだ」
「それは本人の吹聴した噂にすぎませぬ」
 トレイスは考えた。ハフスからは、もう話は聞きだすことはできなかった。エビエラが死んだのなら、マーサが生きているとは考えにくい。だが、当時を知る可能性があるものは、マーサのほかにはもういないのである。マーサが生きているのならば、殺さずに捕らえる必要がある。
 誰が儀式をおこなったのかはもちろんのこと、いったい誰を呼びよせたのかを調べる必要があった。
 まさか、ふたたび自分が封じられるようなことはないだろうが、聖櫃がどこにあるかわからない以上、油断はできなかった。

○ 二〇二〇年六月十四日 ―― 列車内

□    十一

 高村利菜と石川紗英は、新幹線の座席で物思いにふけっていた。列車は千葉県をめざしてひた走る。それは郷里の神保町にむかう旅であるとともに、記憶をたどる旅でもあった。
 二人は駅のキヨスクでキャップ式のビールを買った。平日で車内はすいていた。おばさん二人が昼間から念いりに酔っぱらうのを見とがめる人もいない。もっとも、こんなときに酔っぱらうのはまずいかもしれない。招集のかかったときに、正体をなくすのは。
 でも、けっして酔えないような気がした。
 コンソールにおいたマグナムドライが汗をかき、利菜は列車の外をみている。窓のむこうに田園がひろがり、遠い空の下には工場群らしき煙突がみえる。
 利菜はろくな用意もせずにきた。どうせ佳代子の家にころがりこむのだし、何日むこうにいるのかも決めないままだ。決められないことだし、帰れないかもしれなかった。彼女はほとんど手ぶらで来たから、紗英はあきれてしまった。
 利菜は、また秀雄と純子のところに帰りたかった。家のなかはそのままにして来た。そうしないと、あの二人が自分を忘れることになりそうで怖かったのだ。神保町にもどりたくてしかたないのと同様、そんな強迫観念にとらわれて、彼女はすこし震えたのだった。
 紗英はプルタブをはずし、一口ビールをながしこむ。無性にタバコがほしかった。キャップをもった指がふるえる。自分では恐怖を感じていないつもりだったが、体はしっかり反応していた。
「佳代子には連絡をとったの?」
 利菜は無言だった。
「なにもいわないで行くつもり?」
 紗英は冗談ぽくわらったが、利菜は窓の外をむいたままだ。彼女はあきれたように鼻を鳴らした。
「そんなことじゃあ、ごちそうを食いっぱぐれますわよ」
 とビールを飲んだ。利菜が言った。
「通じなかったのよ」
「なんだって?」
 紗英を向いた。
「通じなかったのよ。電話をかけたんだけど……あの子が畑に出てたとかじゃなくて、呼び出し音自体が鳴らなかった」
 紗英は弱弱しくいった。「電話がおかしかったんじゃあ……」
「駅でもためした」と利菜はこたえた。「おんなじ」
 二人はだまりこんだ。しばらくビールを飲みつづけた。予想どおり、酔いがまわらない。みんなはもう一足先におまもりさまに行っているのかもしれない。
 バラバラになったらだめだ。利菜は無性にそう思う。郷里にもどれば、なにかがはっきりするのではないかと二人は思っていたが、はっきりさせること自体がいまでは怖かった。
 利菜は右手のなかでゆっくりとキャップをまわす。飲むほどに頭がすみきってくる。彼女は言った。
「佳代子たちは両神山にいったのよ」
 紗英がおどろいた。
「いつ?」
「今年の四月――あの山のこと、どのぐらい覚えてる?」
 紗英が首をふる。利菜は彼女をじっと見た。
「あの山にキャンプ場ができてるんだっていってたわ。草原がひろがって、ロッジもできたし、アスレチックもふえてるらしいのよ」
 紗英はうそ寒そうに腕をさすった。
「なにがあったの?」
「わからない。くわしいことを言わなかったから。でも、佳代子のやつ、あたしが子どものころ、一人で迷ったんだっていってた」
「覚えてるの?」
 利菜は頭をかいた。「ほとんど覚えてないなあ。佳代子はあのとき国村さんの死体をみつけたっていうのよ。でもぜんぜん覚えてないんだよね」
「あんたが覚えてるわけはないのよ」紗英はビールをコンソールに置いた。「その時にはもうはぐれてたんだから。アスレチックか……あれも国村さんが作ったんだよね」
「うん。あのあとも、草原はひろがったんだね」
 なんだか、あの山が人を呼びよせていたような気がして、利菜はうすら寒いような心地がした。
 紗英は言う。「あたしたちは国村さんの死体をみつけて、警察を呼んでもらったのよ。あんたの親父さんがおまもりさまに入ってきて、あんたのこと、さがしてたわ。佳代子のおばさんが警察を呼んで、あたしたちはおまもりさまの外に出されたのよ。駐車場にパトカーが何台も停まってて、帰りはパトカーに乗せられたんじゃないかな。とにかく大騒ぎだったわけ。佳代子はおばさんにぶっとばされるしね。あんたの親父さんは警察にこってりしぼられてた」
 ほんとに……と利菜は呆然とする。シートに頭をあずける。窓の外に瞳をむけた。田園が雨にけむっている。神保町にちかづくほどに、天気が悪くなっていくようだ。故郷が、ちかくなっていく。
 二十五年の月日もちぢまっていくようで、怖かった。利菜はあの日の天気もこんなふうだったと思い出す。早朝は晴れていたのに、急速に曇っていった、あの日。
 一九九五年八月十九日――

○ 両神山

□    十二

 達郎たちは山にはいれなかった。警察がくる二十分ほどの間、子どもたちも俊郎も、狂ったように利菜をさがした。
 捜査員が山にわけいってくると、利菜の捜索は警察にゆだねられた。
 おまもりさまは閉鎖され、子どもたちは外にだされた。
 駐車場にはパトカーが何台も停まっている。佳代子の母親は、娘に暴行をくわえて、いまはそのパトカーのなかにいる。厳重に注意をうけているようだが、今夜は血の雨がふるだろうと紗英は思った。寛ちゃんに、今日も泊めてくれっていわなくちゃ。
 おまもりさまは蔓網をきり裂かれ、大きくその口を開けていた。大勢の捜査官と地元の消防団が、入り口を出入りしていた。回転灯のあかりが、定期的に子どもたちの顔を照らしていく。
 みんなは不安げにおまもりさまを見ている。
 おれたちがいかなきゃ、みつけられっこないのに、と寛太がささやいた。達郎がうなずく。警察はこれを殺人事件と断定して捜査している。利菜のことは、山にのこっていた殺人犯が連れさった可能性があるといっていた。それらはただしいようで間違いだった。その点では、子どもたちの見解と、大人たちの見解は大幅にちがっている。
 連れさられたのは本当だけど、連れさったのは警察が考えるような殺人犯じゃない。人間ですらないかもしれない。
 佳代子は母親に殴られて、鼻血をずるずるすすっている。今回ばかりは、叩かれても文句はいえなかった。いけないことをしたのは本当だ。それに、山にはいったわけなんていえない。事情を誰にもいうことができず、子どもたちはつらかった。警察や消防の視線が痛かったし、なによりも利菜のことを思うと、いてもたってもいられなかった。
 警察は捜索とともに、現場検証もすすめている。佳代子は手をあわせて祈るしかなかった。利菜の母親はここにはいないんだから、自分が祈ってやるしかない。あの子は霧のせいで迷っただけで、ちゃんともどってこられるんだと、疲れきった頭で信じるしかなかった。警察犬だっているし、大人があんなにおおぜい森にはいっている。だから、おまもりさまから、戻ってきますように……
 だけど、時間はいたずらにすぎていくばかりで、利菜のことは痕跡すら見つけることができなかった。
 午後三時をすぎ、ついに心配していた雨が降りはじめた。驟雨が山をおおい、本物の霧がはりだした。警察からはいったん自宅にもどるようにいわれたが、きくものはいなかった。パトカーのなかで、利菜の無事を思って祈りつづけた。だけど、彼らの結束は、メンバーが欠けることで切れかかっていた。彼らもそのことを知っていた。自分たちは、もうおしまいだ。
 そのころ、利菜は両神山にはいなかったし、佳代子たちが想像するおまもりさまにもいなかった。見知らぬ森にいて、消耗しきっていた。彼女の脳は焼き切れかかっている。ひらたくいえば、死ぬ寸前だったのだ――

○ ジノビリ暦三年 ――イニシエの森

□    十三

 ノーマたちの計画では、昼のうちには、儀式を終え、帰途についているはずだった。国に帰りつくのは、二日後の予定でいた。それ以上日がのびるのはまずかった。屋敷にいないことが発覚したら、どんな罪に問われるかわからない。いまどきは、まっとうな理由などなくとも、おとしめられることが多かったからだ(逆にいえばこの三人は、そのドサクサに神官になったといえればいえるが。それとても彼らの意思ではなかったのだ)。
 ビスコは、この国事多難なときに、ナバホの村などにいって時をすごすわけにはいかん、きさまらだけで行け、といって、年若の少年たちをこまらせた。ノーマは、ヒッピがいたからたすかったんだ、まっさきに殺されるとしたら、役にたたんおれときさまだ、といってビスコをだまらせた。
 大鏡からでてきた女の子は、いまも眠ったままだ。高熱をだし、ノーマが背中におぶっている間も、ずっとうなされつづけていた。耳慣れぬ言葉をうわごとのようにしゃべり、少年たちを気味わるがらせた。
 トゥルーシャドウは村に帰りつくことができずにいらいらしている。ナバホ族だけなら、日没までについていたはずだ。サイポッツの子どもなど、たたき殺して帰ってしまいたかったにちがいない。ヒッピの存在がなければ、いまごろ命をなくしていたことを、ビスコもみとめざるをえなかった。
 イニシエの森に日がしずみ、ナバホ族は道程なかばにしてキャンプを張ることになった。焚き火の明かりが、毛布をかぶった血まみれの子どもを照らしている。その子は、細胞が煮えたぎるような熱を発散している。びっしょりと汗をかき、唇はかわいていた。ときおり痙攣をおこし、少年たちを心配させた。
 ヒッピはワークバイスがくれた水をタオルにしませ、利菜のひたいに置いた。自分の頭も熱っぽかった。時間がたてば、この不可解な精神のつながりもとだえるのではないかと思ったが、甘い期待であったようだ。これ以上、利菜の精神がはいってこないよう、ヒッピは苦労して意識の遮断につとめていた。利菜のことは気の毒だったが、このまま精神の同化がつづき、自分の苦しみもつづくのなら、いっそ死んでくれればと、不道徳なことを思い、そんな自分を恥じるのだった。
 利菜はときおりうめき声を上げ、それが四人の少年をいっそう不安にさせ、かつ後ろめたい気持ちにさせた。この世界に呼びこんだと責められたことが、身にこたえた。正直なところ、習いおぼえたばかりの儀式が、こんな結果をおよぼすとは、考えもしなかったのだ。ハッツ王と交信がとれるかもしれない。生きて幽閉されているのなら、救いだすことができるかもしれないという英雄的なもくろみは、簡単についえてしまった。
 ビスコはノーマたちの口車にのって、ここまできた自分を悔やんだ。おなじ神官でありながら、ついてこなかったマオたちを呪った(この四人は信用ならず、誘われもしなかったのだが。彼だって知らないほうがいいこともある)。
 四人はすきをついて逃げだすチャンスをうかがったが、トゥルーシャドウたちはいずれも勘がするどく、つねに彼らの目玉がはりつくような心地がした。一見くつろいでいるように見えるが、こちらに注意をむけているようだ。
 焚き火に枝をほうりながら、ノーマは考えぶかげにいった。
「バロウズのいっていたことは本当だろうか?」
「兵隊が虐殺をおこなったという話か?」
 ビスコがつぶやいた。
 ヒッピとペックは、二人の青年の会話をおとなしく聴いていた。まだ子どもといっていい二人には、虐殺など想像もつかない話だ。
「戦争をしているのは知っていたが、皮をはいで、女子どもを殺したというぞ」
「声を低めろ、やつらに聞かれる」
 耳がいいからな、とビスコは付け足した。
 四人は、自分たちに割り当てられた焚き火をかこんでいる。ナバホの男たちは焚き火もつかわずに、思い思いの場所でくつろいでいる。
「毛皮の売買なら、話に聞いたことはある。父も何着かもっている。あのなかにナバホ族が入っていたとは知らなかった……」ノーマの青い目が、焚き火の明かりで揺らめいている。「あれがほんとうだとしたら、最悪だよ。われわれはとんでもなく憎まれてる。あいつらの怒りをみたか? とても嘘とはおもえん。サイポッツ同士でも、処刑やリンチが頻発してるんだ。徴兵つづきで、兵隊の中には素性の知れないやつらも大勢いる。そいつらがきっと犯罪を起こしてるんだ」
「どっちにしろサイポッツはもう終わりだ。考えてもみろ、おれたちはあらゆる種族と戦ってる。近隣のあらゆる種族とだぞ。いまは勝っていても、そのうち袋だたきにあうに決まってる。兵隊の数がどんなに多くたってむだなんだよ。止めるには、いま国王のまわりにいる宰相たちを牢獄にたたきこんで、戦争をやめさせるしかない。いや、牢獄にはいれるだけでは足りんぞ。戦争のために平民から搾取して、悪政をひきまくっているんだ。この怒りをやわらげるには、あの連中を公開で処刑するしかないんだよ。なのに、おれたちはここから逃げ出すこともできん」ビスコは眠っているように見えるナバホ族のほうを見た。「眠っているようにみえるが、どいつも逃げ道をふさいでる。やつらの勘のするどさは異常だ。おれは逃げようと考えただけで引きずりたおされた」
「まさか、偶然でしょう?」ペックが言った。
「おまえはあいつの目を見ていないからな」ビスコは焚き火に石をほうった。
 ヒッピは考えぶかげにいった。「この森にもサイポッツの兵隊が来ているんでしょう。なんとか連絡をとれないんですか?」
「とってどうする? 兵隊でもないおれたちがここにいることを、なんと説明するつもりだ? 宰相どもよりさきに、こっちが縛り首にあうさ」
 とビスコは言ったが、自分をこんなところに誘いこんだ三人のことを責めはしなかった。ノーマはすこしだけ彼のことをみなおした。ビスコをさそったのは、彼が現在の国政に不満をもっていたからだ。強烈な差別主義者である考えを、この機会にかえておきたかった。ノーマは身分の差がありながら、わけへだてなくつきあっている子どもたちの姿をみせることで、自然に感化できるのではないかと考えていた。
 ヒッピとペックは顔をみあわせる。少年たちは、不安げに首をふるばかりだった。
 四人はそんな話に夢中になっていたから、その女の子のまぶたが痙攣し、夢をみていることを知らなかった。彼女は眠っているあいだも、もとの世界にもどる方法を考えつづけていた。
 その微睡みから、覚めかけていたのだ。

□    十四

 上原利菜は考えていた。その夢では熊や狼に襲われ、なめ太郎や溺死女に姿を変えたわるいものに追われつづけた。坪井の家では首を絞められ、寛太の家では殺人鬼に肌を刻まれた。そんな夢のなかで考えていた。心のどこかでは、ナバホ族にとらわれた状況を憂い、逃げ出す方策をもとめていたのだ。
 利菜はおまもりさまのことを考えた。あのときは想像が現実化した。頭のなかの考えなのにほんとになった。
 催眠術にかかると、火の棒をもっていると暗示をかけられたとたんに、ボールペンを持っていても実際にやけどを負うらしい。持っているのはボールペンのままなのに、火ぶくれを起こしたりする。思考が現実化する。そして、それは伝播するのではないのか?
 紗英のお化けである溺死女が、ある時点でみんなのものになった。草原では、利菜の想像がみんなに伝播した。彼女が、なめ太郎の話を最初にしたのだ。なめ太郎はみんなの想像がくっつきあって、だんだん強力になっていった。勝手にそうなったのだ。意識してやったわけじゃない。知らないうちに、みんなでわるいものを育ててしまった。
 彼女たちは、幻覚や幻聴を、ある程度はコントロールすることができた。押さえこむことができた。でも、その逆はどうなんだろう? 意識的に、わるいものを引きだすことは可能なんだろうか?
 そして、思考は伝播する、つながりあう……佳代子たちやヒッピとつながっていたように、心はつながりあう――
 だんだんはっきりしてきた。頭の中のひらめきに過ぎなかったものが、形をとってあらわれてくる。胸がかっと熱くなる。
 夢うつつの中で、彼女はその考えを理解した。どうやって逃げだせばいいかがわかった。問題は疲れきった脳みそで、そんな真似ができるかどうかということだ。脳内の疲労物質の許容量は、もはや限界にちかい。いまは死にかかっているだけだが、そんな無茶な真似をしたら、ほんとうに死ぬかもしれない。

□    十五

 利菜はまぶたを開いた。目が見えず、真っ暗だった。焦点があいだす。視界がもどった。ぼやけたままではあったが。視覚をとめるほどに、脳はまいっていた。
 それでまたはっきりした。こうして目にするものも、脳が生みだしているのだ。あらゆる感覚を、脳は生みだしている。
 利菜は吐きたくなったが、胃袋の中にはなにものこっていない。それに、吐いたらいっそう気力がなくなってしまう。そんな事態はさけたかった。
「あんたたち……」
 と、そばに腰をおろす、少年たちに声をかける。使いなれぬ言葉を口にすること自体が苦痛だ。呼吸機能が低下し、息を吐くのも苦しい。
「あんたたち、いうとおりにできる? わたしをつれて逃げてくれる?」と言う。「本物の神官だっていうんなら……もとの世界に戻せる?」
「それは保障できない」ノーマが言った。
 ビスコが顔をしかめた。「とにかく、考えがあるならそれを話せ」
 ヒッピが腰をうかす。利菜が目線でそれをとめた。彼女はささやくような声で話している。焚き火のむこうにいるペックには聞こえにくいようだ。それでも、ヒッピは利菜の考えを読みとっていた。利菜がなにをするつもりか、理解していた。
「だめだ……」と彼はささやいた。「そんなことすべきじゃない。君はもう限界だ。立つこともできないんだぞ。それに、ぼくらだってただではすまない」
 ヒッピはノーマたちに話した。
「いったでしょう。この子たちもおんなじめにあっていたって。ぼくらの見た幻覚は、この子たちの考えでは、心の中の不安や畏れが現実化したものなんです。利菜の仲間はそれをわるいものと呼んでる。悪い感情や、意識の固まりですよ。そいつがみんなに影響をあたえてるんです。だから、犯罪が多発してる」
「だが、この子はべつの世界から来たんだろう?」とノーマが訊いた。「なぜまったくべつの世界で、おなじ現象が起きてるんだ」
「おなじじゃない……わたしはこっちに来てから、幻覚をみてないのよ」
「それが本当だとして……」ペックが言った。「なにをするつもりなんです?」
 利菜は答えなかった。ヒッピを見ていった。「わたしはうまくいくと思う」
「むりだ。君のいうとおりにしたら、ぼくらだって幻覚をみることになる。君の考えが正しいんなら、あれはただの幻覚ですらない。ぼくらの思っている現実は、曖昧模糊ってとこだ」
「でも、逃げるにはそれしかないよ」利菜は首をうごかし、ナバホ族に顔をむける。彼らはもう、利菜が起きていることに気づいている。「わたしたちは無意識のうちにわるいものを呼びよせてた。でも、わるいものがみんなの全体意識だとしたら、意識的に呼び出すことだってできるかもしれない」
 彼女は身をおこし、トゥルーシャドウたちを視界におさめる。
「あいつらだって、夜を怖がってる。わたしにはわかる。それを利用するしかないよ。あいつらはひどい目にあいすぎた」
 彼女は言った。みんなはなんとなくその意味をのみこみ、唾を飲んだ。
「でも、もとの世界にもどれないんじゃ、逃げたって意味なんかない。ほんとに方法を知らないの?」
「我々にはわからんが、ハブラケットさまならわかるはずだ。先代の神官長だ」とビスコが答える。
 利菜はノーマに、「逃げきれる自信はある?」
 ノーマは首をふる。「サイポッツの国までは遠いし、荷物もとられた。森はぬけられないかもしれない。難しいが、マーサのもとを訪ねればなんとかなるかもしれない」
「マーサって?」
「イニシエの森に住む魔女だ」魔女ときいて、利菜は顔をしかめた。ノーマがとりなすようにいった。「詳しいことは我々にもわからないが、そういわれてる。よもや我々を見捨てはすまい」
「マーサって人なら、ヒッピが知ってる」
 利菜が言った。みんなはぎょっと彼を見た。凍りついたヒッピの表情が、その答えだった。
 利菜は言った。自分たちはわるいものに襲われているのはしょっちゅうだ。ナバホ族とちがうのはそこだった。変な言い方だけど、ここにいる子どもたちは、わるいものに慣れていたのだ。
 ノーマが言った。
「わかった、君のいうとおりにしよう。君のことは、わたしが担いででも連れていく」
 利菜がうなずくと、ヒッピがノーマの腕をおさえた。
「そんなこと、させるべきではないですよ」
「なぜだ? ほかに方法はないんだぞ」
「この子はもともとこんな力を持っていたわけではないんです。急にできるようになったんですよ」
「どういうことだ?」
「負担なんです。この子は疲れきって、脳が爆発しそうになってる。どんな道具も限度をこえてつかえば、壊れるでしょう? この子はそれをやるつもりなんだ。これ以上、意識の集中をしたら、ほんとに死んでしまう」
 利菜はだまって、乾いた唇をなめた。血管があちこちで切れているのが自分でもわかった。右側のまぶたが半分おりて、どうしても上がらない。ヒッピが利菜の肩をつかんだ。彼女はうめいた。
「そんなまねをしたら、ぼくらだってただではすまないといってるだろう。君だっておんなじだ。わるいものの恐ろしさなら、あの森でいやっていうほど味わったはずだ」
「だから、あんたに頼みたいのよ」利菜は言った。声音の切実さに、ヒッピは息をのむ。「絶望したら、あたしは自分を殺そうとするかもしれない。そうなったとき、止めてほしいのよ」
「君とぼくは精神がつながってるんだ。君に引きずられて、ぼくだって死にたくなるかもしれない」
 ビスコが口をはさんだ。「いや、可能性はあるぞ。つまりそのわるいものっていうのは、この世界と君の世界ではべつなんだろう? 君はこの世界にきてから幻覚をみない。むこうの世界の全体意識からは、切り離されたんだ。君はべつの世界の人間だから、この世界の影響を受けにくいのかもしれない」
 ノーマはビスコの合理的な考えに舌をまいた。彼自身は、利菜やヒッピのいっていることが半分もわからなかった。このとおりビスコは割り切りのいい男で、だからこそ断罪される仲間うちを、のりきってこられたのだ。
「精神をあやつるのは簡単じゃないぞ。我々は幻覚をなくすことはできなかった」
 ノーマが言った。
「わかってる。わたしたちもおんなじだった。こうなったらやるしかない、やるしかないよ」
 利菜はノーマとビスコに手をふれた。
「みんなのことはわたしが守る。それにあいつらはもう気づいてる」
 一同は周囲をかえりみた。
 トゥルーシャドウたちは、遠まきにこちらを囲んでいた。ナバホの言葉でさけび、武器をとりだしている。すでに幾人かは森に溶けこんだようで、姿も見えず、どこから狙っているのかもわからなかった。
 ノーマたちは利菜をまもるように寄りそいあう。利菜は疲労をふり払うように頭をふると目をとじた。
「みんな力をかして」
 手を差しだすと、ノーマたちがその手をとった。利菜は再び環の一部となった。あの力が、べつの世界で、それもべつのメンバーとで出てくるのかうたがっていたが、そんな心配は無用だったようだ。(みとめたくはなかったが)彼女はヒッピとつながることで、ノーマたちとまでつながりをもったからだ。それよりもこの状態でわるいものと対峙したとき、自分を保てるかどうかだった。わるいものを引っぱりだすのは、困難ではあったが、不可能ではない。利菜はヒッピたちを通して、全体意識にふれることができたからだ。ここはおまもりさまではないけれど、ある意味ではおまもりさま以上に最悪だった。ああ、この森は悪い心でいっぱいだ。悲しみでいっぱいだ――
 佳代子や達郎を頼りたくなる心を抑えて念じた。意識を集中し、わるいものを呼びだそうとする。脳の血流がまし、体温が危険な位置まで高まる。息を吸いこむと、頭のなかの瘤が力強く脈うつ。利菜はこの世界の生きとし生ける者や、死んでいった者たちの溜めこんだ、圧倒的な悪意を感じて怖気をふるった。逃げ出したくなる心に反して、ヒッピとノーマの手を握りこむ。
 意識の奥深くへと降りていった。自分の心が生み出したイメージの中を。自我のさきには、黒々とした液体のつまった広大な海があった。利菜は意識のなかで手を伸ばしその海面に手を触れる。そのとたん、間欠泉のように水が立ちあがり利菜を飲みこんだ。憎悪、呪い、妬みが、心の奥底から濁流のように吹きだしてくる。
 利菜はコントロール力を失い目を開けた。
 円環の中心に激しい風が起こっている。真っ黒な瘴気をはらみ、渦を巻いている。利菜たちは、その黒い渦に飲みこまれた。
 利菜は息も吸えない風圧の中で、必死で目を開こうとした、目の前に鏡でみた洞穴がぽっかりと穴をあけていたからだ。虚無としか言いようのない真っ黒な穴だった。鏡がないせいか、こんどは球体になっている。
 帰れる、これで帰れる――!
 利菜はその中心に飛びこもうとした、ヒッピとノーマがその手をひいて彼女の腰を抱きよせる。
「離して!」
「やめろ、向こうで呼んでいるやつはいないんだぞ!」
 ヒピがいうと、利菜はすぐさま理解した。彼女はこの四人に呼ばれてきた。あのときふたつの世界はつながっていた。今回もつながっているとは限らない。この渦がどこに通じているのかはわからないのだ。ヒッピのいうことはわかる。でも――
「でも、通じてるかもしれない」
 それでも利菜はあきらめきれなかった。二人の手を押しのけ、渦にむかって手を伸ばそうとする。戻らないと、みんなそろってなきゃだめなんだからと、涙をこぼし、その涙だけが、渦へと吸いとられていき、それがどこへ行ったのやもわからないのだが、それでも彼女は腕を伸ばした。ヒッピともみあうことで、円陣は自然に崩れてしまった。利菜は集中力がとぎれるのをかんじた。渦は巨大になり光すら吸いこみだす。

 利菜の目論見は予想以上の効果をあげていた。ナバホ族は武器をほうりだし、苦しみの声をあげ始めた。わるいものの影響をうけ、幻覚を見はじめたのだ。
 心にひそむ悪いものが、凶悪さをましてあらわれる。バロウズは生皮をはがれ、助けをもとめる仲間を見た。ワークバイスは世話になった親方にどやされている。怪我のために今だ眠りの床にあった者は悪夢にのたうっていた。ナバホ族の男たちはそれぞれの恐怖をみた。
 トゥルーシャドウはうろたえる仲間を集めようと必死だった。小娘がなにをやったのか知らないが、みな発狂したとしかおもえない苦しみようだ。そして、彼はこうも疑った。やはり森の異変はサイポッツのしわざなのかと――
 ぐるぐると喉をならす音がした。
「どういうことだ……」
 彼の背後には、二十年前に殺した大虎がいた。子どものころ、ディランディランと呼ばれたそのデカブツと、勇気をしめすために一対一で対決したのだ。ディランディランは死んだままよみがえったようで、体は腐り、どす黒い血をたれながしている。
 トゥルーシャドウは無言で身がまえると切っ先を向けたのだった。

 わるいものの影響は、少年たちにもおよんでいた。まともなのはヒッピと利菜だけだった。二人は心がつながっていたから、たがいの精神が支えあっていたともいえた。年長のノーマが凍りついたように渦をみつめている。恐怖のせいか短く息を吐きだしている。
「ノーマ!」
 とヒッピは利菜の腰を抱えこむようにして、ノーマの腕をにぎる。ノーマは最初気づかなかった。けれど、ヒッピが利菜にやられたときの要領で(やり方まで伝わってくるというのはべんりなものだ)、しっかりしろと意識をどやしつけたから、ノーマはようやく彼の方を見た。焦点の合っていないような茫漠とした目だ。
「ノーマ、しっかりして、利菜の様子がおかしいんだ」
 ノーマはのろのろと首をまわす。ヒッピがもう一度、意識をおくりこむとようやくしゃんとしたようだ。
「なぜ平気なんだ?」
 ノーマはひたいに手をあてがい首を振っている。でも、その声はいつものように明瞭だったので、ヒッピはほっとなった。
「はやくここを離れよう。グズグズしてたら、逃げられない!」
「あ、ああ」
 ヒッピは自分のしでかしたことが恐ろしくなった。イニシエの森全体が悪夢にうなされているかのようだ。彼は利菜の目をのぞきこむ、そこに悲しい絶望をみた。この子はなんどもこんな体験をしている。世の中に不信を抱いたとしてもおかしくない。
 そのとき、横合いからビスコが忍びより、持っていた短剣の柄で利菜の後頭部を殴りつけた。ノーマが怒りの声をあげ、ビスコをつきとばした。ヒッピが(後頭部のはげしい痛みに辟易しながら)利菜を抱きおこすが、彼女は気絶している。まずいぞ、とヒッピは思った。ぼくもわるいものの影響をまともに喰ってしまう!
 ノーマがビスコをにらみあげる。「気が狂ったのか!」
 だが、ビスコはあらぬほうを向いていた。ヒッピにも彼が見ている物が見えた。若い男と老人。それは五年前に死んだ兄の姿であり、その脇にいるのは生存しているはずの父親だった。
 ビスコはうめきをもらし、短剣を落とす。生まれてからずっと兄とくらべられてきた。自分の存在をみとめられたことは、一度もなかった。父はおまえが死ねばよかったんだ、と言った。ビスコは青ざめその場にへたへたとしりもちをついた。ノーマが叫んだ。
「ビスコ、しっかりしろ!」
 ヒッピにはその声がひどく遠くにきこえた。ノーマの向こうに、飲んだくれて死んだ父親を見ていたのだ。父は、おまえの母親を殺したのはこのおれだよ、と彼が恐れていたことを口にする。父は酒瓶を手にして、それをあおっている。職人だった父。飲んだくれの父親。そして、右手には血塗られた包丁をもっている。
「父ちゃん、ほんとに殺したのかっ?」
 ヒッピは六歳のときに死んだ父にかけよろうとした。ノーマは利菜を腕にだいたまま、苦労して彼をくいとめた。
「みんな、バラバラになるな!」とノーマが言う。「おれたちが見ているのは幻覚だ! 心をしっかりたもて! この場を離れるんだ!」
 ヒッピとビスコは疑わしそうにノーマを見る。気がつくと、ペックが祈りの言葉をささげている。祈りの相手は、先々日処刑台でみた犯罪人だった。ノーマが罵声をあげて男の頭を蹴倒すと、首がねじ切れて、血を撒き散らしながら地面にころがった。ペックは悲鳴とともに、反吐を吐いた。
「くそ、ほんとに幻覚なのか!」とノーマは言った。
 この世のあらゆる悪意が、その場にいる一同をとりまいていた。ビスコが怒鳴った。
「もう耐えられん。はやくここから離れよう!」
 彼らは一塊になって、愁嘆場と化したキャンプを逃げだそうとした。その行く手をふさいだのはディランディランだった。生前はかなわなかったくせに、死後はその殺し手をねじふせて、子どもの柔肉を喰らおうという腹づもりらしい。ペックはたまらず胃液を出した。肉の腐る悪臭と、ふりまかれる殺意にあてられてのことだった。ノーマとビスコは勇敢にも素手で少年たちの前に出た。ディランディランは雄叫びをあげる。その声には悪夢に苦しむナバホ族もつと顔を上げたほどだった。ヒッピとペックは死を覚悟して、利菜の体に抱きつき、ノーマとビスコは腕を上げて顔面をかばう。
 ディランディランはいまにも襲いかからんと地をかいている。その体にクロスボウの矢が突き立ち、大虎は苦悶の叫びを上げる。
 ワークバイスが言った。
「逃げろ、ヒッピ!」
 ディランディランが前足をふるう。ノーマの腕を野太い爪がかすった。ワークバイスの矢が左目にうちこまれると、ディランディランは視力をなくして(片目は生前からつぶれている)、少年たちに脇腹をみせた。その正面にトゥルーシャドウが立っていた。
「ディランディランよ、暴虐もここまでだ」
 トゥルーシャドウが身をしずませつつ、巨大な剣を左手からひねりあげる。ディランディランは脇腹を串刺しにされ、その腐った体はほとんど真っ二つになる。
 トゥルーシャドウはディランディランを蹴倒すと、狂気を帯びた目で少年たちを見まわした。剣の切っ先をわずかにあげ、間をつめてくる。
「その小娘の目をさまさせろ! あれをひっこめさせるんだ!」
 ビスコは手をあげて、その行進をとめようとした。「まて! 猶予をくれトゥルーシャドウ! おれたちは国にかえって、かならずや戦争をとめてみせる!」
 ビスコのうったえは、トゥルーシャドウの怒りをかきたてた。
「きさまらなどになにができる! 和平などおれたちはもうのぞまん!」
 ワークバイスがトゥルーシャドウの前に立ちふさがった。クロスボウを上げて、トゥルーシャドウの胸に狙いをつけた。
「なんのまねだ、ワークバイス」
「きさまが子どもを殺すところなど見たくもない! もうたくさんだといってるんだ!」
 トゥルーシャドウが剣を振り上げると、ワークバイスは矢を射放った。トゥルーシャドウはワークバイスを切り裂きかけたが、旧友の矢が自らの体を過ぎ去ったことを知り剣をとめた。ふりむくと、宿敵の命を狙おうとしたディランディランが、眉間に強弓をうけ地面に倒れていた。
 ビスコとノーマが目を合わせる。逃げ出すとしたら、いましかなかった。ノーマが利菜を背にかついだ。身をひるがえすと、決死の思いで走った。
「ワークバイス!」
 ヒッピは危険を承知でかえりみた。ワークバイスとトゥルーシャドウは、彫像のようにたたずんでいる。少年たちを追おうともしない。
 ヒッピは彼らにいいたかった。戦争をとめようとしたのはうそではないと。そのために、ハッツ王を呼びだそうとしたのだし、死の危険を感じても、イニシエの森までやってきたのだ。
 だけど、彼には自信がなかった。戦争をとめたところで、憎しみは消えないし、死人を帰すこともできない。彼にできることは何もなかった。だから、なにもいえなかったのである。

◆ 第七章 少年


○ 殲滅作戦

□    十六

「そこをどけ、ワークバイス!」
「きさまこそ正気にもどれ!」
「おれは正気だ!」
「子どもまで捕らえて、なにが正気だ! 異常なのは、兵隊だけだ、あの子たちと話してわかったろう!」
「それはちがうぞ、ワークバイス」
 トゥルーシャドウとワークバイスは、武器をかまえてにらみ合う。
「異変がおこっているのは、われわれの身にもだ」
 ワークバイスの顔色が変わった。彼は何事かを言いかえそうとしたが、銃声がわき起こり、そのつづきは聞けなかった。
 トゥルーシャドウは仲間が血をながし倒れるのをみても、まだ夢のなかにいるような心地がした。耳もとで銃弾がうなり、彼の毛皮を吹きちらす。
「幻覚じゃないぞ!」
 かほどに接近されるまでサイポッツの存在に気づかなかったことなどこれまでなかった。この若長のひきいる集団は、つねに先手をうって、不意をうたれることなどなかったからだ。
 トゥルーシャドウは銃弾をかわすために、身をかがめながら、敵の居所を探ろうとした。皮肉にも、少年たちのために用意した松明が、一方的な殺戮を呼びおこしていた。炎に照らしだされ、格好の標的となっているのだ。
「ワークバイス! 松明を消せ!」
 すぐさまワークバイスが地面の砂をけりあげ松明にかけた。
 利菜の気絶とともに、あの奇妙な球体は形を崩していた。かわりに、どす黒い霧となって彼らの宿営地をとりまいている。トゥルーシャドウは地面にふせると、霧の真下に入り、暗闇を透かし見た。東の方角で、火花がいくつも上がり、兵隊たちの姿が浮かび上がる。
「サイポッツだ! 狙われているぞ! 反撃しろ!」トゥルーシャドウはどなり声をあげる。「バロウズ、リトルロック、仲間をあつめるんだ!」
 仲間はまだわるいのものにつかまったままだった。銃撃に気づいていない者までいた。彼とワークバイスだけは、いさかいのために冷静だったのだ。
 トゥルーシャドウたちは、ちかくにいた仲間をひきずり倒し、幻覚にとらわれた者は殴りつけてでも正気づかせた。
「散らばれ! やつらの銃があるぞ、狙い撃ちさせるな!」
 トゥルーシャドウたちは散開し身をかくそうとしたが、そのときには霧はどんどん濃くなり、夜目のきくトゥルーシャドウにも見とおせなくなった。視界をうばわれる寸前、サイポッツたちが銃撃をつづけながら突貫をかけるのが見えた。ワークバイスが、恐怖におののく声音でつぶやく。
「くそ、見えないぞ……」
 トゥルーシャドウたちは闇になれていなかった。どんな暗闇でも夜目がきくために、視界を奪われるということがないのである。なにも見えないという状況に、ナバホ族は幻覚をみる以上の恐慌におちいった。そのなかで、仲間の悲鳴だけがつぎつぎと上がる。トゥルーシャドウは仲間をすくおうと、剣をひろって立ち上がったが、これでは仲間に斬りつけかねない。声をあげたかったが、サイポッツはそれを手がかりに攻撃をしかけてくるだろう。トゥルーシャドウのまぶたに、過去にみた虐殺の現場がつぎつぎと浮かびあがる。皆殺しにあい、存在すら消された同胞の姿が。その災厄が、自分たちの身にも降りかかってきたのだ。暗闇のなかで、トゥルシャドウは恐怖の空気を吸った。ナバホが、なくなるのか……
「同士討ちをさけるんだ! 頭を低くしろ! 東に逃げろ!」
 トゥーシャドウの頼もしいドラ声も、仲間を勇気づけはしなかった。頬を剣先がかすめる。トゥルーシャドウはよろめきつつも、斬撃をおくったが手応えがない。耳には仲間の悲鳴しか聞こえなかった。
 サイポッツには、見えているのか?
 そう思うのもつかの間だった。全身にいくつもの太刀をうけ、ひざまずいた。なおも屈せず、立ち上がろうとしたが、後頭部に一撃をくらい、彼はその場に昏倒したのだった。
 誰かがそばに立っている。トゥルーシャドウはかすむ視界のなかで、その正体を見きわめようとするが、決して見えはしない。彼がサイポッツから受けとった意思はたったひとつだった。
 消え去れ……

 やがて、意識をとりもどした。トゥルーシャドウは、立ち上がろうとしたが、手足がうまく動かなかった。彼は首をあげ、周囲の様子をたしかめた。霧はなく、サイポッツの姿もなくなっていた。
 襲撃のあった確たることを知らせるのは、たったひとつ、仲間の死体のみだった。
 トゥルーシャドウは、朦朧とする意識のなかで、必死に手をのばし、サイポッツの後を追おうとした。大地に指をたて、いまだに新しい血液を地面にうばわれながらも、懸命に這いずった。
 やがて、ふたたび闇が濃くなり、彼は意識をうしなったのだった。

□    十七

 彼らは夜の森をカンテラも持たずに走りに走った。ナバホ族は一時間で40キロを走るというし、おどろくべき嗅覚と探索の術で、簡単に居場所をわりだしてしまう。木立や枝にぶつかり、石や根に足をとられ何度もころんだが助けあいながら進んだ。
 一歩でも距離をかせぐ必要があったが、少年たちはここ数日の強行軍で体力を消耗しつくしていた。土台、子どもだけでイニシエの森を横断すること自体が、無茶な話だったのだ。とくにヒッピの疲れはものすごかった。脳が疲労し、頭がくらくらした。そのことが、さらに体力をうばっていた。ペックは心配だった。ヒッピは頑固なうえに、人に弱みを見せたりしないやつだ。むりをしているに決まっている。ナバホ族から十分な距離がとれたことを見て、ノーマが休憩をとらせると、ペックは心底ほっとした。
 ノーマは持ち物をだしあって、役にたつ物がないかをたしかめた。
「食料もとられたままだな」
 とノーマはつぶやいた。この日はわずかな朝食以外はなにも口にしていない。状況は深刻だった。旅の荷物はすべて置いてきてしまった。ペックの隠し持っていたコンパスは役にたつが、ここが森のどの辺りなのかは勘にたよるしかなかった。ヒッピは手ぶら。
 ビスコは靴ぞこに隠した短剣をとりだした。彼はそれをじっと見つめた。それから、地面に横たわっている女の子にちかづくと、いきなりその胸に突き刺そうとした。
「やめろ!」
 ノーマがおどろいてビスコをはがいじめにした。
「はなせ! この娘がしたことを見なかったのか、こいつはふつうじゃないんだ! ただの子どもにあんなまねができるか!」
 ビスコは長身のノーマに組みしかれながらも、全身の力で抵抗している。ヒッピは無言でビスコに歩みよると、その手から短剣を奪いとった。
「いいかげんにしろ、ぼくたちが助かったのはこの子のおかげだろう! 利菜は危険をおかしてまでぼくらを逃がしてくれたんだ!」
「ばかをいうな、自分が助かるためじゃないか!」
「この子だって、ぼくらとおなじように苦しんできたんだ。わからないのか!」
 ヒッピは身をふらつかせながらも、気迫でビスコをだまらせる。ペックはリーダー格だったころのヒッピを久々にみたようで晴れがましい気分になった。グループにいたころ、ヒッピはこんなやつだったのだ。
 ノーマが皮肉めいた笑顔をみせる。
「これもわるいものの影響というやつだ。ヒッピ、ナイフをよこすんだ」とナイフを受けとる。「マーサの家にたどりつけるかどうかも怪しいんだ。いまは仲間内で争っている場合じゃない」
「仲間というが、そのヒッピとかいうやつは、ナバホ族とつながっていたではないか。平民のくせに、マーサのことも知ってる。おれたちもろくに知らないというのにだぞ」
「ヒッピはタットン博士と王宮に出入りしてるじゃないですか」ペックが言った。
「マーサはな、こんなときですら、イニシエの森にこもって国にもどろうともしない。おれたちを助けてくれるかどうかも怪しいもんだ」とすごい目でヒッピをにらむ。「きさまは、この森の連中とつながってる、そんなやつを信用できるか」
 ビスコが胸をつくと、ヒッピはたまらず倒れこんだ。ノーマが彼を抱きおこし、額に手をあてた。「すごい熱だ……」
 ペックは上着を地面に敷く。ノーマがそのうえにヒッピを寝かせた。ヒッピは仰向けになる間に気分が悪くなり吐いてしまったが、出たのは胃液だけだった。
「しっかりしろ、ヒッピ」
 ペックはしっかりしろ、とヒッピの背中をなでつづけた。
「ぼくの背中はタオルじゃない。そんなにこするな」
「病人ばかりだな」とビスコは言った。「こんな状態で森をぬけられるものか。手ぶらでどうしろと?」
 ビスコは死んだ兄を見たショックからまだ立ちなおれていなかった。ノーマがペックの耳に、ヒッピを頼むぞ、とささやいた。
「ビスコ、ちょっといいか」
 ノーマはビスコに目配せをして、子どもたちから離れていった。利菜とヒッピが寝転ぶ真ん中で、ペックは座りこんでいる。
「ビスコはぼくがそうとう気にいらないみたいだな」
「君のせいなんかじゃない。ビスコはおかしいんだ」
 ヒッピはじっと天を見つめている。あたりは真っ暗でカンテラの明かりだけがたよりだった。
 ペックは利菜を気にしながら小声でいった。「まだあの子とつながってるのか?」
 ヒッピはうなずいた。「あの子はほんとにぼくらとおんなじ目にあってたんだ。ビスコが冷静でないのも、わるいもののせいだ」
 これから幻覚がひどくなるぞ、とヒッピは言った。
「犯罪が多発しているのは、あの方≠フせいじゃないのかな?」
「わからないよ」
 とヒッピは言った。だが、利菜たちのいう集合無意識とはいい表現だった。ヒッピとペックは話し合った。サイポッツは悪い考えや感情をためこみすぎて、いまは集合無意識自体が悪くなっている。それが、みんなに影響を与えているらしかった。
 ヒッピはすこし気分がよくなったのか、腹のうえに置いた手を、頭の後ろでくんだ。
「こんなところじゃあ、パシィも助けに来てはくれないだろうな」
 ペックがいうと、ヒッピはわずかに笑顔をのぞかせる。
 パシィというのは、二人の共通の友だちで、ペックは長いあいだ会っていない。神官になってからというもの、ヒッピにだって顔をあわせることはほとんどなかった。ペックたちはハブラケットから儀式のやり方を習いはしたが、大鏡には来たことがなかった。ヒッピをつれてきたのは、イニシエの森にくわしかったからだ。
 ペックはうつむき、ひびわれた声を出した。「ごめんよ、ヒッピ。君がくることはなかったんだ。ぼくたちだけでくればよかった」
 ヒッピが彼の腕をつかんだ。「そんなふうにいうな。君たちにはぼくが必要だった。ぼくだけが、大鏡までの道を知っていたんだ」
「だけど……」ペックの目からついに涙がこぼれた。首をふると、その涙が左右に散った。「やっぱりだめだ。君のことを二人に話さなければよかったんだ。いわなければ、ノーマたちだって、ここまで来なかったかもしれない」
「それはちがう。ぼくらはここまでくる必要があった」とヒッピは言った。「ジブレの仇をとるために」
 ペックは驚いてヒッピを見た。ジブレというのも、やはり二人の親友で、彼は今年の二月に死んだのだ。
 ヒッピは言った。「ジブレはまちがっても自殺なんかしない。あいつは死んだんじゃない」
「じゃあ、どうなんだよ」
「あいつは殺されたんだ、利菜の友だちもわるいものに殺されてる、追いつめられてみんな死んだんだよ。あの子たちは想像が現実化して、それで人が死んでると考えてる。でも、ぼくらは昔から幻覚を見てたわけじゃない。こんなはめになったのは、ごく最近なんだ。原因をつくったやつがきっといるはずだ」
「ノーマたちはそれがトレイスじゃないかっていってる」
「あたらしい宰相だな」
 ヒッピが確認に問うと、ペックはうなずいた。
「それとあの方≠セ。あの方の一味……」
 ヒッピは疲労困憊していたが、瞳だけはギラギラと輝いていた。二人の大人の前でかくしていた情熱がほとばしるようで、ペックにもようやく力がわいてきたのだった。
 そのとき、森の暗闇のなかで、気配があった。ほーほーという、奇妙な泣き声が起こった。これも利菜のいうおさそいなんだろうか? ヒッピとペックは身をよせあう。ビスコとノーマはどこまで行ったんだろう?
 二人は恐怖を振り払うために、思い出話をはじめた。
 二人が出会ったのは、三年ばかり前になる。サイポッツの国では、貴族と平民は別々に暮らしている。たがいに顔を合わせることはめったにない。ペックはヒッピに会うまで召使以外の平民はみたことがなかった。なのに、二人が知り合えたのは、ヒッピとタットンが、王宮への登城権をもっていたからだ。ペックの父親が役職につき、身分が格上げされたことにも理由があった。ペックはそれまでいた寄宿舎から、上級貴族の子弟しか入れない、宮廷の学校にかようことになった。二年前のことである。
 ペックは宮廷での生活にまったくなじめなかった。寄宿舎の生徒たちは、宮廷にかよう生徒たちのことを、宮廷組、と呼んできらっていた。気位がたかく、寄宿舎の生徒たちを見下していた。そんなところに通うことになったのだから、心がはずむはずがない。宮廷組には二十人の生徒がいたが、彼らはペックを下級貴族として仲間とみとめなかった。
 宮廷組には、当時、ガントというリーダーがいた。ガントたちにやられたことを思うと、いまでも胃が痛くなる。当時は食欲すらなかった。昼間のことを思いだし、寝付くことができなかったのだ。こんなことになる前から、彼は不眠症に苦しんでいたのだった。
 ガントたちは悪口ひとつをとっても、面と向かっていったりはしなかった。面と向かっていわれても、いやなものはいやだが、背後でこそこそとささやかれ、ふりむくとニヤニヤと笑われるのはもっといやだ。彼らは表立ったことはしないかわりに、陰湿なことならなんでもやった。物をかくされるのも困ったが、口を利いてもらえないのは身にこたえた。寄宿舎では大勢の仲間がいたから、なおのこと辛かったのだ。宮廷での生活はがんじがらめで、数多くの規則は考えるだけでも息がつまるほどだった。そのうえに、ガントたちのいびりにあうのだから、ペックはすっかり神経をやられてしまった。
 ヒッピに出会ったのは、結局はそのいびりが原因だったのだ。
 宮廷組は寄宿舎の生徒とちがって、自宅からの通学を許可されている。あの日は、ガントたちに馬車を出されてしまい、王宮のひろい庭でとほうにくれていた。歩いて帰るには遠すぎる。そもそも通学は徒歩で行ってはいけないことになっていた。そこに通りがかったのが、カンブツ屋の馬車に乗ったヒッピだった。カンブツ屋というのは下町の馬車業者で、テシピとカンビという兄弟が店をやりくりしている。
 ヒッピが交渉し、自宅まで急遽送ってもらえることになった。彼はタットンとともに、平民街の町外れにある自宅(タットンとヒッピはそのボロ屋を研究所と呼んでいる)まで帰るところだったのだ。そこで、タットンとも乗り合わせることになったのだった。
 それ以来、ヒッピとは顔を合わすたびに話をするようになった。宮廷でまともにしゃべってもらえる相手はヒッピだけだったし、ヒッピも周りにいるのは大人ばかりだった。二人は身分のせいで、つらい扱いを受けていたし、子ども同士の会話に飢えてもいた。
 ところが、父親は結局役をとかれて、その年の夏には寄宿舎にもどることになった。ペックにはまたもとの生活が戻ってきたのだが、寄宿舎にいてもヒッピのことが気になった。考えてみると、ヒッピというのはずいぶん孤独な少年だった。タットンとは血のつながりがない。宮廷通いをしているせいで、平民の子どもたちからは裏切り者のような扱いをうけていた。ヒッピは帰る場所がどこにもない少年だった。平民でありながら、平民でない少年――どこにも仲間がいない少年。ペックはそのことを思うとじっとしていられなかった。ヒッピは両親が死んで以来、大人の社会にほうりこまれて暮らしてきた。ペックは休みのたびに寄宿舎をぬけだすようになった。ヒッピとの間に生まれた妙な連帯感につきうごかされて、タットンの研究所をたずねるようになった。そうした過去の出来事をいちどきに思いだしていると、奇妙なほど鼻柱が熱くなった。
「ジブレに会いたいよ……」
「ぼくもだ」とヒッピが言った。「ぼくが森に来たというんなら、君はどうなんだ?」
 ペックはそっぽを向いた。
 貴族とひと目でわかる服装で出かけたせいで、しょっぱなからスラムの子どもたちに追いまわされた。おまけに道に迷って、タットンの家についたときは日が暮れていた。その日はタットンの平民の町に出かけ研究所に泊まることになり、寄宿舎にばれてしまった。下町にいってはいけないという規則はないのだが、独居房に三日間はいらされた。最終日には学長から訓戒をうけた。ペックは平民の子どもの格好をして、家に帰るていで、寄宿舎を抜け出すようになった。週末のあいた時間をつかうことにした。土日は研究所に泊まることになったのだ。
「テドモントのやつ……」
 とペックは言った。ヒッピはその名前が意外だったのか、えっ? と問いかえすような顔をした。下町にはグループと呼ばれる子どもたちの団体がいくつもあった。不良どもの集まりだから、グループ同士は敵対行動をとっておりいさかいが絶えなかった。下町の少年ならばいずれかのグループに所属しているのがふつうだが、ヒッピは平民でも貴族でもないとみなされていた。ヒッピはそのグループの標的となっていた。なかでもテドモントのグループは執拗にヒッピを追いまわしていた。いっしょにいるペックが気に入られるはずがなかったのだ。
「ぼくはな、あいつのことがガントとだぶって見えたんだ」とペックは笑わずにいった。
 ヒッピはおかしそうに笑った。「だから、意地になってたのか?」
 ペックも笑った。「そうだよ、あいつを困らせてやるのが痛快だったんだ」
「テドモントが困ったりするもんか。おまえなんか殴られすぎて、顔が二倍に腫れ上がっていたぞ」
「そんなのおたがいさまだ。君だって、しょんべんが出ないと苦しんでたぞ」
 二人は声をひそめて、クックッと笑った。
 テドモントはいくつもあるグループのリーダーをやっている。異常なまでの情熱で、二人を目の仇にしていた。追いまわされてこっぴどく痛めつけられることもたびたびあった。二人はタットンのつかいで町に行くことがたびたびあったのだ。ヒッピはもう訪ねてくるなとペックを追いかえすようになった。彼の身をおもんばかってのことだった。だが、あれはペックにとっての対決でもあった。顔を腫らし教師たちからけむたがられても下町に出かけた。いつしか自分との戦いになっていた。彼らはグループにもまれることで、逆に友情をふかめていった。
 ヒッピが言った。「テドモントの顔もながらく見てないな」
「あいつの鉄拳がなつかしいよ」
「おまえはあいつに殴られるたびに馬鹿になるな」
 ペックはヒッピのとなりに寝っ転がった。彼らは、二人の青年が聞き耳を立てていることも知らずに、思い出話をした。ただの友人だった二人が、親友になることができたのは、テドモントのおかげだった。彼らは子どもではあったが、貴族と平民の垣根はたがいにあった。
 つまるところ、二人の肚を割ったのは、テドモントの鉄拳だったのだ。

□    十八

 ノーマは先を行くビスコを追いかけた。子どもたちから距離を置きたくなかった、腕をつかんだ。ビスコはふりはらった。だが、さきに進もうとはしなかった。一人になる愚を悟ったのだ。
「しっかりしろ、子どもの前だぞ」
 ビスコは答えなかった。彼はどんなことでも負けを認めたくなかったし、ノーマに父親との関係をしられたことが、屈辱ですらあった。ビスコは訊いた。
「きさまはなにを見たんだ?」
「親衛隊長のヒルギスだ」
「なんだと?」ビスコは驚いた。「やつもあの方≠フ一派なのか?」
「それはわからん。だが、やつが父のもとを訪ねるのを見た」
 ビスコは眉を上げた。「どういうことだ?」
「父はあの方≠フ一派なのだ。いまでは屋敷中がやつの信徒だ」
 ビスコはごくりと唾をのんだ。そんな話を、はじめて聞いたのだ。
 ノーマは家にいても四六時中見張られている気がした。城にいけば誰が味方かわからない有様だ。信頼できそうな人物は軒並みつかまった。そんな中、ビスコだけが生来の口の悪さで、現状に不満をもっていることがわかった。頭の切れる男だが、口を閉じていることができないのだ。
「おれは自分も信徒になるふりをして、そいつの正体を確かめようかとも思った。だが、今のおれではそれは無理だ」
 ビスコはうなずいた。ノーマは幻覚や幻聴にとらわれ、まともに眠ることもできていない。もし、教団のもとに行けば、自分も屈するにちがいない。
 サイポッツの国は、荒廃している。対外的には戦争をくりかえし、国内的にもこの三年は事件の連続だった。ハッツ王が退位し、息子のダッタが王となった。生活を規制する法令がいくつも出され、一年前からは公開処刑もはじまった。夜間の外出は禁止となった。戦争で男手をとられ、犯罪も増えていった。秘密警察が横行し、冤罪でつかまるものが後を絶たない。貴族と平民の関係は、悪化するばかりとなっている。戦争による死者も続々とふえていたが、国内での死者もまけずに多い。リンチが日常化し、武器を携帯しなくては出歩くこともできない。
 ビスコは近くの木の根にすわりこんだ。「ムーア教団自体は古くからある宗派だ。だが、今では、まったくべつの宗教になっている。教主の名もわからん。信者の口をわらそうとしても、あの方としかいわんのだ」
「口をわらそうとした? 誰の口をだ?」
「ルカスだ」
「ルカスだと? あいつか?」ノーマはおどろいた。ルカスは神官の一人である。「では、ハブラケットさまがつかまったのは、あいつが口を割ったからか?」
「そうだ」ビスコはうなずいた。「きさまはともかく、おれはこのまま国にもどっても、ただではすまんだろう」
「だから、ついてきたのか……」
 ノーマは納得したようにうなずいた。ハフスを儀式で呼び出すことを思いついたのは、ハブラケットだった。実行にうつす前に、彼は捕まったのである。ビスコは野心家だが、古ぼけた儀式など鼻にかけてもいない。協力におうじたこと自体が不可思議だったのだ。
「きさまはおれがムーア教団の回し者ではないかと思ったのではないのか」
「きさまのようなやつにそんな腹芸ができるものか」とノーマは放心したように腰を下ろした。「おれときさまは初めから反りがあわなかった」
「それは知らなかった」
 ノーマは笑みをもらした。「いまでもきさまのことは虫が好かん。だが、ここで折りあいをつけるとしよう。仲良くなろうとはおれも思わん。ただ一人でも協力がほしいのだ」
「あんな子どもでもか?」
 ビスコはペックたちのいる方をあごでさした。
「あんな子どもでもだ。それに平民を侮蔑するのはもうやめろ。ナバホ族にもいわれたろう。おれたちの位などくだらんのだ」
「それは蛮族のもうしたことだ」
「だが、ムーア教団をみろ、平民も貴族ものみこんでいるではないか。あいつらの勢力は脅威だ。奴らは独自の階級をつくり上げているときくぞ」
「とんでもない話だ」とビスコは吐き捨てる。「いまの制度を否定するつもりか」
 ノーマは肩膝をつき身をのりだす。「平民のなかにも立派な者がいる。そいつらに会うことだ」
「おれは会おうとは思わん」
「なぜわからんのだ。貴族とて、立派なものばかりではない。出来損ないのようなやつらとて大勢いるぞ」
 ビスコは沈黙した。彼自身は自分を出来損ないのように思いつづけてきたからだ。ノーマは言った。
「人の善し悪しは、身分や生まれではないのだ」
「きれいごとだな」と彼は暗く鼻で笑った。「きさまはどうしたいのだ。貴族をやめ、平民のなかで暮らしたいというのか?」
「そうではない。だが、平民をみくだす考えを改めろといっているのだ。これからは、彼らの協力が必要になるのだぞ」
 ビスコは沈黙した。ビスコはさきほど宰相たちを公開処刑にすると言ったが、そんな権限はここにいる若い二人にはまったくなかった。神官になりはしたが、政治的な権限をまったくもたない役職だったからである。希望をもって近づいたハブラケットは行方もわからないありさまだ。もしかしたら、隠密裏に処刑されているかもしれない。ルカスの通報があったからである。
 ややあって、「閣下がムーア教団に与していたとは知らなかった」
 ノーマはむっとしていいかえした。「きさまの父はどうなのだ?」
「父上は、兄が死んだときから、まともではない」ビスコはこの告白に、自分でもとまどうように唇をしめらせる。「おれのことを兄とまちがえることもある」
 目の前にいるのが、下の息子と気づいたときの父の目を思うと、いまも指先まで冷える心地がする。彼は顔を上げ、ノーマの顔をみすえる。
「ノーマ、よく考えろ。平民と貴族はいがみあっている。和解などはありえない」
「だが、見ろ」木陰のむこうから話し声が聞こえてくる。子どもたちの冒険談のようだった。「平民と貴族が仲よくしているではないか」
「うまくいくものか。おれが一言もらせば、きさまも牢獄行きだ」
 ノーマがにらんだ。
「まあ……もらす気はないがな」
「どのみち、国にもどれるかどうかも怪しいもんだ。きさま、今いる位置が、森のどの辺りかわかるか?」
「おおよその見当しかつかん」
「食料がなくては、おれたちはともかく子どもたちにはきついだろう」
「おれたちもさ。睡眠もろくにとっていないんだ」とビスコは胸をさすった。「それにあの利菜とかいう娘だ。外傷はさほどないのに、本当に死にかけている。ヒッピのいった通りかもしれん。どうしても、マーサの家を借りて休ませる必要がある。それにあの子は国にはつれていけない」
 ノーマはビスコが娘を見捨てるつもりのないことを知ってほっとした。
 そのあと、二人は利菜について話しあった。あの娘は本当にべつの世界からきたのか、だとすれば戻すことができるのかを。あの子もおなじ目にあっていたというが、それはなぜなのか?
 だが、二人の青年は答えを出すことができなかったのである。

□    十九

 二人の少年は、二年前に出会ったパーシバルたちの話でもりあがった。
 パシィ、モタ、パダル、ジブレ――この四人は、どこのグループにも入れないはみだし者だった。彼らは下水道をねぐらに使っていた。
 ペックが神官試験を受けることになったときも、協力してくれたのはこの五人だった。神官になると急に多忙になり、下町に出かけたりはできなくなった。パーシバルたちとは、この半年、顔をあわせていないのである。
 二人はその後に起こったさまざまな冒険についてしゃべりつくした。語るべきことはまだまだあるように思えた。やがて、一息をついた。ペックはふところをさぐって、赤く染め抜かれたバンダナをとりだした。
「持ってきたのか?」
 とヒッピが言った。グループのメンバーに配ったそろいのバンダナだ。下町の子どもたちはグループ同士の抗争がおこると、誰がどこに所属しているかをしめすために、頭にまいたり腕につけたりしていた。
 ペックはそれを力なく握った。
「あいつらに会ってないのが残念だよ」
「そんなことはない。会ってなくたって、みんな君の友だちだ」
 ヒッピはむきになって言いかえした。
 そんなふうに話していると、強い望郷の念にとらわれて、二人は黙りこんだのだった。
 ヒッピはタットンのためにも帰りたかった。こんなところで死ぬのは彼にたいしてもうしわけない気がする。宮廷で差別や虐待を受けたときも、耐えられたのうけようはタットンという存在があったからだ。どんな相手にいかなる扱いをうけようとも、それを受け入れる包容力があった。生きた見本であり、生きた目標でありつづけた。仲間といるときも、彼の真似ばかりしていた気がする。彼の死後一年が経ってもそれは変わらない。ヒッピにとっては、グループの仲間をのぞけば、タットンとの生活がすべてだった。ずっと恩返しがしたかったのに、彼ときたらそれとは逆のことばかりしている。ペックにだって安心させるべき相手はある。利菜にだってあるだろうとヒッピは思った。
 二人は利菜のうめき声で我にかえった。利菜は乾いた血をかさつかせながら、冷や汗をかいている。ヒッピはその子の苦しみを思ってぞうっとした。
「この子はもどれるんだろうか?」
「それはわからん」
 死角から声がかかり、二人は肝をつぶしてふりむいた。木陰からこちらをのぞいていたのはトゥルーシャドウだった。ペックは腰をうかして逃げかけたが、
「しっかりしろ、わたしだ」
 ノーマだった。
「わからないとはどういうことです? さっきもゲートは開いたじゃないですか」
 ペックがいうと、ビスコは考えぶかげに答えた。「戻るのはむりかもしれんな」ヒッピに向いて、「きさま、いっていたろう。その子が大鏡に手をかけたとき、向こうで呼んでいる者がいないと。この子がいた場所でゲートが開いたとしても、呼ぶ者がいなければ戻ることはできないと、そういいたかったのではないのか」
 わかっていたこととはいえ、それでもショックだった。ヒッピはこちら側でゲートを開いたのなら、もうひとつの世界でもゲートをひらく必要があると考えたのだ。そうしないかぎり、二つの世界がつながることはないのだと。
 このままいくと、利菜は見知らぬ世界で暮らすことになる。彼女の外見を考えると、サイポッツの中にとけこむのは難しそうだった。ヒッピは大鏡がこわれたときの利菜の絶望を知っていた。彼の心は重くしずんだ。
 ペックは憤り、「でも、もといた場所にもどすと約束したではないですか」
「おれたちはできそこないの神官さ。その子をもどしてやりたいんなら、生き残りの前神官をさがすことだな」
 ビスコのそっけない口ぶりに、少年たちは顔をみあわせる。
「それよりも、きさまマーサのことを知っていると言ったが、いったいどんな奴なのだ。魔女だと噂されているが、本当にそんな力をもっているのか?」
「空を飛べると聞いたことがあります」ペックが言った。
「飛んだところを見たやつはいない」とビスコ。「マーサは王宮のお抱えなのに、もう五年も国にきていない。逆にいえば、あの方の影響をうけていない、ということになるがな」とビスコ。「もっとも、ムーア教団のほうから訪ねていた場合はべつだ」
「マーサばあさんは、他人においそれと会う人じゃありません。他人のいうことをきくような人じゃないんです」
 ヒッピは言った。
「やはり、マーサを知っているのか」
 ビスコが吐き捨てた。ヒッピはいらいらしていった。
「マーサばあさんはものすごく意地悪なんですよ。あの人に頼みごとをするんなら、その口はとじておくことですね」
「きさま、なんだと」
「さっきもトゥルーシャドウたちを怒らせたでしょう。おかげでこっちはひどいめにあった」
「口の利き方を考えろ。平民の分際で……」
「やくたたずの貴族め」
 ヒッピが面とむかって吐き捨てると、ビスコは赤黒い顔になった。
「いまは人手のほしいときだから我慢してやるが、世の中がもとに戻ったらただではすまさんぞ」
「そのまえに、国にもどれるかが心配ですよ……」ペックががっかりしたようにいうと、三人はだまりこんだ。「ぼくらは自分の居場所もわからないんですよ。マーサの家にだって、たどりつけるかあやしいですよ」
「そうだな。方法をさがすとしよう」
 ノーマがはげますようにペックの肩を叩いた。
 こののん気さは貴族のとり柄だな、とヒッピは思った。とはいえ、他人がなんとかしてくれると考えているのだから始末におえなかった。
「ヒッピ、なにか案はないか?」
 そらきたぞ。
 ヒッピには考えがあったが、その方法を試してうまくいく自信はあまりなかった。だけど、ビスコの前で弱音を吐くのがしゃくで、気がつくと三人に、利菜たちがやった方法を話していた。ヒッピは利菜の体験を、その身をつうじて知ってはいたが、自分でやった試しはないのだから、うまくやる自信がなくともしかたがない。
 ヒッピは一同に手をつながせると、マーサの居場所をさぐろうと意識を集中した。このグループは利菜たちのようにたがいを信頼しあっていなくて、力はずっと弱かった。
 ヒッピはなんとなく東をみた。この方角にいそうだった。それはたんなる勘にちかかったが、ビスコの顔をみると、ますます意気地がわいてきた。ヒッピは向こうです、と東のほうを指さすと、先頭にたって歩きはじめた。その方向にマーサの家があることを、祈るような心もちだった。

◆ 第八章 いじわるマーサの家


□    二十

 それからマーサの家までは一日がかりとなった。夜があけ、昼となり、また夜がせまった。ヒッピはほぼ一直線に進んでいた。肉食獣をさけ、茂みにかくれながらの逃避行で、なんとも心細かった。
 途中、サイポッツの兵隊がのこしていったと思われるキャンプ跡に出くわしたが、やはり助けをもとめるわけにはいかなかった。兵隊たちをいいくるめたところで、国に帰れば罪に問われるのは目に見えている。最近の国情をおもうと、牢獄よりも、縛り首にあう公算のほうが高かった。兵隊たちはそこをたって間がないらしく、焚き火のあとから肉の切れはしをみつけだし、むさぼるように食ってしまった。
 利菜は目をさまさず、ビスコとノーマが交代でせおっていたが、それも重荷になるばかりだ。三人は水をもとめたかったが、ヒッピは家までの道筋をはずれることを懸念した。マーサのいる方角はまだ感じられたが、気をはなすと二度とわからなくなりそうだ。
 ペックはともかく、貴族の二人は文句も多かった。一同はわるいものにおびやかされ(ヒッピがその言葉をつかうものだから、ほかの三人も、その現象をわるいものと呼びはじめた)、いら立っていた。彼らは幻覚と現実の区別にくるしんだ。暗闇のなかをカンテラも持たずに進むのはむずかしい。それにノーマたちはうすい神官衣だけだ、森の寒気も身にこたえた。この道が本当に正しいのか、疑念も持った。だから、目の前に明かりが見えたときは、心底ほっとしたのである。
 ノーマが仲間をかえりみて、喜びの声をあげた。
「ついた、ついたぞ」

□    二十一

「あんなところに住んでいるのか……」
 ノーマが呆然とした。ペックもおなじ感想をもった。マーサの家は、巨大な木の切り株をくりぬいてつくってあった。師匠のエビエラも住んでいたというから、できてから三百年は経っている。周囲には巨木がたちならび、まさしく森のなかにあった。
 昆虫の足のようにつきでた根がなまなましい。
 幹の中央に、古ぼけた扉があった。入り口の左右には窓もあり、そこから明かりがもれていた。
「こんな森のなかで、よくも油がとれるもんだ」
 ビスコがあきれた。ヒッピが言った。
「マーサばあさんは、ハッツ国から油をもらっているんですよ」
 ハッツ国はミツバチ(といっても体長はサイポッツとほぼおなじである)たちがつくった国である。マーサは花から採れる油をもらっていた。ビスコが鼻をならした。
「まあ、あの国とは、戦争していないからな」
 ミツバチは空を飛ぶから、戦争のしようがないのである。
 四人はつれだって、玄関口に立った。ノーマの背中で、利菜はぐったりしている。ヒッピは祈るような気持ちだった。マーサなら、利菜がもとの世界に戻れる方法を知っているかもしれない。
 巨大な木の根の合間に、三段の階段があった。扉に通じている。ノーマが階段に足をかけると、古びた骨組みがぎいいっと悲鳴をあげた。扉をたたこうとしたが、ビスコがその肩に手をおき、待て、と言った。
「こんな夜中まで起きているのはおかしい。中に兵隊がいるかもしれんぞ」
 みんなはビスコの言葉に納得した。森の中に住んでいるとはいえ、マーサはれっきとしたサイポッツだ。兵隊が訪ねていてもおかしくはない。
 ビスコは階段から木の根にうつった。べつの根に飛びうつると、窓枠に指をかけ、中をのぞいた。
 家の中は思いのほか広かった。正面には本のつまった棚があり、つぼや瓶が乱雑におかれている。物は多いが、こざっぱりとしている。大きなベッドが右のはじにある。さすがに魔女の家だな、とビスコは変に感心した。マーサは巨大な机にむかって座っている。椅子のむこうに痩せた肩が見えた。話にきく魔女そのものの格好だ。家の中なのに、フードをかぶっていて、ビスコにはそこにいるのが、老人なのかどうかもわからなかった。
 ビスコは注意ぶかく観察したが、家にいるのはマーサ一人のようだった。
 ビスコは木の根に立ったまま、ノーマをみてうなずいた。
 ノーマがドアをノックする。返事がなかった。マーサはふりむこうともしない。ビスコは眠っているのかといぶかった。
 ノーマがふたたび手を上げると、誰もふれていないのに、扉が内に音をたててひらいた。彼らは口をあんぐりとあけた。入り口には誰も立っていなかった。ビスコはまだ根っこの上にいたが、やはり目をまるくしていた。彼の位置からも扉をあけた者は見えなかった。マーサは椅子にすわったままだ。
「なんだい、サイポッツの小僧どもかい」
 マーサが低い、しわがれた声でいうと、扉がゆっくりと閉まりかけた。ノーマは手をかけて押さえた。
「まってください。ぼくらは助けがほしいんです」
「あたしゃ、助けたくないね」
 扉がさらに閉まり、ノーマはずるりと後退した。ビスコがとびおりて手を貸した。そのすきに、ヒッピとペックは屋内にすべりこんだ。
 家のなかは薬草と古ぼけた木の匂いでむせていた。ランプのじりじりとした灯りが二人の目をやいた。ヒッピにとっては一年ぶりの訪問だった。
 二人はごくりと唾をのんだ。
 マーサがふりむいた。おどろくほどやせっぽちで、しわだれた顔だ。こいつはまちがいなく意地悪だ、とペックは思った。大きな目をしているが、人相が悪い。すすけた色のローブから、真っ白でカールがかかった髪がのぞいている。マーサはその大きな目をぎょろりと動かし、「ヒッピか?」とすこし驚いたようにいった。
「タットンはどうした? おまえまでムーア教団にはいったのかえ?」
「ここにまで、ムーア教団がきたんですか?」
 ノーマが扉の陰をのぞきながらいった。扉の陰には誰もいなかった。ビスコとノーマは顔をみあわせた。
 魔法か? マーサは魔法をつかったのか?
 ビスコが動揺をかくしながらきいた。「そいつらはあなたに何をきいたんです?」
 マーサが手をふった。ランプの火が揺れていた。
「扉をしめな。風がはいっちまう」
 ビスコはおとなしく従ったが、マーサの物言いには肚がたった。それでも部屋は暖かかく、四人はやっと人心地がついた。忘れていた空腹が、急速によみがえってきた。
 ノーマはまだ扉に手を当てている。
「こんな時間にぼくらが訪ねてきたのに、驚かないんですか?」
「べつに驚きゃしないね。いまの世の中じゃなんでもありだ。そんなふうに思うね」といって、五人をみる。「ムーア教団か。あいつらは三度ほど訪ねてきたね。気味の悪い連中だったよ。こっちにさぐりをいれてくるし、なにかに操られているみたいに見えたしね」
 マーサは背もたれに身をあずけた。へとへとの子どもたちを前に、いたわるそぶりもみせない。しかし、ムーア教団の印象は、ノーマたちの見解と一致としていた。どうやらマーサは、ムーア教団にはくみしてはいないようだった。
「ムーア教団だけじゃない。このところは森の種族もぞくぞくと訪ねてくる。あたしから、サイポッツの様子をききだしたいんだね」
「しゃべったんですか?」
 ビスコは非難めいていうと、マーサは急にかっとなった。
「しゃべりたいことをしゃべるさね。おまえだってそうだろう。そのこまっしゃくれた口を、閉じておけない様子じゃないか」
 ビスコはめんくらい、顔をうつむけ怒りをこらえた。マーサの物言いに、ノーマたちはおもわずビスコの様子をうかがった。
 マーサはすこし気をぬいて、「あいつらの身にもなってみな。サイポッツとはこれまで友好的にやってきたんだ。それが急に攻めこまれて殺されたんじゃ、わけのひとつも知りたくなるさ」
「ぼくらだって戦争をしている理由が知りたいくらいです」ノーマが言った。
「あたしもだよ」
「しかし、あなたもサイポッツでしょう」ビスコが言った。
「どうだろうね」マーサは吐息をついた。「あたしゃ、どのみち国には帰ってないからね。森の連中からサイポッツの近況を聞いてたんだから、ばかばかしいじゃないか」
「国に戻ればよいではないですか」
「戻りたくても戻れないんだよ」
 マーサの口ぶりは言い訳がましかった。ヒッピは一同の前にでた。
「幻覚をみるんですか?」
 マーサはつとヒッピの目をにらんだ。なんとはなしに口にしてしまったのだが、ヒッピはその勘があたっていたと思った。
「ぼくらもおなじなんです。幻覚や、悪夢をみるし、無意識に行動してるんだ」と彼はいって震えた。「ひょっとしたら、友だちはそのせいで死んだのかもしれない……」
 マーサは、ほう、と自分の動揺をそらすような声を出した。ペックが言った。
「頭のなかで声がするんです。そいつがぼくらを操ろうとするみたいだ」
「しかし、声にしたがってうまくいくこともある。敵と味方が両方頭のなかでしゃべっているみたいだ」
 みんなはビスコを見た。ビスコの意見が面白かったからだ。この中ではいちばん的を射ているような気がした。
「こんなところに一人でよくもちますね」
 ノーマが感心して部屋をみまわした。自分なら、とっくに幻覚にやられていただろうと思ったのだ。
「手前とおなじにするんじゃないよ。こちとら鍛えようがちがうんだ」
 ノーマがせおっている女の子に、はじめて気がついたように顎をしゃくった。
「その子は?」
 ノーマはここまでの事情を説明した。現在の国の様子もなるべくまとめて説明した。そうしないと自分たちも混乱してしまいそうだ。ビスコがときおり口をはさんだ。自分たちが神官であることを告げたとき、マーサはハブラケットのことを訊いた。ノーマたちは、生死はわからないと答えた。ハブラケットとは旧知の仲のようだった。
 利菜が大鏡から抜けでてきたくだりになると、マーサは顎をせわしくなではじめた。ノーマとビスコの話が終わると、あきれたように吐息をついた。
「おまえたち、その子を血まみれのまま連れまわしたのかい? 体が凍えて、熱も出してるじゃないか」
「わかるんですか?」
 ノーマは驚いた。マーサは椅子から立ち上がってもいない。そういえば、背中にいる利菜の体温がいやに熱いようだ。
「そこのベッドに寝かせな。汚すんじゃないよ」
 とマーサは指示をだしたが、利菜は血まみれのままなのだから、汚すなというのは無理な注文だ。
 ペックが布団をあげると、ノーマは注意ぶかくベッドに寝かせた。
 マーサは枕もとにたって額に手をあてた。利菜がうめいた。
 ヒッピが訊いた。「助かりますか?」
 マーサはヒッピをじっと見た。脳みそまで見ているような、異様な見つめ方だった。
 ややあって、利菜に向きなおった。
「大丈夫だろう。だが、おそろしく無茶をさせたようだね。人間がこんなに疲れることはめったとないよ」
 マーサは利菜の額をなでたり、こめかみや頭部をもんだりした。その間も一同に指示をだして、汲み置きの水をとってこさせ、その水に薬草をくだいて入れさせたりした。マーサは利菜に意識を集中して、四人のことは見ていないのに、その指示はおどろくほど的確だ。四人はつかれているのに、いつのまにかマーサのいうとおりに動きまわっていた。マーサは桶にはった薬草水にタオルをひたすと、利菜の血を拭きとっていった。悪い血だ、悪い血をあびたね、となだめるようにつぶやいたので、少年たちは気味がわるかった。マーサの協力が必要だから、ビスコもだまっていたが。
 ノーマはころ合いをみて、利菜の脈をはかるマーサにささやいた。
「助けがほしいんです。いますぐにでも国に帰らねば、四人ともまずいことになる」
「まあ、神官のおまえが屋敷にいないとなっちゃまずいだろうね」
「家族には、城にいくとつたえてあります。ですが、それ以上に国のことが心配なんです」
 ノーマは切実な口調でいうと、あとはマーサを見つめつづけた。マーサは利菜の頭をもみつづけている。やがて、ため息をついた。
「しかたないね。地図と食料はくれてやる。あとは知らないよ。おまえたち、夜が明けるまで、ここで休んでいくんだ」
「しかし……」
「おだまり。急いだって死ぬときは死ぬんだからね。なんだって、運が肝心なんだ。運気をあげるもさげるも行動しだいさね。もっとも、休息がいらないんなら話はべつだ。暗い夜道を歩きたけりゃ、好きにしな」
 休息と聞くと、ペックはたまらずに座りこんだ。それをみて、マーサは意地悪くいった。
「男のくせにへたりこむんじゃないよ。しゃんとしな」
 マーサはヒッピに命じて食事を用意させた。ペックが椅子を用意した。こんなところに客が来るのか不思議だったが、ともかく椅子は常備してあった。いかにも手作りで、ふぞろいだ。
 一同は遅い食事にあずかった。しばらくしてマーサも席についた。ヒッピがお茶を用意すると、マーサは渋そうにすすった。
「あの子はどうするんだい?」
「どうするもなにも……」
 ノーマはビスコをみた。ビスコは固いパンをほうばりながら、マーサのことをにらみつけている。マーサのことが信用ならないのだ。
 マーサはまたため息をついた。
「しかたない、ここに置いていくんだね。あの娘はいまは動かさないほうがいい。国にはおまえたちだけで帰るんだ。ヒッピ、おまえも帰れないよ。ここに残りな」
 ヒッピはのどをつまらせた。マーサはかき口説くようにいった。
「おまえはのこるんだ。国には帰れないよ。あの娘と精神がくっついちまってるんだからね」
「わかるんですか?」
 ノーマが言った。利菜とヒッピの話はしていなかったからだ。
「当たり前さね。それだっていいかげんな儀式のせいさ」と舌打ちした。「ハブラケットはなんでおまえたちみたいなのを弟子にしたんだろうね。こんな連中を世におくりだすあいつの気が知れないよ」
 ビスコが苦々しげにいった。「ハブラケットがつかまったせいで、ぼくらは修行を終えていない。あなたが閉じこもっているあいだに大変なことになったんだ」
「タットンは無事なのかい?」
 マーサが話題をかえると、ヒッピが答えた。マーサはタットンも一年前に亡くなったと、きくとひどく落胆したようだった。ヒッピは奇妙な安堵感をおぼえた。自分以外に彼の死を悲しんでくれる人間がいることにほっとしたのだ。
 ノーマが訊いた。「あの子はいったい何者なんでしょう?」
「何者かなんてあたしにはわからん。しかし、修行はおまえたちよりつんでるようだよ」
 四人は利菜の力は目のあたりにしていた。だから不承不承うなずいた。
「この子はむこうの世界の魔法つかいなんですか?」とペックが訊いた。
 マーサはまたかっとなった。「魔法つかいなんて言葉、あたしゃ嫌いだね。おおかたおまえたちも、あたしが不可思議な術をつかうと思ってるんだろう?」
「空を飛べるんじゃないんですか?」
 ペックの失言にノーマとビスコは顔をしかめたが、マーサは大笑いをした。意外に人好きのする笑顔だった。
「そんな噂を信じてるのかい? そんなまねができるはずがないだろう。まったくばかだねえ」
 ヒッピの方がこの言いようにはむっとした。
「それで、利菜は戻れるんですか、戻れないんですか?」
「わからんね」とにべもない。「偶然にしろ、おまえたちはべつの世界との境界を開けちまったんだよ。ところがなぜ開いたのかは、わからんときてる。正確でない儀式をやって、まちがった結果を出しちまったんだから。つまり、おまえたちがやったのは死者を呼びだす儀式なんだろう? 死者なら大鏡にうつるはずだ。それが鏡に妙な穴があいた挙句に、生身の人間がでてきたんだからね。これは容易じゃないよ」
 とマーサは言った。
「べつの世界というものは、ほんとにあるんですか?」
 ノーマがきくと、マーサはうなずいた。「あたしはあると思ってる。師匠のエビエラがそういっていたからね」
 四人は納得できないまでも、うなずくしかなかった。
「といっても、あたしも儀式にはくわしくない。あれは王族の秘法でね。王家の神秘性をしめすために、だいだい受け継がれてきたものなんだ。あたしゃてっきり格式だの形骸化されたもので、じっさいにはつかえないものと思っていた」マーサは顎で壁のほうをしめした。「うしろに書物が山積みされているだろう。さっき王族の秘法と言ったね。だからあの中にも載っかっちゃいないんだよ。少なくともあたしの師匠は教えちゃくれなかった。神官職の専門はやはりハブラケットさ。儀式のことならあいつにきくべきなんだよ。つまるところ、おまえたちはあたしのことを誤解している。あたしはおまえたちが考えてるようなおかしなもんじゃないんだよ。あの子をふたたびもとの世界に戻すなんてできない。世間は魔法だなんていうが、あたしがつかうのも、しょせんは意識の力、精神の力でしかない。誰でもできるだろうことしか、あたしにだってできないんだよ」
 ヒッピはわかる気がした。利菜の置かれた状態を知っていたからだ。利菜はふつうの子どもだったのに、異常な状態のなかで、知らず知らずのうちに力を発揮してきた。それはわるいものから逃げのびるために必死でやったことだった。ヒッピがそのことを話すと、マーサは得心したようにうなずいた。
「まったく、実践にまさる修行はないってことさ。外からの働きかけがあったにしろ、この子は自分の命をすくいたくてこんな力を身につけたのさ。おまえたちだって大なり小なりそうだ。この子のいうわるいものやおさそいに引っかかって、まがりなりにもそれに抵抗してきたんだからね」
 ノーマたちはおさそいという言葉には納得できた。彼らは意識的にも無意識的にもかかわってくる、ムーア教団の誘いに抵抗してきたからである。
「この子のいたのが、まったくべつの世界だったとして、なぜ我々とおなじことが起こっているんです?」
 とビスコはこんどは丁重にきいた。ノーマたちは顔をしかめた。ビスコはヒッピにいった。
「きさま、いっていたろう、この娘と仲間も、幻覚や幻聴をきいていたと。この子らは、わるいものだとか、おさそいだとかいっていたようだが……」
 マーサはぴくりと眉をうごかした。
「そりゃあ、どういうことだい?」
 ヒッピが言った。「利菜自身がぼくらとおなじ体験をしているんですよ。故郷で犯罪が多発しているところもおんなじです」
 マーサは吐息をついた。「ひさしぶりに会ったと思ったら、厄介ごとをもちこむじゃないか」
「マーサおばあさんが国にいたら、今ごろとっくに殺されてますよ」
 かもしれないね、とマーサはつぶやいた。「あたしに王都にもどるな、と言ったのは、ハフスのやつさ」
「それはいつのことです?」
 ビスコがきいた。
「一年ほど前になるね。手紙をよこしてきたのさ」
「そのご、国王と連絡は?」
 あいつはもう、国王じゃないよ、とマーサはことわってから、
「ないね。この一年間、連絡はなかった。しかし、ハフスがまともなら戦争などには反対したはずだ」
 みんなはうなずいた。ハフスの不在を不審におもう者は多かったのである。
「ハフス大王は、なぜあなたに森にとどまるよういったのでしょう?」
「わからんねえ。あたしはあたしで、ダッタのことですっかり腹がたってたもんでね。王都なんざ、こっちから願いさげだと思っていたよ」
「あなたの身をまもるための言動だとしたら、ハフス大王は危険を認識していたことになる」
「奇妙なのは、トレイスという男です。現在は宰相なのですが、ご存知ですか?」
 マーサはすこし考えこむそぶりをみせ、「トレイスか、聞いたような気もするが……」
「そんなはずはないですよ」ペックが言った。「貴族名鑑にも載っていない名前なんです」
「それも、あらわれたのは、ちょうど一年前だ」とビスコ。
 みんなは黙りこんだ。ノーマが言った。
「出自がまったくわからない人物が、宰相になれるものでしょうか?」
「普通に考えればありえん話だが、ダッタの懐刀だったということも考えられる」
「貴族名鑑にも載っていない人物がですか?」
 ノーマは疑わしそうにいった。
「あれに載っているのは、当主と長男までだからね。次男三男でも、出来る奴はいるだろう」
 ビスコが、「だとすると、ハフス王の失踪には、ダッタ王もかかわっていることになる」
「あるいは、ダッタ王自身も謀られているのかも……」
 とノーマ。
「まあ、ここで話しあったところでしかたないさ。状況がわからないんだからね」
 一同はマーサの用意した毛皮のうえに横になると、遅い就寝についた。マーサの家に予備の布団はないから、彼女のローブをはおると、あとは泥のように眠った。

□    二十二

 マーサは薬草をとりよせ、利菜の体をふきとりはじめた。ランプのかすかな灯りが彼女の手もとだけをうすく照らしている。明日から忙しくなるね、と彼女は思った。あの三人を無事に国まで帰りつけるようにしてやらなくてはならないし、利菜とヒッピの修行もはじめなくてはならない。もっとも、この利菜という娘だけは、しばらく目をさましそうにないが。
 まずはこの娘を死なさないことだと彼女は思った。
 マーサは異界からきたという少女を見下ろした。利菜は高熱をはっし、玉のような汗をかいている。あちこち傷だらけだし、内臓もいためているようだ。ここにくるまで異常なまでの体験をしてきたにちがいない。マーサは傷口に膏薬をはると、粉薬をむりやり飲ませた。
 マーサは娘を見ていて、なにか心にひっかかるものを感じたが、それがなんなのかはわからなかった。異界から境界をくぐってきた人間をみるのはマーサも初めてだった。エビエラは見たことがあると言ったが、詳しいことは聞けずじまいだった。はっきりしたことを言わなかったのである。
 マーサは玄関口にたった、四人の姿を思いおこした。あのときは、ふたたびハフスたちが訪ねてきたのかと思いおどろいた。あれから三百年もたっているというのに、いまさら近似追憶がおころうとは思いもしなかった。
 あのときも、追いかえそうとしたエビエラに、ハフスらは頼みこんで離れなかった。このさきのたいへんさも似通ってくるのかもしれなかった。三百年と昔の出来事なのに、マーサの記憶ははっきりしていた。
 エビエラから死にぎわに仰せつかったこと、それはまさに番人の役目にほかならない。ちょうど利菜が眠っているそのベッドで、エビエラはすこしずつ死体にちかづく体と向きあいながら、目だけはしっかりマーサを見ていった。「おまえは生き証人だ、しっかり見張っておくんだよ」
 マーサがいま国にいけば、どの陣営かにはつかなくてはいけなくなる。おそらくはハフスの陣営につくことになるだろう。だが、ハフスたちのしていることが正しいとはかぎらない。
 ハフスが死んでいるとしたら、それは残念なことだ。昔を知る仲間がひとりもいなくなったということである。マーサは孤独だった。一人だけ長命を約束され、過去をわかちあうものもなく、老いていくことが苦痛だった。ひょっとすると、自分はサイポッツではないのかもしれないし、多種族との混血なのかもしれなかった。世間はマーサのことを百歳はこえているのではないかとうたがっているが、実際はそれ以上の長命なのである。
 エビエラが死んで、もう二百年以上になる。エビエラはいまのマーサですら追いつくことができないほど偉大な力をもった魔女だった。そのくせ他人を信用せず、わずかな人にしか心を開けない、さみしい人でもあった。
 はじめてエビエラという老婆のところを訪ねたときのことを思い出すたびに、淡い感情がかすかな火種のように心にともった。
「なんであたしがおまえなんかを弟子にとらなきゃならない。理由はなんだね。いってみな」
 エビエラはそういって、なんどもマーサのことを追いかえした。マーサは意地になって、エビエラのもとにけしかた。毎日かかさず押しかけては、怒鳴られ、こづかれ、追いはらわれた。
 本当に、雨の日も風の日も、危険な森のなかを歩いてエビエラの元をおとなった。いまとなっては理由を思いだすこともできないが、絶対にこの森で暮らすんだという強い信念でもって、エビエラに懇願しつづけたのだ。あの時は彼女も二十代の若さだったし、身よりもなく働く職場もなく、いくらでも無茶ができたのだった。
 最初のうちは、とびらも開けてくれなかった。エビエラの家ですごす時間は、しだいに延びていった。ある日、とうとうエビエラが折れた。
「まったく、おまえみたいな頑固にはあったことがないよ」
 マーサの脳裏に、ぐったりと椅子に身をよこたえ、ぶつぶつ文句をいっているエビエラが浮かんで、彼女はにやりと笑った。正式な弟子になると、エビエラは情け容赦なくマーサをこきつかった。いちいち小言をまくしたてては罵ってまわり、修行はたいへんな辛さとなった。いま考えても、なぜ逃げ出さなかったのか、不思議なくらいだ。
 とるにたらない口論も、いまは懐かしいものだった。
 気がつくと、マーサはエビエラの弟子として、城に登るようになっていた。エビエラは厳しくて悲しい人だったけど、マーサにだけはいつか心を開くようになっていた。エビエラは恐ろしい女だった。皮肉り屋でいつもなにかに忿懣をいだいていた。そのくせ、ひどくさびしがってもいた。
 マーサは自分にだけはわずかに本心をかいまみせるエビエラを、いつか敬愛するようになった。エビエラはサイポッツとしては、他人に誇れるような人ではなかったが、それでも偉大な魔女ではあった。
 エビエラが死んでも、マーサは一人で森にいた。ふと気づいてみると、故人とおなじ暮らしをしていた。彼女自身がそうなることを望んだのだった。この森で暮らすんだという信念がずっとつづいて、マーサはこの家を離れることができなかった。
 それにしても、不思議なのはハフスだった。マーサの反対をおしきって、王位をゆずり、いまでは行方もわからないときている。耄碌したとしか思えなかった。しかも、少年たちの話では、平民の暴動がいまにも起こらんとしていると言う。どうやら、森の奥にひきこんで見守っているわけにはいかないようだ。
 とはいえ、国にもどっても彼女ができることは少ない。王位継承に反対したことで、追放にちかい扱いをうけていたし、いまの宰相たちが自分のいうことを聞くとは思えなかった。宮廷魔術師といっても名ばかりの役職で、そんな権限自体が彼女にはないのである。
 本当のところ、とほうにくれていたのは、マーサも同じだったのだ。


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